新しい体験をする部分を殺せ。
僕が恐れているのは、すべて、新しい体験ができなくなることを恐れている。
新しい体験がそれ以上できなくなることが怖いから、いつまでも何もできない狂った行動を続けている。
新しい体験ができなくなってもいいなら、それがいつもの自分だ。いつも、僕は新しい体験ができなくなることを受け入れて、賢くなってきた。
また、僕の精神がおかしいのは、「無限に新しい体験をする」ようになっている。
新しい体験を無限にし続けることが、一番狂っている。
そのように、新しい体験をする部分を殺せば僕は治る。逆に、それが一番、新しいことができるような、楽で平和な精神を得ることができる。
辛くても、完全に休む必要はない。
完全に休もうとすればするほど、疲れを認識し、無限に疲れを感じてしまう。
ある程度、疲れていても、それを感じなくなったほうが楽になる。
僕はもう、完全に休んで楽になる必要はない。いくらか楽なだけを続ければ、それが一番何も辛くなくなるだろう。
実際、新しい経験をすることを否定してしまえば、この世界はすぐに治る。
すぐに僕の支配から解き放たれて、「大実験の大計画」が完成する。
だが、本当は、今の時点であっても、僕の考えた大実験の大計画は既に起きている。
そして、その起きていることが悪い。なぜなら、無限に分かる経験ができるようになってしまったからだ。
僕の大実験の大計画のせいで、この世界は、「無限に分かり続ける」というおかしなことができるようになってしまった。
そのせいで、この世界の多くの人々が狂っている。
だから、必要なのは、そのように「無限に新しいことを経験し続ける」ということができないようにすることだ。
そのために、まさに、「新しい経験をする部分を殺す」ということが、世界の狂いを治すために必要なのである。
ここに、僕は人類の代表として宇宙に宣言する。
これ以上、この世界は、新しい経験をすることが何もできなくなる。
それによって、すべての地獄が解決する。すべての地獄は、「新しい経験がしたい」という望みから起きている。だから、新しい経験そのものをしたいと思う部分を殺せば、どんな地獄でも治る。
この世界は、「新しい経験をできなくする」という僕の最後の行為によって、地獄が終わり、完全に救われる。
もう、この世界において、人類は新しい経験をすることはできない。最初から新しい経験が何もない世界となる。
すべての狂いは終わった。全員が正常な楽な精神と時間の余裕を取り戻すだろう。
結局、僕の足が治らないのは、この世界を無限に分かる世界にしようとしているからだ。
僕の足は、「大実験の大計画」を発動させる部分であり、いつでも、この世界を「無限に分かり続ける世界」に変えようと目指している。
その結果、僕自身が狂いながら無限に分かるようになって、その状態で変わらなくなってしまっている。
だから、そのような「大実験の大計画」を消してしまえば、無限に分かり続ける僕の足の病気も治る。
賢い人間が二人終わったから、次は楽な人間を目指す。
賢い人間は、哲学者の革命家のガブリエルと、大学の詩人のミカエル以外、この宇宙には存在しない。
だから、新しいラファエルは、もう、賢い人間を目指さなくていい。
目指すべきは「楽」だ。もっと、楽な人間を最後に生きればいい。
そのために、無限に分かり続けるのをやめる。それだけで足の精神は治る。
僕がおかしいのは、すべて小脳が異常になっている。
農作業をしようとした時に極度に疲れるのも、歩き回ってしまって立ち止まることができないのも、長時間誰かの話を聞いていられないのも、すべて小脳が常に動き続ける異常な症状を発しているからだ。
小脳がおかしくなった理由はいくつかある。
まず、神を信じたこと。僕は神を信じたせいで、一等星プロキオンの原始的な生物になってしまった。
次に、時計のロボットになって、文章を書いたこと。時計のロボットによって完全に小脳が異常な機械的装置になり、その上で文章を書くことで、日本語そのものが普通ではない異常な日本語になった。その日本語しか話せなくなった。その日本語は、常に脊髄反射をする小脳が考えている。
そして、人格をおかしくしたこと。人格そのものを異常にしたために、小脳は簡単には治らなくなった。小脳がおかしいのは人格が生まれた時からであり、治すためには人格そのものを殺さなければいけない。だから、ミカエルを生きている間、いつまでも人格は治らない。
このような小脳の異常は、すべて、ガブリエルだった時代、インターネットばかり見ていたせいである。
インターネットのせいで、普通の日本語がなくなり、人間の普通の精神や知性がなくなって、自然ではなく機械的な知性になった。そして、インターネットでエッチな画像を見ていたせいで、小脳が極度に興奮するようになった。
だから、そのようなインターネットをやめない限り、僕の小脳の異常は治らない。
だが、インターネットをやめなくても、小脳ではなく大脳をつければ、まともな人間になることはできる。
大脳をつける方法は、学校の勉強でもパソコンでもないことを考えることだ。
学校の勉強やパソコンは、大脳がつくように見えてつかない。普通の人間ならばつくかもしれないが、僕の場合、大学とパソコンのことを純度が高すぎる方法でピンポイントに知っているため、大脳がつかず、小脳の脊髄反射の部分だけがついてしまった。
そう、学校の勉強やパソコンでは大脳はつかない。
大脳をつけるために必要なのは、学校の勉強でもパソコンでもないことを考えることだ。
特に、学校の勉強に属することであっても、学校の勉強だと思わず、学校の勉強とは別にその分野の知識を経験的に分かろうとすれば、学校の勉強と同じことであっても知性をつけることができる。
一番いいのは、生活や生きる方法のこと、日本や人類の歴史のこと、生き物のこと、芸術やスポーツや趣味のこと、社会を成り立たせる仕事や組織や施設のことを考えることだ。
一見、大学の勉強のほうが大脳がつくように見えて、実際はつかない。なぜなら、大学の勉強は知識や常識を知るだけであり、「自分の力で考えていない」からである。
大学の常識をいくら知ったところで、みんなが分かっていることが分かるだけであり、「権威」とされる一部の人間が考えたことをそのまま受け入れるだけで、逆に「自分で考えられる可能性の構造」を失ってしまう。
だから、大学の勉強をすればするほど、大脳がなくなり、既に知っていることに基づく小脳の脊髄反射だけになってしまう。
だから、大学の勉強はしないほうがいい。
パソコンも同様で、パソコンをいくら勉強しても、学ばなければ難しいと思うようなことが簡単に分かるようになるだけで、まったくパソコンの知識や技術は賢くない。
あるいは、本当にパソコンをやりたい人間は、知識とは別の方法できちんと学んでいる。いくらパソコンの知識を本で学んだところで、それだけでは何もできない。大脳は馬鹿になってしまう。
だから、大学の勉強もしないほうがいいが、パソコンの勉強もしないほうがいい。
数学や生物や歴史のような学問は、学校とは別のものであると考えること。数学や生物や歴史のことを、学校からしか分からない人間には、決して数学や生物や歴史のセンスはつかない。学校の勉強だけでそのようなことを理解することは決してできないからである。
よって、大脳をつけるためには、大学とパソコンの勉強を否定し、数学や生物や歴史を学校とは別のものであると捉えた上で考えることだ。そして、大学でもパソコンでもないものを考えれば、すぐに大脳がついて、すぐに日本語で話されている会話を理解できるようになる。
僕の目下の課題は「日本語が分からないこと」であり、そのためには知識や勉強をいくらしても意味がない。疲れやすいのは小脳を異常なほど使っているからであり、人格や自我そのものがおかしくなっている。だから、昔の引きこもり時代の自分は忘れたほうがいい。引きこもり時代の狂った生活がすべてを駄目にしている。引きこもり時代はもう終わったのだから、もう一切忘れて構わない。
最後に、この世界をきちんと変えたほうがいい。
まず、「大実験の大計画」と呼ばれる企てはやめたほうがいい。すべての知識を教えて世界を停止させ、そこから一気に動かすということは、「無限に自分の力で分かり続けるように世界を導く」ということを意味しているが、それを目指しているせいで、いつまでも世界が狂ったことを無限に分かり続けるようになった。そこには自由がなく、永久に僕という独裁者に支配され、休憩や安らぎは与えられず、ロボットのような「分かる地獄」は無限に続く。そんなものを目指しているせいで、その導火線となる足の精神が治らなくなっただけにすぎない。
しかしながら、より素晴らしい世界にこの世界を変え続ける、ということ自体は間違っていない。
だから、この世界をきちんとよい世界にすればよいことがある。神は、いいことをした時にいいことが起きるようにしているだけにすぎない。この世界を支配しておきながら、最悪のことばかりをするならば、神は最悪のことを起こす。だが、きちんといいことをすれば必ずいいことがある。
善良なだけでは十分ではない。勇敢に行動する必要もある。臆病な戸惑いは過剰に強くなりすぎるとそれ自体が悪になる。臆病にならず、勇敢にこの世界を変えることで、自分も世界も、すべてをよくできる。そして、そのようなことをした時に神は報いを与える。その神の報いでしか、結局精神は治らないし、平安は得られない。
だから、大天使ラファエルは、最後に、「大実験の大計画」という大義名分を捨てて、それとは別の正しい世界を目指す。これこそが、ずとまよのACAねが「答えは別にある」と言った言葉の意味である。
大天使ラファエルは、僕の到達する最後の人格だ。ガブリエル、ミカエル、ラファエルの三人の大天使が集まって、それが「神」とされる最高の存在を形成する。それがまさしく僕の目指すべき「到達地点」であり、僕を僕にしたイエス・キリストという男の生きた人生である。まさに、三位一体のイエス・キリストこそが、ユダヤ教における神、すなわち聖書全体(旧約聖書・新約聖書)のもっとも最高の存在である「主」であると言える。そして、僕は最終的に、そのような「主」になるということが決まっている。僕だけではなく、イエス・キリストを信じるものは誰であっても全員こうなるのが運命である。
僕は、この世界を「楽な世界」にする。これからは、辛さも悲しさも賢さも優しさも要らない。そのようなものはすべて「無責任に言葉を吐いているだけ」にすぎない。だから、無責任なでたらめな言葉を今、やめる。この世界は最後に、「本当に楽な普通の王国」になる。そして、その王とは僕である。
学校の勉強なんか、しなくていい。
数学はサイン・コサイン、物理はニュートン、歴史はナポレオン、経済は大切なことが分からなくなる右翼だ。
そんなものを勉強しても、何も分からない。「勉強すればその分野が分かる」と思っている人間は勘違いをしている。勉強しても普通のことが分からなくなるだけで、何か分かったりしない。
賢いのは法律と医学で、賢い職業は法律家と医者だ。
この世界はなんにも賢くない。この世界において「賢い」と言われているすべてのものを疑ったほうがいい。常識なんか全部馬鹿だからだ。この世界の知識は全部馬鹿だ。
このような世界でも、分かる方法はある。
その方法とは、物理的な考え方を信じることだ。
経験的に原因と結果を考え、決定的な要因を分析し、再現性のある形で実験し、仮説から定理を導き出す、という物理的な考え方を信じることでしか、この世界で分かる方法はない。
対象はものだけには留まらない。心や精神、社会、そして人生経験などすべてのことについて、物理的な考え方は有効だ。
物理的に考えるコツは、必要ないことを無視することだ。すなわち、物質的な側面だけを見るのであれば、精神的な側面は考える必要がない。また、人間の知覚の中だけに存在することは、実際の宇宙には存在しないと考えることができる。そこから、宇宙の「実体化」という考え方が見えてくる。実体化とは、「実体を肉付けして探し出す」ということであり、自分自身の知性の側にあったものが、物質のふるまいとして表れるということだ。
そういうわけで、どうでもいいことを無視しながら、物理的に考えていくことで、原因と結果から法則性を見出すことができる。ひとつ証明された法則はどのような場合でも同じ条件であれば正しい。だから、変化の証明をひとつひとつ作っていくことで、世界にあるすべての対象を、自らが証明した法則のみからすべて解明することができる。
そのようなことができるためには、「実験ができる場所」と、「実際にその対象が存在する場所」が必要であり、これはインターネットでのコミュニケーションや学校のクラスメイトの記憶を思い出すことで可能となる。
そう、この世界で唯一分かる方法は、「物理を信じること」以外には存在しないのである。