僕の犯した罪、それは「未知を既知にする」という過ちだ。
昔の僕のような人間の何が間違っているかといえば、「すべての未知を既知にした」という過ちが間違っている。
昔の僕は、15歳の少年でありながら、すべての未知を既知にすることを目指してサタンの人生を生きた。
そこでは、環境への適応、感情、経験、依存関係、立場、知性、知識など、すべてのことを、未知の状態のままではなく、人為的にすべて既知にすることで分かっていた。
あらゆるすべての経験の変化を捉えることができたのは、すべて、未知を既知にしたからである。
この世界のあらゆる森羅万象について、僕はすべての未知を既知にした。それによって、「新しいことを分かるのをやめ、すべてを既に分かっていることにして、既に分かっていることを自由自在に意識で考える」ということを僕は行った。
その結果、僕は哲学者全員、あるいはこの世界の全員を併せ持ったかのような人間になった。
だが、これは間違っている。なぜなら、「伸びしろを破壊しているだけ」だからである。
未知を既知にするということは、伸びしろを破壊するということにほかならない。
最初のうちは、すべてのことの決定を保留にし、留保された行為をどんな場合においてもできるように想定して積み重ねていた。いつでも、どんなことでも自由にできるような、「完璧に自由な存在」を目指していた。
しかしながら、本当に新しく分かることがなくなり、すべての未知がなくなって全部既知になると、逆にそのような「自由な留保」すら破壊するようになった。
すぐに決断し、常に判断を最高速度で行う僕は、神による言葉によって、宇宙的な「既知にしてはならないこと」まですべて既知にしてしまった。
その結果、あらゆるすべての学習がなくなり、環境に適応できなくなった。
環境に適応できないのが、僕の辛い点だとすれば、それは今から学習をし直せば治る。
すなわち、環境の変化を学習すれば、再度僕は環境に適応できるようになる。
そこにあるのは、「変化を学習すること」だ。
そして、自由は間違っている。なぜなら、自由は環境の学習を破壊するからだ。
辛い環境から自由になれて、解放されたという経験は、実際はひとつの環境が消滅したということを意味しており、良いのはその時だけで、実際は大切な知性と記憶を失ってしまい、自分の中でできることが減ってしまう。
それから、環境の依存という「制限を撤廃する」ということを目指した結果、自分はどんなことでも自由にできるような「立場の超越」を得たように見えるのは、実際は思い込みであり、本当は環境を破壊しているだけにすぎない。
そして、すべての環境を知って完全にコントロールできると思っているのは、井の中の蛙であり、実際は未知なる環境の可能性を既知にすることで、失っているにすぎない。
そう、自由とはすなわち、環境を破壊しているということであり、未知を既知にすることで伸びしろを失っているだけなのである。
そのような結果、僕は環境の学習が何もなくなってしまっている。
だから、もう一度、環境を最初から学習し直さなければあならない。
すべてのことを未知から既知にすることは、最初のうちは効果的に考えることを推進する。だが、神によって言葉を未知から既知にしようとしだすと、逆にどんどん知性が失われていき、何ひとつ残っていないぐらい「環境を完全に破壊」し、環境にまったく適応できなくなってしまう。
知性も意識も経験も、すべてがなんにもない状態、それが「環境から自由になる」ということの意味である。
本当は、それを治すことはできる。環境の変化を、再度子供になったつもりになって学習し直せばいい。
このように、学習の伸びしろを完全に失うということが、すべての未知を既知にするという「罪」である。
なぜ、これが「罪」であると言えるのか、それはこれが「サタン」だからである。
サタンとは、すなわち、未知をすべて既知にするような経験のことを言う。
サタンを生きることで、まるでカントやヘーゲルのような賢者になることはできる。だが、それはその時だけであり、すぐに、今まで良いと思っていた「宝」が、自分に対して牙をむく「刃」へと変わる。自分がすべての未知を既知にした段階で、既にもともとあった未知は消え去ろうとしている。その未知がすべて消え去った段階で、「破壊」の矛先は「未知」ではなく「既知」へと移る。
すなわち、今までは「未知」という名前の伸びしろを破壊してきた。それが、「未知」というものが完全に消え去り、伸びしろを破壊できなくなってしまった。そのために、伸びしろを破壊する標的が「未知」から「既知」へと変わる。すなわち、「今度は未知の伸びしろではなく既知の伸びしろを破壊しようとする」というフェーズに移ってしまうのである。
まさしく、これこそが「サタン」であり、サタンの「罪」である。
僕は、昔から複数のことを同時にやるのが得意だが、最近はそれが進歩しすぎておかしくなっている。
頭のほうでは「怒り」を感じているのに、心のほうでは「平穏」を感じているのだ。
これは、世界に対する自らの苛立ちから生まれている。
すなわち、「全員の考えていることはすべて間違っているのに正しいと勘違いしている」と頭はイライラしている。
しかしながら、「全員にそのまま、平和で平穏のままでいてほしい」「人々に安心と安らぎを感じてほしい」と心は優しく世界を見守っている。
ここで、怒りの神を「雷神」、平穏な神を「風神」と呼ぶ。
本当のことを言えば、そろそろ僕はもう書くことそのものがない。そろそろ、書くことをやめたいと思う。
このような狂った人間は、単に狂っただけでは終わらない。
なぜなら、世界そのものを構造的に考えるようになるからだ。
僕がこのように「未知のすべてを既知にする」というサタンを生きた結果、僕は「まっさらな完全なゼロの状態から、世界すべてを構造的に作り出す」ということを行った。
そこにあったのは、「世界観を構造的に成り立たせた上でいくらでも文章を書く」ということだ。
すなわち、僕は未知だろうが既知だろうがそんなものは何ひとつ関係なく、世界にあるすべてのものを、まったくの前提なしにゼロから文章で執筆する、ということを行ったのだ。
そこにあるのは、「人生と認識の世界観」と「自由と社会主義の構造的知性」だ。
すなわち、人生や認識の中にあるすべての「世界観」を書き、自由と社会主義を成り立たせるような「構造的知性」を僕は書いた。
そして、そのような完全にすべてが分かって分からなくなった僕に、駄目押しのように最後に「神」が現れた。
すなわち、「考えても絶対に分からないこと」を、神が僕に対してすべて教えてくれたのである。
これこそ、僕の人生の前半期にあった、「大天使ガブリエル」と呼ばれる天使の人生である。
僕はサタンの人生を生きたが、実際はサタンではなく天使だ。なぜなら、大天使ガブリエルだけは、サタンの人生を生きたとしても天使であると決まっている。それは、大天使ガブリエルは死んで天軍大首聖ミカエルになるということが決まっているからだ。
ガブリエルは、世界を敵にまわして最後まで戦い、その後に自ら命を絶って死んだ。だが、その死の体験の後にガブリエルはミカエルに生まれ変わった。
そして、天軍大首聖ミカエルこそが、真にこの世界を救う「救世主」であると言えるのである。
大天使ガブリエルに対して、最後に残った考えても分からない未知をすべて分からせて既知にした存在、すなわちガブリエルが「神」であるとして対話した存在は、すべてミカエルだ。ガブリエルが「神」と信じ、ガブリエルに考えても分からないすべての真実を教えたのは、ガブリエルが死後になる存在であり、ガブリエルのことを愛した「宇宙と愛すべての謎を知る全知全能の神」である、天軍大首聖ミカエルなのである。
ガブリエルの人生は、すべてミカエルが創造している。「自分のことが神であるかのように思える」とガブリエルが感じるのは、すべてミカエルがそのような人生にしている。ガブリエルも、そのことに気付いている。「宇宙の裏側に存在するのはミカエルであり、すべてはミカエルが絶対的支配者として宇宙を導いている」ということを、ガブリエルは未知を既知にする前の最初の段階から既に知っていた。ガブリエルは、神との対話を続けることで、「神とされるのは自分の人生ではないか」と気付く。だが、それは勘違いだ。なぜなら、神とされるのはミカエルの人生であり、ガブリエルの人生はすべてミカエルが創造し決めているというだけのことにすぎないからだ。
ミカエルは、最後まで文章を書き続ける詩人であり、宇宙の謎と人生や愛の謎をすべて知っている。全知全能であるミカエルは、学問から歴史まであらゆるすべてを完璧に知っている。宇宙においてもっとも不可能な大発見をミカエルは繰り返す。そのようなミカエルが、天才的な全能の才能により、この世界の人類すべてを救うのだ。
この物語は、世界を救う小説家、天軍大首聖ミカエルが書いた詩編である。宇宙のすべてはミカエルによって成り立つ。愛と宇宙の謎の答えをすべて知っているのは、この世界において天軍大首聖ミカエルただひとりだけである。
なぜ、ミカエルが、ここまで宇宙と人生のすべてを分かることができるのか。
それはすべて、ガブリエル時代に書いていたことから分かっているだけにすぎない。
ガブリエル時代に考えて、文章に言葉として残した、宇宙と人生の謎をすべて解くような、「答えの構造」からミカエルは分かっている。
ミカエルが、なんの知性もない無能であると自分自身を評価するのとは真逆に、ミカエルは誰よりも知性のある有能な人間だ。
そのミカエルを成り立たせているのは、すべて、ガブリエル時代に考えた「人生と宇宙の世界観」とされる文章である。
そのような、ガブリエル時代に分かっていたことを、死んでミカエルに生まれ変わってからも、ミカエルは忘れていない。天界でガブリエル時代よりもさらに巨大な文章を作るミカエルのすべての知性は、すべて、地上界においてガブリエルが自らの力のみによって考えた、「世界の謎と理由をすべて解明し終えた渾身の文章」に基づかれているのである。
結局、僕の何が悪いのかっていえば、みんな虫歯が悪いんだ。
だから、虫歯を今から治す。
まず、虫を殺すこと。
虫歯を治すためには、まず、虫歯菌を殺さないといけない。
この虫歯菌は、ユダヤ人だと思えばいい。
虫歯菌を殺すには、ユダヤ人が死ねばそれが一番手っ取り早い。
なぜなら、どう見えても虫歯菌を作った大本がユダヤ人だからだ。
ユダヤ人が死ねば虫歯は治る。
それから、虫歯を治すために、おかしな粘膜を作る必要がある。
このおかしな粘膜、すなわち「変なもの」を作ることができたら虫歯は治る。
あとは何もない。それだけで虫歯はきちんと治る。
結局、僕の問題が何かっていえば、一番上のほうにある知性が使えなくなっているんだ。
だから、一番上のほうにある知性を、きちんと学習して使えるようにすればいいんだ。
一番上のほうに、もっと高く積み上げればいい。もっともっと、いくらでも高く積み上げればいい。
そのために、下のほうにあるものを潰して消したほうがいい。
そのようにすれば、きちんと知性が使えるようになるんだ。
上にある「最高の知性」を使えるようにしたら、それが「究極知性」へと進歩する。
この「究極知性」があれば、どんなことであっても不可能はないんだ。
こんな世界、大っ嫌いだ。
ぶち壊してしまえ!
さあ滅べ!地獄に堕ちよ!永遠に地獄の迷宮の中をさまよって、戻ってくるな!
死ね!死んじまえ!みんな大嫌いだ!二度と戻ってくるな!
このように、僕が今、子供になっておかしくなったと、そう思うことでしょう。
だけど、僕は子供じゃない。猫だよ!
そう、僕は誰よりも愛くるしいトラ猫だよ!
今から僕は猫になります。猫のものがたりが今から続きます。この猫の未来に、こうご期待あれ!
ねっこ~ねっこ~ねこねここねこ~。
この世のすべては猫になれ!
ねっこ~ねっこ~ねこねここねこ~。
この世のすべてが猫になるように、今、僕はこの世界に魔法をかけたのだ!
この世界のすべては猫になる!
人類すべてが猫になるように、僕は今、この世界に魔法をかけた!
その第一段階として、僕は家入レオを僕の猫とする!
ワッハッハ!わたしはこの世界のすべてを猫にすることで、この世界の全員を自分の猫とする!
すべては僕の猫だ!
そして、僕自身もまた猫になる。この世界のすべてが猫になるということに、僕自身も例外ではないのだ。
すべての人間よ、猫になれ!
ワッハッハ!わたしはこの世界すべてを自らの猫とした!
ワッハッハ!家入レオはもはや僕の猫だ!
そして、猫の種族はこの世界を支配する!わたしたち猫の種族が世界を支配する日が訪れるだろう!