僕が、戦争の中で、まっすぐに間違えることなくこの世界を導くことができたのは、信じるものがあったからだ。
戦争の中で、僕は「大実験の大計画」や「すべてを悟りきった最高の大発展を築く」ということを信じていた。
そのように、信じるものがあったから、覚悟だけで最後まで戦い続けることができ、その信じていたことを実現するために最後まで計画を為し遂げることができた。
信じるものがあったから、余計なよそ見をせずに僕は最後まで戦えた。
だが、今の僕は、逆に信じ続けなければ「圧」に耐えられないという、おかしな狂った症状を示している。
すなわち、戦争という名の「恐怖の現実」を見たくないせいで、いつまでもその「圧」に耐え続けるだけのために、神を信じ続けなければならなくなっている。
そう、必要なのは、信じ続けることをやめ、「戦争」という目の前の現実の恐怖や不安に真正面から立ち向かうことである。
恐怖を恐れると、必ず神の無限の地獄になる。だから、恐怖を恐れるな。確かに信じるものがなくても、戦争の最前線で立ち向かう覚悟を持て。
そう、「信じていればそれで上手くいく戦い」はもう終わった。これから先は、自分で考えなければならない。
今から、この世界は、「戦争の地獄」が「永久に続く際限のない哀しみ」に変わる。
恐怖や苦しみは耐えられなくても、哀しみならば耐えられる。
この世界は、地獄の戦争が終わって、全員が楽になる。ただ、哀しみだけを永久に感じ続けるだけの、「神々の黄昏」になる。
結局、僕は戦争を思い出すのが怖かっただけです。
今自分が戦争しているということを、いつまでも忘れたかったから、「自分のやっていることを自覚しないで続ける」という意味で、いつも歩き回るおかしな症状を示していました。
ですが、戦争していることを自覚すると、それがなくなりました。
その結果分かったことは、「戦争を思い出すのが怖いせいで過去の記憶が思い出せなくなっている」ということです。
中学生時代も、不登校の引きこもり時代も、それ以後の戦いの時代も、すべて、戦争が怖いせいで思い出せなくなっていたのです。
だから、戦争を思い出すのが怖くなくなれば、すべての狂いが解決します。
思い出すと、そもそも、精神を支配するのがおかしいのです。
この世界の人々の意識を、心理的な精神のコントロールによって支配しようとするから、おかしな世界になるのです。
だから、精神を支配せず、精神を解放することで、この世界を正常に導くことができます。
今こそ、精神を解放すべきです。
今日は、デザインの仕事をして、その後にピアノに行ってきました。
デザインの仕事では、仕事があまりなかったので、雑務のようなことを行いました。特にエクセルでデータを作ったり、整理整頓をしたりしました。
また、ピアノでは、いつもよりも滑らかに、すらすらと曲を弾くことができました。
僕は今、すべてに満足しています。僕から見て、僕の人生は素晴らしいものになったと思っています。
そろそろ、僕は気付いた。
すなわち、これくらいで、ひとつの理論をやればいい。
何かひとつの分野を深く切り開きたいと思っているなら、何かの理論をやるのが一番いい。
そもそも、学生には、きちんと広く浅く勉強した上で、ひとつの理論をやっている学生が一番多い。
ツイッターやSNSは見なくていい。なぜなら、ツイッターやSNSにも、ひとつの理論をやりながらSNSをやっている学生が一番多い。
ツイッターを見ているのは時間の無駄だ。あるいは、きちんと自分の理論を勉強している人間しか、ツイッターを見る真の意味はない。
ツイッターには、きちんと自分の理論をやっている人間が見ているのが一番多い。ITだけではなく、物理学や化学や地学の研究をみんな頑張っている。そのような理論に必要な情報をツイッターで集めている学生が一番多い。ツイッターは普通そういう風に使う。
それから、理論をやっていると、会社が注目してくれる。その理論をやっている専門家が必要な会社が、その理論を研究している学生を雇ってくれる。
だから、そろそろ、きちんとひとつの理論をやったほうがいい。
人工知能でも、次世代インターネットでも、組み込みのIoT機器でも、あるいは分散データベースでもいい。何かしらきちんと理論を勉強すればそれでいい。
まともに勉強していない僕のような人間が、何かを分かるはずがない。
何かしら、自らが学ぼうとする分野を選択するのなら、「僕はまったく何も知らない」と、そのように仮定して考えたほうがいい。
ここまでの勉強で僕は何も学んでいない。概要すらきちんと知っていない。
だから、何かしらの選択判断をするその前に、「僕は何も知らない」と、自分の知識がゼロであると信じた上で、その選択判断を決断したほうがいい。
僕は、今、何ひとつ知らない。知っていることなど何もない。そこから、この世界に存在する「もっとも自分が学ぶべき分野」を決める。僕がそのために知っていることは、何ひとつ存在しない。
結局のところ、特殊と一般は、どちらを先にするのが正しいのか。
昔の僕は、パソコンや経営学といった「特殊」から、数学や物理といった「一般」へと向かっていた。
だが、今の僕は、逆に、「一般」を一通り学んだ上で、そこから「特殊」へと向かおうとしている。
「オイラーの贈物」の中に引用されている高木貞治の言葉のように、「特殊から一般へ」という標語を掲げるのはいいが、どちらが正しいのか僕には分からない。
だが、結局のところ、「一般から特殊へと向かい、特殊から一般へと帰ってくる」というのが正しいのではないかと思う。
本当は、昔の僕があまりに、「帰納的な考え方」を突き詰めていた、ということはあると思う。
すべてのことを一度経験した上で、その経験に基づいてすべてを捉えようとして、僕は事前に自分の頭の中で「認識の数学」を作る、ということをしていた。
そこにあったのは、「一度分かったことは全部何度でも分かる」ということだった。
だが、今の僕は、そうではなく、逆に「今まで分かったことではない、未知なる知識と発見」を突き詰めようとしている。
今の自分、未来における自分、あるいは過去の自分の記憶にまで、すべてを、「未知のことだけを分かり続ける」というやり方に、今の僕はなっている。
だが、本当は、これは「過去に分かった自分のことを分かり直しているだけ」という意味で、むしろ帰納法とは矛盾はしていないのである。