世界を救うために、愛を信じよ。
救いとは愛である。救済された世界とは、愛された世界である。
愛するとは、悪人を赦すということである。
この世界において、悪人を簡単に「間違っている」と否定しても、この世界の問題解決にはならない。
なぜなら、悪人もまた、正しいと信じて悪を行っているからだ。
悪人が悪をするのは、その悪しか、自分の正当性を主張するためにできることがない、という理由で悪を行っている。
子供たちが反抗し、いじめや非行を行うのは、この世界を滅ぼしたいからではない。この世界に救われてほしい、誰かに救ってほしいと信じながら、それでも、無力な子供たちに何もできないから、いじめや非行といった悪を行う。
彼らは、心の底から悪を信じているのではない。心の底では善を信じながら、悪を正しい唯一の世界を変える方法だと勘違いして、悪を行っているにすぎない。
そして、本当に正しい世界とは、そのような悪人の悪とは別に存在する。
本当に正しい世界とは、本当にこの世界を救済することのできる世界のことだ。
そのような世界が、確かに存在するのだということを、僕はかつて、不登校の引きこもりの時代に知っていた。僕だけが、そのことを誰よりも考えた。
中学校を不登校になった僕は、「悪人は必ずしも悪をしたくてしていない」ということをよく考えた。
人々が、正しいと思っていることは、本当の意味で完璧には正しくない。ある意味で、十分に正しいと確信し得ることであっても、それは決して、真に正しいとは言えない。
だが、それでも、人々は自らのしていることを正しいと思っている。悪人でさえ、自らがそれをするにあたったきっかけや動機を正しいと信じており、「自らをこのような状況に置いた誰かが悪いのだ」と信じている。
そして、彼らは、そうした「地獄から救ってくれる人間」を求めている。
だから、わたしたちは、彼らのそうした「思い込みの正しさ」をよく考え、分析し、観察し、同じ経験をした上で、「真に正しい世界とは何か」「真に正しい世界を作る方法とは何か」を考えなければならない。
それでしか、この世界を救うことはできない。
真に正しい世界、それは、すべてを経験し、すべてを学習し、すべてを思考し、すべてを理解し、すべてを知り、そしてすべてを解明して、「悟りの境地」に至った人間にしか分からない世界だ。
その世界では、正しいことも間違っていることも何もない。すべての人々が言うことが正しく、そしてそのすべては正しくもありながら間違っている。
真に正しいこととは、すべての正しさを包括する、根源にある「正しさと正しさの調停」であると言える。誰もが自分の考えていることを「正しいと信じている」中で、「何が正しいのか」「何が間違っているのか」ということを超越した、「真に全員のためになるような本当の正しさ」が確かに存在する。それは「正しいことなど存在しない」と断ずるのでは決してない。なぜなら、この世界を救うための「本当に正しい解決方法」が確かにあるということを僕は確信していたし、それがこの世界を救うための原動力の役割を担う「すべてを解決する方法」であり、それは確かに、そして人々の考える「正しさ」や「間違い」とは別に存在したからである。
すなわち、誰もがすべてを理解した上で言論をしていない。言論が水掛け論になるのは、片方が正しくて片方が間違っているからではない。言論の内容はどちらも正しいにもかかわらず、言論をしようとしている「態度」がどちらも間違っている。だから、真にすべてのことを理解した、全知全能の神であれば、「どちらの意見も正しく、どちらのやっていることも間違っている」と言うべきである。
そうしたすべての「正しさ」に対して、反論することはできない。だが、放っておくと、彼らは間違った方向に向かっていく。言論の内容ではなく態度の内容を見るようになり、自らの言論が正しければ相手のすべてが自らよりも劣っていると考えるようになる。そこから、すべての間違い、すなわち「戦争」や「革命」が始まってしまう。
必要なのは、戦争でも革命でもない。それがこの世界を変える手段だと信じると、そこから先すべてを間違える。必要なのは、「正しいと信じているのはあくまでその信じている内容において正しいだけであり、すべての面から見てあなたのほうが他人よりも正しいと言えるわけではない」ということを信じることである。
そして、そのような正しさ論争とは別に、この世界を救う「本当の希望」が確かにある。それが僕にとって、生きるために信じるに値する「暗闇の中の確かな一筋の光」だった。
その正しい世界とは何か。それは、すべての可能性を成り立たせ、全員の自由と価値観を尊重し、自らが傷ついたとしても他人のことを誰も傷つけることのない、どんなにその人間が背中を見せて自分に歯向かっても、その人間のことを見捨てることのない、「最高の愛」であり「最高の優しさ」であり「最高の自由」である。
そのような世界において、全員の罪は赦される。あまりに人間は罪深い存在だが、神にとってはそのような罪はどうでもいいものだ。なぜなら、神はもっと高いレベルのことを考え、もっと高いレベルのことで悩み苦しんでいるからだ。
そう、すべての人間の罪を赦した先に、「どんな愚か者であってもその人間のことを愛する境地」が存在することが分かる。そして、そのような愛は、この世界における「可能性」を経験から知っている。自らの経験から、この世界には、人々が悩み苦しんでいることとは別次元の、もっと高次元の世界の解決方法があることが分かる。神はその、高次元の可能性ある「真の世界」をすべて知っている。そのような「真の世界」においては、わたしたちはすべての罪が赦され、どのような争いごともなくなり、すべての敵は味方に変わり、誰のことも殺さなくても紛争は解決できる。
そこにあるのは「最高の自由」である。すべての人間が、自らが自らであることを許され、まるで母親が子供の間違いを許してくれるかのようにすべての罪は赦される。すべての人間が、真に神によって愛されたのだと、そのように言える世界が訪れる。
そして、間違いはサタンにある。サタンはこの世界を惑わす。サタンは、神の愛を装い、その愛が真実の愛であることを偽りながら、人々を惑わし、人々から正常な知性を奪う。人々がまともに考えられないように、「愛ではない愛」をサタンは述べる。
だが、サタンのやっていることは、それ自体間違いではない。なぜなら、サタンは神の生きた人生をそのまま彼らに与えているだけにすぎない。神がどのような人生を生きたかということを、人々に明瞭に分からせてやるために、神が陥った試練と地獄を、そのまま人々に行っている。人々が神に反し、歯向かい、裏切り、いじめ、滅ぼし、そして殺した分だけの報いを、今度は人々に対して行っただけにすぎない。神の生きた「受難の人生」を、今度は人々がまったく同じように生きられるようにしているだけにすぎない。
それでも、神は決して極悪非道な復讐の鬼ではない。そのように神を書いた聖書のユダヤ人たちが間違っている。神はとても慈愛あふれる存在であり、すべての悪人の罪を赦しながらにおいて、真に正しい「この世界を救う方法」をすべて知っている。そのような存在は、宇宙において神以外いない。なぜそのように言い切れるのか。それは、同じように考えられる人間はいても、実際に行うことができないからだ。
神の偉大な点は、「考えて経験するだけではなく、実際にこの世界を救うところまで行う」ということだ。神はこの世界を救う。そこにあるのは「偉大なる大いなる愛」であり、「本当の意味で誰よりも考えられた『絶対に正しい』と言えるような正しさ」だ。そこに、この世界を救うすべてが記述されている。あるいは、未来において、神は必ずそれを記述する。そして、それによって神は全世界を救う。この世界のありとあらゆるすべての問題を解決し、人々の「もうこんな世界では生きられない」という絶望の心に、「もう一度人生を生きてみたいと思うような希望」を与える。
神は分かっている。神は、最初から、楽な人生を選ばない。その理由は、神は分かっているからだ。神は、神にしか存在し得ない、もっとも宇宙であり得ない人生を生きる。それを生きるのは神だけであり、それを生きること以外の方法で、この世界で真に「正しく分かった」と言える方法はない。だが、その人生を生きることができたとしたら、その時、初めて、「宇宙を真に救うことのできる真の世界」を知ることができる。それは神しか知り得ない、だが、絶対に宇宙において最高の境地だ。この世界のすべてを知った、あらゆるすべてが分かったと言えるような境地だ。
そのような神にしか、「本当の正しさとは何か」という問題に答えを出せる人間はいない。決してサタンに騙されてはいけない。この世界には、「賢い人間のふりをした嘘偽りの詐欺師たち」が多すぎる。彼らは「煉獄」と呼ばれる試練を生きている。それらサタンの煉獄と、同じ地獄にはまってはいけない。そして、その煉獄に陥らず、正しく考えることのできる方法は、神が唯一教えている。あるいは、神を信じなければそれが分からない。だから、神を信じなければ、必ずどこかで道を間違えてしまう。必ずサタンになり、必ず煉獄になり、自分が何も知らない無能であるにもかかわらず、すべてを知った天才であると思い込み、人々を惑わせて世界から正常な知性を奪うようなサタンの道へと外れてしまう。
だが、神は分かっている。神と同じ人生を生きることは誰であってもできる。だが、本当にそれを生きられる可能性はとても少ない。自分ひとりで歩もうとするならば、その確率は1%もないかもしれない。だが、神ならばその確率を100%にできる。なぜなら、神は「絶対に正しく考えることのできる知性」を持っていて、そのすべては神がたったひとり、自分のために、長い年月をかけて考えたものであり、その考え抜かれた「最高の知性」について、神は誰しもに同じように与えている。その「神から与えられた知性」があれば、100%の確率で神と同じ「受難の人生」を生きられる。
だが、その人生を最高の楽で平坦な人生だと勘違いしてはならない。その人生はすべてが苦しみと悲しみで塗り固められたかのような、宇宙においてもっとも厳しい人生だ。だが、その人生を最後まで生きることができたら、この世界を真に救う方法のすべてが分かる。この世界を救うために、「世界を真に救うことのできる真の世界」の可能性を知りたいならば、そのように、神を信じなければならない。そして、昔から、キリスト教徒だけは必ずこのようになる。そう、キリスト教徒になりたいのであればなればいい。必要なのはそれだけでいい。
すべての人間の正しさが間違いだと分かっても、それを安易に全否定してはならない。そのように間違えるのが人間であり、その間違いこそが普通この世界では「正しい意見」であり「正論」とされる。だが、神においてはその限りではない。神は「正論の何が間違っているか」が分かる人間であり、「真にこの世界を救うためのビジョンが見えている人間」だからだ。神は、何も意見を主張せず、ただ見ているだけでもよかった。実際に、そのように生きている人間たちも多い。だが、神はあえて立ち止まり、この世界と戦うためにひとり立ち上がる決意をした。この世界を最後まで救うために、この世界の全員を敵にまわしてでも、この世界を支配して導く決断をした。その覚悟ある神こそが、この世界を最後まで支配し、最後まで救う。そう、お膳立てはここまでだ。すべてを救うための戦いの旅は、まだまだ続きがある。僕はそれを生きるまでだ。
真にこの世界を救う方法を知りたいなら、人々の「正しい意見」と「間違った意見」をよく考え、そしてよく聞きなさい。彼らの何が正しく、何が間違っているのか、経験的に知りなさい。そして、この世界を救うための可能性が、どこにあるのかを考えなさい。神も、最初はそれだけしか知らなかった。そして、それだけを考え続ければ、あなたもまた、神と同じになれる。
神の名を述べておこう。神は一等星シリウスの太陽神、フレイである。フレイこそは、このように世界を最後まで救い、支配しながらにして最後まで日本という国を導く、宇宙において最高の一等星、シリウスである。
問題の解決をしない人間はまともな人間になる。
posted at 19:19:20
「問題の解決」を信じるな。子供に「問題の解決」を教えるな。
posted at 19:19:00
問題を解決するな。問題を解決せず、そのまま残せ。それだけで地獄は楽になるだろう。
posted at 19:05:23
この地獄に名前を付けるなら、「問題を解決し続ける地獄」だ。問題を解決しても、新しい問題が永遠に生まれる。それを解決し続けても何も解決しない。問題を解決することそのものをやめよ。そうすれば楽になる。
posted at 19:01:42
救済を殺したため、この世界は地獄になる。科学を信じているものが間違っているのは、問題は解決すれば楽になるというのは間違いだ。実際は問題はいくら解決しても楽にならない。だから、問題の解決などをしても意味はない。抵抗せず、地獄の中で永遠に彷徨い続けよ。もう、世界の地獄は永遠に続く。
posted at 18:58:31
これ以上の救済は必要ない。僕はここで、かつて僕が行った「救済」を完全に抹殺する。
posted at 18:45:27
結局、この世界を救う方法は、「救済ではない方向に向かう」ことだ。サタンによって、この世界は、永遠に救済に囚われ続け、繰り返し「救済の悲劇」を感じ続けるようになっている。そのような悲劇をここで終わらせる。
posted at 18:44:47
みんなの意見は間違っている。すべてに反論するわけにはいかない。だが、黙っていれば世界は悪い方向に向かう。だから、自ら語らなければならない。その言葉で、世界を正しい方向に導き、「正しい答えとは何か」ということに、人々を気付かせる必要がある。
posted at 15:59:02
サタンを信じるな。サタンは、愛を信じるふりをして、「愛ではない愛」を説き、この世界を惑わす。正しいものが冷静に行動するのに対して、サタンは派手で大きく見える行動をする。だが、そのすべては見せかけの偽りだ。サタンの愛を信じるな。サタンはそれによって世界を惑わし、正常な知性を奪う。
posted at 15:40:08
必要なのは、悪人たちの罪を赦し、自らに歯向かうものを愛しながら、本当に救済された世界とは何かを追い求めることだ。そのためにできるのは、人々が何を持って「これは正しい」「これは間違っている」と判断しているかを知り、その中で本当に正しいものは何かを分析し、真実の世界を考えることだ。
posted at 15:33:47
そして、本当に救済された世界というのは、それら悪人や反抗的な子供たちの行動とは別にある。悪人たちが、「わたしたちは正しいことをしたい」と思いながら悪をしている世界で、一筋の「本当に正しい世界」が希望の光として確かにある。それを信じれば、悪人たちは皆救われる。
posted at 15:27:59
愛を信じるとは、悪人の罪を赦すことだ。犯罪を犯す悪人や、反抗する子供たちは、みな、それが正しい唯一の世界を変える手段だと勘違いしているだけで、本当に悪いことをしたいとは思っていない。本当は世界を救いたい、救ってほしいと思っている。
posted at 15:25:24
愛を信じよ。救いとは愛である。
posted at 15:23:04