フランス史の勉強をしている。
「フランス史 (新版世界各国史)」の序章を読んだ。
フランスという国の地域的な特性、フランスとはどのような環境の地域なのか、ということがよく分かった。
そろそろ、ドイツを勉強するのをやめて、僕は本格的にフランスの勉強を始めたいと思っている。
これ以上、パソコンの勉強はしない。
僕が馬鹿になっているのは、すべてパソコンが悪い。
パソコンを学ぶと認知症になる。
必要なのは、現実世界を考えることだ。
現実世界に戻ると、認知症が治る。
現実世界に戻って行うべきことは、「連想」することだ。
すべてのことは、連想すれば正しく分かる。
子供が賢いのは、連想することで、想像力豊かにさまざまなことを覚えるからである。
パソコンをやっていると、そのような連想が死んでしまう。連想を正しく捉えようとするあまり、連想そのものが自然にできなくなってしまうのだ。
ピノキオピーさんの「アポカリプスなう」を聴いて、僕は反省した。
僕はあまりに過激なことを言いすぎた。
もう、このような狂った言説をすることは、金輪際終わりにしたい。
ただ、優しく、穏やかで、まともな人間になりたい。
大人になろうとは思わない。大人になると「連想力」がなくなってしまう。子供のままでいいから、まともな知性のある賢い人間になりたい。
連想力をつけるための方法は、パソコンの勉強をしないことだ。
精神はすべて治った。
単に、長い時間をかけて、異常な精神をひとつひとつ、着実に治していっただけにすぎない。
その結果、すべての精神が最後まで治った。
これ以上、何をする必要もない。もう、何もしなくていい。その代わり、自分のしたいことが自由にできるようになる。刑務所のように今の時点で達成すべきことをただやり続けなくても、そろそろよくなった。
これ以上は、好きなことを普通にやればいい。
ピアノやデザインをやりたいなら、「やるべきこと」だと自分で設定すればできる。
僕が今、「文章を書く」ということを、「やるべきこと」に設定しているように、ピアノやイラストの作成を、「やるべきこと」に設定すればいいだけにすぎない。
みんなが賢いのは、みんなは学校に行ったりテレビを見たりという、普通の生活を送っているからであり、そのような普通の生活を送りたいならば送ればいいが、明らかに僕にはそれはできない。
だから、みんなが賢いのと自分を比較しなくていい。みんなが賢いのは無視すればいい。みんなは逆に、僕と同じことはできない。
昔の自分について言うことがあるとしたら、昔の僕は「Linux戦士」のような人間だった。
IT関係のニュースやブログを見て、最新情報を常に知りながら、さまざまなコラムニストやエッセイストの記事を読んで、Linuxやオープンソースの「未来を切り開きたい」と考えていた。
そして、2ちゃんねるやスラドのような掲示板を見て投稿したり、Wikiを書いたりしながら、Linuxやオープンソース関連の活動を積極的にしていた。
むしろ、会社の経営者や先端事業をやっている部署のようだった。オープンソースやLinuxについて、マイクロソフトやWindowsと競争し、研究したことを実際に社会に適用させるために、最大限Linuxのコミュニティを牽引しようとしていた。
そのような僕の行動が、必ずしもオープンソースやLinuxに吉と出たかは分からない。それでも僕は、第一線で活動しながら研究することで、「この世界すべての大学を包括した最先端の知性と経験」を得ることができた。
僕は、自分のやりたいことやできることを存分にやっていた。今思えば、その頃の自分が賢さのピークであり、もっとも素晴らしい「青春」だった。
また、連想すると、頭が狂っているのが治る。
このような狂った人間は、頭の中の「連想する部分」がおかしな繰り返しの自動的なロボットになっている。
頭の連想する部分を普通に連想できるようにしてやれば、すぐに治る。
そして、人間は、連想する部分でしかどんなことも分からない。
かつての僕と対話した神が行ったのは、そのような「連想する部分」を無理やりつけさせただけにすぎない。
そのような「神の連想力」によって、僕はすべてのことが第六感のように分かった。
そのように、連想する部分を治してしまえば、頭の狂いは誰でも治る。