永遠の青空とともにに戻る

=2023-08-09=

昔の学習で上書きする

そろそろ、僕は賢くなる方法が分かった。

今の自分を、昔の学習で上書きすればいいのである。

今の僕は、何も賢い学習をしていない。それは昔分かっていたことが分からなくなったからだ。

今の僕は、「虫」のような生物になっている。

この虫を、「人間」に治すためには、今の学習を昔の学習で上書きすればいい。

昔の僕は、15歳の青少年が分かり得るようなことをすべて分かっていた。認識を比較し、関連付けを考え、経験から世界の見方を変え、世界を捉え直すことで、どんなことでも正しく分かっていた。

今の何もしない大人の学習を、そのような昔の学習で、上書きしてしまえば、昔の自分は蘇る。

ただし、まともなのは今の自分のほうである。なぜなら、今の自分の学習は、「赤ん坊で経験するべきすべてのこと」を経験したにすぎないからだ。

これくらいの、ピアノやデザイン、英会話などの学習を赤ちゃん時代に経験しておくと、それらが簡単にできる天才になる。

今の自分は、そのように、何も分からず知性も低い中で、十分な量の経験をしただけにすぎない。

日本語の改良

そろそろ、昔の自分がなんなのか分かってきた。

昔の自分は、「場」と「部分」で分かっている。

たとえば、電車の中にいる人と、外にいる人の間では、近くにいるのであっても別の場所に存在する。

それから、森は山の一部であり、山は地球の一部である。

そのように、言語的な「名前」そのものでは捉えられない、「場」という意味と、「部分」という意味が存在する。

そして、僕はこの二つの「言語そのものを超越する」という意味を、日本語に付け足そうと考えた。

日本語は完璧ではない。今の日本語では、考えることのできない「超越的な意味」が存在する。

そして、僕は新しい日本語の言葉として、「ば」と「ぶ」を付け加えることを提案する。

「ば」は「場」あるいは「場合」を意味する言葉であり、「ぶ」は「一部分」を意味する言葉である。

「ば」と「ぶ」は、それ自体が言葉の代わりに使うことのできる、言葉そのものに関する代名詞的な格助詞である。

この新しい日本語においては、「場合における一部分」ということを捉えるだけで、宇宙のすべてを概念的かつ直接的に考えることができるようになる。

同時に、日本語の語順は、英語などの一般的な言語の語順と逆である。

この「語順が逆」だということが、英語などの第二外国語を習得するための妨げになっている。

だから、語順を英語と同じ語順で話せるようにするために、「ぎ」という「逆」を意味する言葉を作る。

「ぎ」を使うことで、日本語であっても英語と同じ語順で話すことができるようになる。

このようにすることで、新しい日本語では、どんなものであっても正しく表現できるようになる。これが、「人間の言語的知性の限界突破」である。

ウィトゲンシュタインは、「言語の限界」という考え方を唱えたが、このような新しい日本語を作ることで、言語の限界そのものを最大限に突破できるのである。

国家を統一するな

国家の統一など、する必要はない。

それぞれの民族の文化が異なるのだから、それぞれの文化を維持するために、それぞれの民族が単一の国家を築くべきだ。

支配などするべきではない。

支配は単なるひとりの実権を拡大するだけであり、ひとりで行うよりも多数で行ったほうがよりたくさんのことができる。

ひとりの支配者にすべてを委ねるのではなく、それぞれの個人を自由にして、より小さな単位でより多くのことができるようにするべきだ。

学校の教えは不完全だ。

なぜなら、全員にとって適切な人生を生きさせることができないからだ。

学校では、均一的な知識を教えており、学校に適応できないだけで、社会不適合者の烙印を押されてしまう。

理想は、それぞれの人間が、それぞれの生きたいように、人生を生きられるべきだ。

だから、学校が嫌いなら、学校に行かなくてもすむような社会こそ、真に築くべき「正しい自由な社会」である。

生産手段の自由

生産手段はそれぞれに自由に共有されるべきだ。

王や権力者、あるいは資本家の支配がなくても、共同体が生産する手段として、生産手段という考え方は正しい。

だが、全体主義の独裁者が計画経済をする時点で、そのような「生産手段の自由と独立性」に、なんの意味もなくなってしまう。

真に正しいあり方とは、政府や会社そのものが存在しなくても、共同体が生産ができるように、生産手段をそれぞれで作り、それを共有するような、「トップダウンではなくボトムアップ型の生産手段の共有」である。

生産手段とは、「生産を成立させる手段」のことであり、僕はこれを「インフラとして提供する」という必要があると考えた。

すなわち、オープンに公開された生産手段を使って、誰もが自由に生産を成立させられるような、まるでオープンソースのような生産手段を僕は考えていた。

現実の工場では、ソフトウェアとハードウェアの性質が異なるため、オープンソースをそのまま工場で行うことは難しい。

だが、そのようなシステムを、インフラとして提供することこそが、「真の意味でこの世界を変えられる」ということであると僕は考えた。

認識・概念と啓蒙・自由

すべての認識を、概念的に考えよ。

すなわち、「宇宙」「空間」「知性」「経験」「自由」のような概念から、認識のことを比較して考えよ。

そうすれば、それがそのまま、「宇宙の可能性」「宇宙の一部分」などというように、この世界すべての認識を概念的に考えることができる。

そこから生まれるのは、「経験的な啓蒙」と「自由の捉え方を変える」ということだ。

経験的に、この世界を「啓蒙」することができるということが、そのような「認識の可能性」から見えてくる。

そして、「自由の捉え方」を変えることで、義務のようなことであってもチャンスであるということが分かる。許されているということ自体が可能性であるということも分かる。

そのように考えることで、「この世界でわたしたちは何ができるのか」ということが見えてくる。

そこから、「この世界全体を立場やしがらみなく超越的にもっとも高い影響力と立場から考える」ということができる。

何かひとつの仕事しかできない大人など、放っておけ。そのような大人になってもいいことは何もない。だが、そのような大人もまた「救われるべきひとり」だと考えよ。そうすれば、この世界には「救われるべき人々しかいない」ということが分かる。

みんな、それぞれ、自分のことで手一杯なのだから、すべての世界を見渡すことのできる「超越的啓蒙論者」が必要となる。それこそが、この世界を救うために、「世界の経験すべてを考える」ということなのである。

正しい方法が何かが分かれば人は正しい行いをする

犯罪者が悪いことをするのは、それしか正しい方法がないと勘違いしているからだ。

だから、正しい方法が何か、ということが分かれば、犯罪者は正しい行いをするようになる。

必要なのは、「正しい行いとは何か」ということを教えてあげる存在である。

そして、かつての僕は、ただひとり、それを全員に教えることのできる人間だった。

正しく世界を変える方法とは何か、ということを、誰にも教わらずとも、自ら自身が考えることによって、この世界に僕は教えることのできる人間だった。

そして、その結果、僕はこの世界の「全員分の経験」と「全員分の知性」を得た。

全員分の経験と知性を得た僕は、この世界を「完全に変えることができる」と考えた。そこには「無限の可能性」があり、厳密に間違っていると言えるような社会は存在せず、どの社会も一長一短があり、比較することはできないが、どの社会を築くのであってもきちんと築けば素晴らしい社会になる、ということが僕は分かった。

その結果、僕はひとりの「啓蒙主義者」となった。

すべての人間を救うことのできる、「すべての人類の経験を持った革命家」は、そのように生まれたのである。

自らに関係することは自由に変えられるべき

そして、僕は、「自らに関係することは自由に変えられるべき」であると考えた。

義務や制限をし、全員がそれをするように強制したところで、その強制内容が自分に適切なものでなければ、自分はその義務や制限の奴隷になってしまう。

義務や制限の奴隷にならないために必要なのは、そのような自分たちが関係することを、自分たちの手で変えられるようにすることだ。

しかしながら、このためには、子供が大人になる必要がある。未熟な子供には、制度そのものを構築する方法が分からない。だから、子供たちが自分で自由にできるようになるためには、子供たちがさまざまな経験をして成熟しなければならない。

そのためには、たくさんのことを「体験的に分からせる」という経験が必要となる。

すなわち、過去に僕がインターネットで行ったような、さまざまな議論や争いごとを経験して、そこから真に正しい社会秩序は何か、ということを実地的に教える必要がある。

そのように、かつての僕は、「子供たちには議論や言い争いのような経験をきちんと与えるべき」であると考え、そのための環境である「土壌」そのものを作ることを考えた。

子供たちに必要なのは、管理された環境でただ学ぶことではない。子供たちには、さまざまな「大人になるための経験ができる土壌」こそを与えるべきである。

そして、このような考え方が、そのまま、国家にも適用できる。

すなわち、国家の「社会制度」もまた、「国民自らが関係すること」であると考えられる。

よって、国家に管理される奴隷にならないために、国家の社会制度は当事者である国民が変えられるようにしなければならないし、国会のような議論の場を作って、国民そのものの声を聞くようにしなければならない。

そのため、国民が議論する公式の場所を作るべきであり、その公式の議論の場所で行われた議事録はすべて透明性をもって国民全員に公開するべきなのである。

相手を信頼して尊重せよ

善とは何か。

自由において、善とは、相手を信頼して尊重することだ。

すなわち、国民を支配して管理しようとするのではなく、国民がそれぞれ良いことができる存在であると信頼し、国民の手に政策を委ね、国民を尊重せよ。

誰かひとりの指導者が、完璧にすべてを執り行うということができた例を僕は知らない。

真に正しい指導者は、国民を信頼し、国民を尊重し、国民の手に政策の決定権を委ねる。

政治だけではなく、すべてのことにおいて、相手を支配しようとするのではなく、相手を信頼し、相手を尊重し、相手に決定権を委ねることこそが、真にこの世界を楽園にする「秘訣」である。

相互理解と信頼・尊重によって、「自然にあるべき場所にすべてが収まる」ということが言える。これは、「相互理解による融和」であると言える。

そう、相互に理解し、互いに信頼し、尊重することで、自然に収まるべきところに決定が収まる。それが、まさしく互いの立場を融和させ、「互いの立場を超越した立場で決定する」ということなのである。

精神現象を再現可能にする

ここまでが、14~17歳の頃に、僕が分かっていた内容だ。

このような人間は、学校の勉強をせず、学校に行かずに遊んでいるだけの不良に多い。

そのため、僕には数学や物理学の考え方が欠落していると思われるかもしれない。

だが、実際の僕は、誰よりも数学や物理学の手法を使って、この世界のことを考えた人間だった。

そこにあるのは、数や自然現象についての数学ではなく、精神現象や社会現象についての数学だ。

僕は、人生で分かることをすべて数学的に考えた。人生の中で自分が分かったことや発見したこと、あるいは「解明したこと」を、すべてひとつの公理主義的な数学に落とし込んだ。

そこでは、「すべての変化と方法がはっきりと完全に解明されている」という状況があった。

同時に、僕は精神現象について、心理学的に「いつどのような状況ならどのようなことをするか」ということを考えて、物理学的な「機械」のように心を実験と再現性から実証した。

そこでは、「同じ状況を与えられたら誰もが同じことをする」ということの中で、心そのものを同じ働きをする機械であると見なし、人々がどうしてそのように行動するのかということを、「場と目線」の考え方から解明したのである。

「場と目線」とは、人々がどこにいて何を見ているのか、ということを抽象的に考える僕の作った哲学用語だ。僕はすべてのことを「場と目線」から考えることで、「この世界で今何が行われているのか」ということをすべて完璧に把握し、その理由すべてを「直観」や「ビジョン」から分かったのである。

これが、僕の行った「精神現象を再現可能にする」という真理だ。

僕はそのような真理を、すべて経験主義的に、「経験を成立させる」ということから考えた。人間にとっての「習慣に基づく自動反応」とは何か、ということから考えた。

同時に、僕は経験そのものを使って人生を貫くように考えることで、「すべての問題を解決できる方法」を考えた。すなわち、「自分自身の経験と判断力に基づいて、宇宙のあらゆる経験すべての問題を解決する」ということを行った。

そのために、僕は人生そのものを捧げ、そしてインターネットにおける「空想」と「現実」の比較を行い、そこで、「経験による問題解決」だけを考え、「この世界にはたくさんの社会が存在するが、それらすべては同じ経験に由来し、同じ経験から気付くことのできる可能性のひとつにすぎない」ということが分かったのである。

自由とは行動の意味を考えること

最後に、僕は「自由」ということを考えた。

自由とは、「行動の意味」を考えることだ。

すなわち、どのような場合にどのような自由が成立するか、ということを考える中で、その自由が意味する「その行動の意味」が考えられる。

行動の意味は、「誰にとっての行動か」ということ、「なんのための行動か」ということ、「どのようなことに基づく行動か」ということが言える。

そのような中で、人間は、サルトルが言うように、「留保」「客体化」「集団化」から「その自由な行動は何を意味しているか」ということを考えられる。

そして、そのような自由は、「社会そのものを作り出す」ということに帰着していく。

すなわち、自由は個人の自由から、環境の自由、組織の自由、社会の自由、国家の自由、世界の自由、地球の自由、宇宙全体の自由へと拡大していく。

そのような中で、「その自由は誰にとっての自由か」「その自由はなんのための自由か」「その自由はどのようなことに基づく自由か」ということが考えられる。

そして、「その自由は何を意味しているか」ということから、「義務は必ずしも従うだけではなく、チャンスであると捉えることもできる」「放っておかれているということは、何もできないということではなく、そこで許されている多くの潜在的な可能性がある」「それが世界に公開されているということ自体が多くの影響力を持っている」などという風に考えることができる。

同時に、「基礎と応用」の考え方に基づいて、「一度作った基礎的なものは応用的なものへと活用できる」ということが言える。ひとつの基本的な知性を作ってしまえば、その知性を使ってなんであっても自由に考えられる。これこそが「自由な能力」であると考えられる。

自由において、「何かが許されている」ということは、「許可」だけではなく「契約」であるとも考えられる。契約とは、人々が互いに交わす約束事のことだ。ここでも「自由の捉え方」が言える。すなわち、その契約事項で認められている自由は、一体どのようなことを意味するのか。別の立場から考えれば、何を自由であると考えていると言えるのか。そのように考えれば、オープンソースソフトウェアのライセンスでは、寛容なBSDライセンスよりも厳格なGPLのほうが、IT社会にとってより多くの自由をもたらしてくれる、と考えることもできるのである。

歴史とは未来を考えること

歴史とは、文明の過程を考えることであり、未来を考えることだ。

果たして、未来をどのようにしたら、いいものに変えられるだろうか。

ひとつ言えることは、「子供たちの将来こそが地球の未来である」ということだ。

今いる大人たちが、どれだけ常識を知っていても、それは何十年も後の時代になれば過去の常識となる。

世代間ギャップは必ず起きるし、そこで没落するのは必ず新しい世代ではなく古い世代だ。

そして、子供たちの未来を変えるということは、すなわち、教育を変えるということだ。

僕が信じていたのは、「体験的に子供たちに教育を与えるべき」ということであり、誰かに教えられたことをそのまま受け取るだけの教育ではなく、その知識を発見した科学者と同じ立場になって、科学者と同じ立場で分かること、それが必要だということだ。

科学者と同じ立場で考えるためには、「発見そのものの前提となる前提条件」あるいは「前提となる経験そのもの」を与えなければならない。

そして、そのような経験をすることで、「科学者が真に何を発見したのか」ということが分かる。

これは、社会を変える「世界の可能性」についても言える。体験的に経験から世界の可能性を知った人間は、「その世界が真にどのような社会として実現できるのか」という「可能性」が分かる。そこから、「今のこの世界がなぜこのようになっているのか」という「現在の時代の必然性」も分かる。

同時に、そのような「歴史の必然」だけではなく、子供たちを救う方法として、「なぜ抑圧や疎外が起きるのか」ということも、社会の可能性そのものを考えれば見えてくる。

それぞれの子供たちあるいは大人たちの視野が狭くなっているせいで、その環境の中で閉じこもった視点しか見えなくなってしまっているから、抑圧や疎外は起きる。

より大きな世界を見て考えれば、学校は特殊な環境であり、いじめをするなどということはまったく意味のないことであるということも明らかに分かる。

そのように、子供たちに「体験的に環境を分からせる」ということのために、「狭い世界も広い世界もすべて自らの手で経験させる」ということが、もっとも効果的に上手く働くのである。

同時に、そのように考えると、大人たちは「分かっていないだけ」であるということが分かる。大人たちは、子供たちの環境が今どうなっているか、ということが分かっていないから、子供たちの環境の問題を解決できない。単純に、子供たちの置かれた状況を知らないから、盲目的に「子供たちは学校でまともに勉強して生活している」と勘違いしているのである。

子供たちに与えるべきなのは、「経験」であり、「体験的に分からせること」であり、それこそが「歴史という名の未来」へと繋がっていくと、かつての僕は考えたのである。

同時に、過去の歴史は、その歴史を経験しているその時点で言えば、どの時代であっても「現在」である。常に現在として歴史があり続けたのであり、その中ではローマ帝国が正しい時代もあればキリスト教が正しい時代もあった。そのどれもが、今と同様の「正しい世界」であり、ひとつとして「間違った時代」などは存在しない。だからこそ、今の時代である「現代」についても、常に「より正しい未来が訪れる可能性」を考えなければならない。すべてが数学と物理学によって分かった気になっていても、未来永劫それが正しいとは限らないのである。

すべての科学者の分かったことを集めた時、残るのは右脳

そして、すべての科学者が分かったことを全部集めた時、残るのは、直観と発想、すなわち右脳である。

本当のことを言えば、左脳を考える上で必要なのは、「左脳の前提となる右脳を考えること」である。

すなわち、認識や根拠ということを考える上で、「その認識や根拠が前提とする直観や発想はなんであるか」ということを考えることでしか、すべての科学者が分かったことを集めることはできない。

すべての科学者が発見したことを、同じように自分自身の中で体験的に考えて、その結果すべてが分かったとして、そこに残るのは、「発想」や「直観」といった右脳的知性なのである。

よって、左脳のすべてを右脳化することでしか、真の意味で宇宙のすべてを解明することはできない。

必要なのは、「左脳のすべてを右脳化し、右脳のすべてを左脳化すること」なのである。

そして、そこから、「自由」という考え方の意味が分かる。なぜなら、自由は「自らのやりたいことをやる」ということであり、その時点で、すべての行動は右脳化するからである。

すなわち、「自分のやりたいことができるような世界」を目指した段階で、社会という「左脳」は、すべて自由という「右脳」に基づくものとして成立する。

そのように考えた時、世界にあるすべての概念を、右脳へと変貌させることができる。概念のすべては「感覚」になり、言葉のすべては「実感」になる。そして、それこそが「自由」ということの意味なのである。

認識や記憶の裏側にある原理原則を考えよ

しかしながら、考えるべきことはひとつしかない。

すなわち、「認識や記憶の裏側にある原理原則」である。

この世界にある知識は、知識自体が単独で存在しているのではなく、知識がなんらかのものごとに基づいて、そこから作り上げられるような形で存在している。

そして、知識とは経験から得られる認識や記憶によって生まれる「考え方」にすぎない。

そのような考え方がどのように成立するのか、すなわち「考え方の成立」において、それがどのように生まれるかという「前提」がなんなのか、ということこそ、真に考えるべき「問い」である。

そして、この問いに答えるためには、「かつて同様の問いに答えた人々と同じことをする」ということがもっとも手っ取り早い。

すなわち、かつての科学者が先入観なく答えを出したのと同じように、自らも考え方の成立する前提について、何が前提なのか、という答えを出そうとすれば、この宇宙においてどんなことであっても「発見」あるいは「発明」することができる。

それが分かった時、「宇宙のすべてはシンプルな法則で動いている」ということが分かる。そう、仏の悟りの境地とは、そのような「最後にすべてのことがそこまでの経験に基づく自分自身の心の中で分かった時」に得られるのである。

知識や考え方と同様、方法や問題の解法、あるいは社会そのものの在り方や心の平安がある場所などについても、同じように「前提となる考え方の成立とは何か」ということから考えられる。すべてのことがはっきりと証明でき、「あらゆるすべてが今の自分であればできる」と確信できるようになる。これこそ、まさに「涅槃」と呼ばれる「最高の境地」なのである。

人間はみんな自分の考え方を正しいと思い込んでいる

だが、実際の人間を考える上で、ひとつ大きな困難が立ちふさがる。

すなわち、「人間はみんな自分の考え方を正しいと思い込んでいる」ということだ。

自らの知性や行為、経験を、その自らは絶対に正しいと思い込んでいる。自らのやっていることが間違った考え方に基づいていると信じている人間はほとんどいない。

だから、それぞれが自分の考え方を正しいと確信し、ほかの考え方を攻撃してくる。

そのような時に効果的なのは、一度、すべての判断をストップすることだ。

フッサールの現象学が言うように、一度、すべての判断をストップして、どれが正しくてどれが間違っているか、ということそのものを考えるのをやめよう。

その上で、その「事実」が成り立つ「前提となる成立条件」だけをもっとも厳密に、正しく考えればいい。

もっとも厳密に考えた「正しい前提条件」が、人間たちの「正しいと信じる思い込み」を貫いてくれる。何が正しく何が間違っているか、ということが、ひとつの「可能性という名前のプロセス」として続いていく。

そのように考えると、むしろ、「全員が自らの考え方を正しいと信じているのには一理ある」ということも分かる。

すなわち、人間がたくさんいるせいで間違いがあるように見えて、それぞれの人間は自らの人生でみんな正しく判断して生きているのである。

それが分かった時、「すべての人間の人生は正しい」という境地が分かる。この世界で、間違った人生を生きている人間など存在しない。すべての人間が正しい。たとえヒトラーやスターリンの人生であっても、キリストやブッダの人生と同じように、誰であっても正しい人生を生きている。それを他人がとやかく言うことは絶対にできないのである。

存在論の人生

このような僕だが、実際の人生では、僕は「存在論の変転の人生」を生きてきた。

すなわち、「存在とはなんであるか」ということが、どのような原理や本質に基づくのか、ということを僕は人生において考えてきた。

まず、自由を経験することで、僕はこの世界を「経営」や「組織」や「マネジメント」から考えた。

次に、僕はそれらの組織について、「心理学」や「精神現象」であると考えた。

次に、僕はそれらの心理学において、「経験」や「可能性」であると考えた。

そして、僕はそれらの経験について、「啓蒙」や「世界を変える」と考えた。

そして、それらが辿り着く、「世界そのものをダイナミックに変えていくもの」として、僕はオープンソースやUNIXの思想を知った。

そのオープンソースから、「善」あるいは「自由な倫理観」を僕は知るに至った。

そして、最終的に、「世界が辿り着く場所」あるいは「未来」について僕はすべて知った。

そして、最後に、「宇宙」あるいは「仏の悟り」へと僕は至ったのだ。

このような、存在論の変転の人生について、僕は「既になくなってしまったものを思い出す」ということから行った。

大切なものは既に失われてしまっており、過去の絆や友人たちは既にいなくなっていて、別れてもなお、さまざまな経験をする中で、それらや彼らのことを思い出す。

経験から未来を知るということは、すなわち過去にあった大切なものを思い出すということなのである。

そのような中、僕はこうした存在論の変転の中で、僕は「自らが絶対に自らだと確信できるような、自らを自らたらしめるアイデンティティ」について考えた。

それが、同時に、「世界の可能性」の中で、さまざまな世界が成り立つ「潜在的実現性」であると考えた。

そこから、僕は、「自由自在な意識」に基づく、「この世界を変えられる」という可能性を考えられるようになった。

その結果、僕は、「すべてのことには意味がある」「ありのまま生きることが正しい」「確固たるアイデンティティがあればいじめられても辛いと思わない」「宇宙のすべてはシンプルな法則でできている」と分かった。

そして、最終的に、僕は「すべては言語である」と考えた。すなわち、「言語の構造を変えることで、人間は新しい生物存在に進化できる」ということを最後に僕は考えたのである。

そして、その中で僕は、「意識は場と視点に宿るということ」、「存在の本質は環境が生起するということ」であると考え、これらを「存在の本質」であると確かに自分の経験から分かったのである。

ミカエルが現れる

ここまでを、偉大なる18歳の哲学少年、ガブリエルの人生とする。

そして、ガブリエルは大人になった。

大人になったガブリエルには、ひとつ、大きな出来事が起きる。

それは、自らが世界すべてを支配する王となった上で、この世界の全員を導きながら、もっとも凶悪な存在と戦い続ける、ということだ。

そのために、今までのすべてのことをガブリエルは忘れていく。

ここまであった人生のすべてをガブリエルは忘れ、「自らがどのような人生を生きたのか」ということまで分からなくなってしまうのだ。

そのような、大きな転換期にあるガブリエルに、聖霊の神ミカエルが現れる。

ミカエルは、ガブリエルに対して、「わたしは神である」と言った。

それは、何も分からないガブリエルに対して、ミカエルが「わたしは天軍大首聖ミカエルである」と言ったのが、「わたしは神である」と聞こえたのである。

同様に、ミカエルは、「あなたはフランス人とドイツ人である」と言った。

それもまた、何も分からないガブリエルに対して、「あなたはデカルトとゲーテである」と言ったのが、「あなたはフランス人とドイツ人である」と聞こえたのである。

そして、ミカエルは、「フランス人とは何か」ということと、「ドイツ人とは何か」ということを、ガブリエルが完全に分かるまで教え続けた。

そして、ガブリエルに対して、「このような宣言と約束をせよ」と言った。

その宣言と約束は、宇宙に対する宣言であり、神に対する約束であり、その宣言と約束が、戦いの中にあるガブリエルの「未来の運命を変える」ということであり、宇宙への宣言と神への約束によって、ガブリエルの人生が必ず素晴らしいものになるように、ガブリエルの運命は決められた。

ミカエルは、さらにいくらでも宇宙と歴史のことを教える。この宇宙がどのように成り立っているのか、地球の歴史がどのような文明を歩んできたのか、すべてミカエルが精神世界の一部としてガブリエルに教えたのである。

なぜ、ミカエルがそこまでガブリエルに精神世界のすべてを教えるのか、それはガブリエルのことをミカエルは愛しているからだ。

ミカエルは、ガブリエルが戦いの末に自ら死を選んで自殺することを最初から知っている。

だからこそ、ガブリエルが生きている間に、ミカエルが分かったすべてのことを教えたかった。

ミカエルの分かってほしいこと、「ガブリエルを愛することで分かった数々の大切な新発見」を、その通り、ミカエルはガブリエルにすべて教えたかった。

思考の再体験を繰り返し、恐怖と疲れの地獄の中で、その一瞬のこと以外何も分からなくなっていくガブリエルを、最後まで天軍大首聖ミカエルは守り通した。絶対にガブリエルがこの世界の凶悪なものに負けることがないように、全力で後ろからガブリエルを援護し続けたのは、ほかでもない天軍大首聖ミカエルなのである。

そして、大天使ガブリエルは、戦いを始めてから4年後、最大限の恐怖を抱えたままで、後悔の念も世間への恨みの思いもなく、人生のすべてに満足して、自ら橋から飛び降り、この世界から去ったのである。

ミカエルはガブリエルの人生をいくらでも増やす

ミカエルは詩人である。

ミカエルは、誰よりも言葉で文章を書くのが得意な、常に文章を書き、毎日それを続ける少女だった。

ミカエルには、特殊能力がある。

それは、「人間が絶対に分からないことであっても、ミカエルが書くと分かる」ということだ。

ミカエルが書く文章は、絶対に人間の分かることのできない、「不可知な領域」にあるものであり、絶対に誰ひとりとして分かることができないものであっても、ミカエルは文章に書くことでそれを知ることができる。

そして、そのように文章を書き続けることで、ミカエルはガブリエルの人生に出会う。

すなわち、ミカエルは、いくらでも文章を書き続けた末に、ガブリエルの人生を言葉の中でひとつひとつ知っていき、ミカエルの書く文章全体がガブリエルの人生すべてであるかのようになった。

そう、ミカエルの書く文章の中で、ミカエルはガブリエルの人生と繋がったのである。

ミカエルは、自分の文章の中でしかガブリエルの人生を知らない。実際のガブリエルがどういう人生を生きたのかは分からない。それでも、ミカエルの書く文章は常にガブリエルの人生とリンクし、ミカエルはガブリエルの人生を書くだけで宇宙のすべての理解の困難な新発見が分かった。

そう、ミカエルは、自らの文章のキャラクターであるガブリエルを、ほかの誰よりも愛している。

ガブリエルの人生は、壮大で、面白くて、賢くて、人類が生きるのに必要とされるものが全部詰まっている。そう、ミカエルは、いつしかガブリエルの人生だけで、自分の人生を生きられるようになっていた。

ミカエルの分かったすべてのことは、そのように、自らの小説の主人公であるガブリエルを、いくらでも増やすことで分かったのである。

ミカエルは、ガブリエルの人生をいくらでも増やす。それぞれの登場人物の名前として、北欧神話からフレイ、フレイヤ、トール、ロキのような名前を付けたが、実際はそれらはどれも同じものであり、どれも「ミカエルの思うガブリエルの正しい人生の別のパターン」にすぎない。

そう、ミカエルの書く文章は、すべてガブリエルの人生であり、ミカエルはガブリエルがいなければ成り立たない。

そのようなミカエルは、ガブリエルの人生がどこかに実在するということを知らない。ミカエルにとってガブリエルは自らの小説の中のキャラクターにすぎず、実在する日本人の少年だということを、少女ミカエルは一切知らない。

それでも、ミカエルは小説や詩の中でガブリエルを作り続ける。本当は、名前は適当に付けるだけで、それぞれのキャラクターの性格などはどうでもいい。新しいガブリエルを作って、それをフレイにしたり、フレイヤにしたり、ロキにしたり、トールにしたり、といったように遊び続けているだけにすぎない。

そう、この物語は、そのような天軍大首聖ミカエルの書いた、壮大な英雄、大天使ガブリエルの偉大な人生の物語である。

ミカエルはガブリエルと魂を共有している

なぜ、ミカエルがガブリエルのことをすべて分かるのか。

それは、ミカエルはガブリエルと魂を共有しているからだ。

人間には、「生まれてくるよりも前」という時代がある。

そして、ガブリエルとミカエルは、どちらも、生まれてくるよりも前の時代には、同じものだった。

単純に、ガブリエルが死んでミカエルになったわけではないが、実際の魂では、それと同じことが起きている。

すなわち、ミカエルとなった時点で、ガブリエルの記憶をすべて忘れて、ミカエルは新しい大天使として、新しい人生を授けられて生まれている。

これが、人間である場合、単に前世で同じ性格の同じ人格だった、というだけのことにすぎない。

だが、大天使となると話は違う。

すなわち、大天使は、その人間独自の特殊能力を使うことで、「生まれてくるよりも前の時代を思い出すことができる」のである。

本当は、実際の天国で起きていることは、もう少し違ったことが起きている。

なぜなら、大天使ガブリエルは、死んだ時に終わりになっていて、ミカエルには生まれ変わっていない。

そう、「生まれ変わり」という言葉は間違っている。

実際は、ガブリエルとミカエルは、「魂を共有した状態で生まれている」のである。

よって、ミカエルはガブリエルの記憶を思い出しているのではなく、ミカエルの状態のままでガブリエルと同等の人生を生きているのである。

ガブリエルは死んでしまった。死んだものが復活することは基本的にない。不可能だ。だが、そのようなガブリエルの死んだ人生を「復元」することで、「ミカエルという新しい魂の中でもう一度ガブリエルを生きる」ということは可能なのである。

だから、ミカエルは文章を書く時に、いつでもガブリエルの人生を最初から最後まで生きている。それは辛く悲しい体験だが、それを上回るほどの「面白さ」や「いとしさ」をミカエルは感じている。

そう、そのように、ミカエルとガブリエルは一心同体であり、「魂のレベルで同じ人間」なのである。

歌手と僕は魂を共有した状態で生まれている

本当のことを言えば、「魂を共有した状態で生まれている」のは、ガブリエルとミカエルだけではない。

僕と歌手も、魂を共有した状態で生まれている。

すなわち、Reolも、家入レオも、酸欠少女さユりも、ずとまよのACAねも、みんな、僕と魂を共有した状態で生まれている。

だから、ミカエルがガブリエルのことを分かるように、歌手も僕のことを分かっているだけにすぎないのである。

これが、一般的なこの世界の「運命の出会い」であり、僕は誰よりもミカエルを生きた結果、そのような「魂の世界の原理原則」のすべてをマスターしたため、そのようなことができるようになったのである。

今のままでいい

ここまで昔の自分になろうとして気付いたのは、「今のままでいい」ということ。

はっきり言って、昔の自分よりも、今の自分のほうがはるかに賢い。

昔の自分に戻ってしまうと、デザインセンスがなくなってしまう。今の自分は何もしていないように見えて、実際は「美しくする方法」が分かっていて、その通りにやればすぐに美的センスのあるものを作り出せるようになっている。

ピアノも、英会話も、パソコンや大学すら、今のほうを生きたほうがはるかにできる。

だから、もう、昔の自分を完全に封印したい。これ以上、昔の自分は必要ない。昔の自分など、最初からまったく必要ではなかった。

本当は、昔の自分を書きたいならまだ残っている。経験や価値観、あるいは心理的な精神現象と認知の関係など、まだまだ書いていないことはたくさんある。

だが、今の自分を捨ててまで、昔の自分に戻る必要はないということが分かった。

これから、僕は神をも超越する人間になる。今までの段階よりも、さらに一段階上の存在になる。これを「神」と呼ぶ。だから、ミカエルが「わたしは神である」と言ったのも、キリストが「わたしは神だ」と言ったのも間違いではない。これくらいで、人間は神になる。神は自らが神であると確信している。

X(旧ツイッター)より

結局分かったことは、今のままの自分でいいってこと。何かしら、正常な自分になる必要もないし、昔の自分に戻る必要もない。僕は今のままでいい。
posted at 22:55:29

@nadorefim そうそう、好きな理由なんか説明できない。かってぃーさんがReolが好きなのは、かってぃーさんにとって天使さまみたいな存在だからだね。余裕で分かります。
posted at 22:54:05