病気を治すために必要なのは、自分が病気であることを認めることだ。
自分が病気であることを認めようとせず、自分が病気であることを受け入れず、隠し、どこかに消してしまおうとしても、病気は決して治らない。
自分が病気であることを認め、受け入れ、その上で病気を治そうとすれば病気は治る。
そもそも、「記憶を覚える」ということは「認める」ということだ。認めることで初めて記憶を覚えられる。認めることで初めて思い出すことができる。
僕にとって必要なのは、現実世界を見ることだ。
現実世界を見ないことが、「新しいことを分かる」ということであると思っているなら、それは間違っている。
確かに、現実世界を見ないことで、そのことを既に分かったと思うことなく、新しく捉えてその時分かる、ということはできるだろうし、新発見や大発明をするつもりならそのほうがいいだろう。
だが、現実世界を見ることで、この世界で「生きる」ことができる。
現実世界を見るということが、すなわち「生きる」ということであり、現実世界を見なければ、「生きる」ということはできない。
僕は、そろそろ、生物学を勉強することにした。
この生物学の勉強をもって、僕の「大学の勉強」は終わりとなる。
生物学は馬鹿ではない。なぜなら、生き物を知ることで、「生きるということの基本」が分かるからだ。
生物学は、動物や植物といった、人間よりもレベルの低い、馬鹿な生物を学ぶことでは決してない。
生物学を学ぶことで、人間は「生きるということの基本」を知ることができる。
生物学を学ぶと、さらにいいことがある。作家やデザイナーの仕事が誰よりもできるようになる。
作家やデザイナーに必要なのは、生物学あるいは歴史のような、「書く(描く)対象に関する知識」である。
だから、生物学を学べば、僕はきちんと作家やデザイナーになれる。
そして、昔の自分自身を思い出す必要はもうない。
なぜなら、昔の僕は、未来を既に知っていただけにすぎないからだ。
未来において間違いや失敗だと言えることを憎み、未来において成功や達成であると言えることを信じていただけにすぎない。
たとえば、昔はすべての科学者を包括しようとしながら、分からない「未知のこと」を考えることを否定し、経験から帰納的に分かろうとした。
そう、未来において今、僕がしていることを、もっと正しい形でやろうとしていただけにすぎない。
昔の僕は未来の自分のことをすべて知っていた。
たとえば、神は「ギリシャ神話が正しい神話」だと言っていたし、僕について「イスラエルで普通の共産主義をやる」と言っていた。
未来において、そのようなことが本当に行われるよりも前の時点で、僕は過去にそのような「自分が分かること」をすべて分かっていた。
だから、未来のことは全部決まっていると思えばいい。
僕はノーベル物理学賞と生物学賞を取ることになっている。そのような未来はすべて当たる。「右翼の心理学者の黒人」とか「イスラエルの最高指導者のラビ」と言っていた人物は重要人物であり、未来において僕の目の間に現れる。神は僕に「ロシアに拉致される」と言っていたが、「あなたは長生きする」と言っていたし、「ロシアの大統領になる」とも言っていた。それらはすべて当たる。
そういうわけで、僕は生物を学んでノーベル賞学者になる。
僕の新発見(と呼べるものでもないが)は、アルカリ炉やタンポポの綿毛論など、生物学的なものが多い。
アルカリ炉は、燃焼すなわち酸化作用とは逆の、酸性に対する「アルカリ性」の炉を作ることで、二酸化炭素をアルカリ性に中和し、酸素を放出するという理論だ。
そして、タンポポの綿毛論は、生物が地球から生まれたのではなく、生物の母なる星である一等星プロキオンから、生物の種だけが地球にやってきたという理論だ。
このアルカリ炉とタンポポの綿毛論を証明するために、今から生物学を学んでいきたい。
最終的に、僕は温暖化を解決するとともに、人間型のロボットであるschwarzと、宇宙の星々の知性を使って超高速で計算する宇宙コンピュータを作り、同時に空間原子論に基づく空間魔法を発見することで、この世界を、そして地球という星の未来を救うことになるだろう。
高校の生物の参考書である「よくわかる生物基礎+生物【新課程】 (MY BEST)」を読んでいる。
生物の勉強は、拾い読みをすればできる。
今も、血液の中の構成要素について拾い読みした。サバンナやステップについても拾い読みした。
さまざまなIT技術の入門書を読むよりも、この生物の参考書を拾い読みしたほうがいい。
生物の勉強をすると、体の中の仕組みが分かって、病気の治し方や治り方が分かる。
生物に決めたことについて、むしろ「生物に決めてよかった」と僕は思う。
生物は医学と同じであり、このような人間は普通医学を学ぶ。
だから、生物を読むとさらに賢い人間になれる。
生物を学ぶことで、「本来あるべき賢い人間」をその通り生きられる。
フランスの歴史の本についても、引き続き読んでいきたいと思う。
だが、僕が思うに、フランスの歴史の本は、一番最後に学ぶべき本だ。
今は、僕は生物の勉強をして、欠けていた「大学の膨大な知識」を得るべきである。
広く浅くいろんなことを基本や基礎だけ知っている僕は、深く狭い専門分野の「膨大な知識」を知らない。
そのような知識を知らないせいで、分かっているように見えるだけのハリボテの人間になっている。
だから、今は高校の生物を学んで、膨大な知識を全部取り入れたほうがいい。
そして、それが終わってから歴史の勉強をすればいい。
フランスの歴史の本はいい本だが、はっきり言って、フランスというひとつの特別な国に限った歴史であり、いわば「特殊すぎる分野」であると言える。
だからといって、高校の世界史の教科書には、王や権力者の名前しか出てこない。名前以外のことを何も教えていない。
だから、歴史に進んだところで、何も賢いことは分からない。
本当に大学で歴史を学ぶと、ひとつの国、ひとつの時代、ひとりの人物のことをやるようになる。
それがまさにフランス史の本であり、今の僕が学ぶのはまだ早い。
生物の勉強をして、ほかに必要な地学や化学のような勉強をしたのちに、最後に読めばいいのが、フランスの歴史の本だ。
だから、今は高校の生物の参考書を読みたい。
とりあえず、先ほど挙げた参考書のうち、「生物基礎」の部分だけに一通り目を通した。
後半には「生物」の部分もあるが、それはまだ読んでいない。
確かに勉強にはなったが、高校の参考書だけでは十分な勉強はできないと思う。
高校の参考書は、読むべき本であるとは言えない。もっとほかに本を探したいと思う。
生物の参考書の内容は、ATP、遺伝子、光合成、代謝、呼吸、血液、免疫、ホルモンなど、医学的な生物の内容から、植物や生態系の話まで出てきた。
だが、結局、言葉ばかりが先行してしまい、中身がなかった。何かしら内容を教えているように見えて、概念と言葉の簡単な説明しか記述されていなかった。
だから、もっとほかの詳しい本を読まなければ、本当の意味での生物の勉強はできないと感じた。
結局、勉強なんか意味がない。
生物は既に知っている生物だ。それ以上でもなければそれ以下でもない。
僕は生物について、既にきちんと知っている。解剖生理学の本で勉強した内容が、そのまま繰り返されるだけにすぎない。
そもそも、この世界には、もう僕のために何も残っていない。
だから、勉強するのではなく、「僕がこの世界に対して何がしたいのか」を考える必要がある。
そして、僕が真に行いたいことは、「世界を救う」ということである。
僕はこの世界を救い、子供たちの環境と魂を救いたい。
そのためにできること、それは「理想を信じること」だ。
そして、その理想とは、「支配しなくてもこの世界を変えることはできる」ということだ。
支配者が支配してこの世界を変えようとするから、この世界では疎外が生まれ、子供たちはいじめと抑圧の犠牲になる。
そのため、「支配者が支配しなくても、正しく社会秩序を築けばこの世界は変えられる」と信じる必要がある。
同時に、子供たちは学校やインターネットに支配されている。学校やインターネットは、子供たちに自由を与えているように見えて、実際は子供たちの自由を奪っている。
必要なのは、「自由なままでも世界を救うことはできる」と信じることだ。
そこにあるのは、「王国ではない国家」であり、「学校ではない教育」である。
そう、そこに僕が信じた最高の未来、すなわち「自らが自分らしく生きられ、この世界の全員が自分らしく生きられるほど、すべてのことを悟りきった世界」がある。
そのためには、経験と知性を考えなければならない。すなわち、世界において、「問題を解決するために何が必要とされるのか」の無限の連鎖を考えなければならない。
この無限の連鎖とは、「問題を解決するために新しく出てきた問題を、さらに解決する方法を考えていく」という連鎖である。
そのように、すべての問題を完全に解決した時、この世界は救われる。
必要なのは、「必要性」と「自由」を考えることだ。この世界において、何に対して何が必要なのか分かれば、その必要なことを成立させればその問題が解決できると分かる。その「必要な解決方法」を、「自由」の中でどのように実現させるのか、ということを考えればいい。
そう、「問題の解決方法が分かった時、それを王国でも学校でもない、支配のない自由な世界で実現させるためにどうすればいいか」ということを考えれば、この世界は救うことができるのである。
まず、子供が選択肢を自分で選べるようにすべきだ。
そして、選んだ結果を自ら経験的に学べるようにするべきだ。
ただ教科書で知識だけを詰め込む教育は間違っている。
子供たちが、自分の自由意志で選択肢を選択できるようにし、その選択した結果を自ら体験的に学べるようにした上で、「真に正しい選択とは何か」ということを、体験的に分からせるようにせよ。
そして、そのための自由な場を与えよ。
そうすれば、子供たちは「正しい選択とはなんなのか」ということを、たくさんの思考に先立つ経験から経験した上で、その経験に基づいて思考することができるようになる。
すなわち、必要なのは「経験的な帰納法」である。そして、それを可能にする「自由な成長可能な土壌」を与えるべきである。
そして、そのように経験から自らの力で「成長」し、やがて「成熟した一人前の大人」になるための、「子供をきちんと大人にするための教育」を真に行うべきなのである。
そのように、きちんと経験から分かった子供は、自らの力で十分に思考できるし、中学生がいじめやスクールカーストでしか社会秩序を保てないような、「未熟な子供の社会構築」から脱することができる。子供たちは、自らの経験と成長に基づいて、「成熟した人間関係」を築くことができる。そこにあるのは「恐怖ではなく信頼に基づく人間関係」だ。「チャンスとは相手に積極的に与え、助けること」であるということ、「壁を作るのではなく取り払うことで真に素晴らしい人間関係を築ける」ということが、経験から必然的に分かるようになる。
そして、そのように、人間関係のマスターを達成した人間は、この世界を歴史的な文明から捉えていく。この世界そのものについての「別の可能性」が、「歴史の必然という名の自由な可能性」から見えてくる。宇宙には素晴らしい文明があり、地球の未来はいつでもそのような素晴らしい文明へと向かっていけるということが分かる。
そう、それこそが、僕が信じた「自由」であり「救済」である。この世界はそのように、すべてのことを経験し、マスターしたたったひとりの人間により、最後に救われ、終末の神の王国、すなわち「天の御国」となる。