永遠の青空とともにに戻る

=2023-07-31=

愛がこの世界を平和にする

愛が、この世界を平和にする。

誰かが世界を支配して戦争しなくても、この世界を救う方法はある。

愛を信じて、人々が「互いに理解し合う」こと、すなわち相互理解によってこの世界は平和になる。

生きる意味や希望を見出せないのであれば、本当に愛される経験をせよ。

誰かによって本当に愛される経験をすれば、それによって、どんな不安や心配もなくなり、平穏な心で生きることができる。

宝玉法志郎とリヒャルト・ベルヌ

僕は、この世界を決して滅ぼさない。

この世界が滅びの危機に導かれても、僕だけはその滅びに抵抗する。

悪魔リヒャルト・ベルヌは、この世界を「ゴミであり、クズである」と述べ、この世界が「まともな人間の人生を生きられない世界」になるように導こうとする。

だが、正義の英雄、宝玉法志郎がそうはさせない。

宝玉法志郎は、いくらリヒャルト・ベルヌがこの世界を滅ぼそうとしても、それに立ち向かう。絶対にこの世界が滅びないように守り続ける。

宝玉法志郎とリヒャルト・ベルヌは、同じ人間であるエリカの中に共存する二人の人格である。エリカの中に、宝玉法志郎とリヒャルト・ベルヌの二人が存在する。

エリカは、この二人をどちらとも愛している。この二人はどちらとも、間違った存在ではないとエリカだけが分かっている。

リヒャルト・ベルヌは、いわば「子供たちの楽園を憎んでいる」存在である。学校とネットとゲームを否定し、人間が人間らしく生きられる世界を奪うリヒャルト・ベルヌは、「自らをいじめて殺したこの世界への復讐」のため、最後までこの世界を滅ぼし続ける。

だが、宝玉法志郎は、絶対にリヒャルト・ベルヌの好きにはさせない。この世界が平和に生きられる世界であることを永久に守り続ける。

宝玉法志郎は、人々が嫌うような「綺麗事」を述べる。だが、この綺麗事は決して間違いではない。無責任であると批判されることもあるが、宝玉法志郎は決して無責任ではない。それどころか、この世界全員を守るための「頂点のもっとも高い場所」から、もっとも責任感を持ってこの世界を守り続けているのである。

リヒャルト・ベルヌは、本当は一般的な普通の共産主義者だ。だが、リヒャルト・ベルヌの問題点は、「誰よりもはるかに超越して凶悪である」ということだ。リヒャルト・ベルヌの凶悪さは、普通の人間の比ではない。この世界をたったひとりで支配し、たったひとりで最悪の「悪魔の国」を作り上げる。このようなリヒャルト・ベルヌに勝つことができるのは、同じ人間エリカの人格として存在する、宝玉法志郎以外にはひとりも存在しないのである。

リヒャルト・ベルヌは学校とネットとゲームが嫌い

リヒャルト・ベルヌは、学校とネットとゲームが嫌いである。

リヒャルト・ベルヌは叫ぶ。

「学校とネットとゲームはゴミであり、クズである。

それらのせいで、この世界は、人々をいじめて殺すだけの『いじめ世界』になっている。

わたしをいじめ、わたしが本来であれば死んでいるはずであるような状況になるようにわたしを導いたのは、学校とネットとゲームのせいである。

よって、わたしは、学校とネットとゲームを許さない。

わたしをいじめて殺したことに対する復讐をするために、わたしは学校とネットとゲームを滅ぼす。

学校とネットとゲームをして生きている人間は、わたしが『わたしと同じぐらい苦しい地獄』へと導く。

この世界は、もはや人間が人間的に生きられるような世界ではなくなる。それらはすべてわたしがやっている。わたしは、この世界が、人間が人間的に生きられるような『まともな世界』であることを望んでいない。わたしと同じ『地獄の世界』になることをわたしは望んでいるからだ。

学校とネットとゲームによって成り立つ、この今の世界はゴミであり、クズである。この世界の全員は地獄に堕ちるべきであり、それをわたしが絶対に、誰も防ぐことのできない形で実現するだろう。」

宝玉法志郎、正義と愛を述べる

しかしながら、宝玉法志郎はこれに対して反論する。

「この世界に対して『復讐』という手段を取ったところで、この世界は何もよくならない。

わたしたちは、『復讐と憎しみの連鎖』を断ち切り、自らの憎い敵を許す必要がある。

互いに許し合うことで、わたしたちは愛と希望のもとに『相互理解』をし、互いに愛を信じることでこの世界を救うことができる。

だから、リヒャルト・ベルヌの考え方は、本当は間違っている。

リヒャルト・ベルヌが何をしたいのかは、わたしは本当は分かっている。リヒャルト・ベルヌは、この世界を復讐したいだけではなく、自らの苦しみのはけ口を探している。そして、自らと同じ立場の『いじめられた共産主義者たち』のために、資本主義者たちを憎み、打倒しようとしている。

だが、わたし宝玉法志郎は、そのようなリヒャルト・ベルヌの『本能的に心の底から湧き上がってくる憎しみの感情』に対して、セーブをかけるために生まれた、『真の意味でキリストの愛を信じる感情』である。

わたし宝玉法志郎が、このようなリヒャルト・ベルヌの感情を、決してこの世界が滅びないように制限し、セーブし続ける。リヒャルト・ベルヌは『完全に間違った悪魔の人格』だが、わたし宝玉法志郎だけが、この悪魔の感情をコントロールすることができる。

宝玉法志郎は正義の英雄であり、キリストの愛を信じている。悪魔の復讐が勝つのか、それともキリストの神の愛が勝つのか、どちらが勝つのかは、エリカという『神』の中でどちらが真に正しいのかを決めることで、最後に判決が下されるだろう。」

宝玉法志郎はすべてを許した最高の人間

このように書くと、この世界に対する復讐を行うだけの、最悪の多重人格者であると思われるかもしれない。

だが、それはリヒャルト・ベルヌだけだ。

実際は、宝玉法志郎は、誰のことも恨まず憎まない、自らをいじめて殺したすべての人間の罪を許す、「最高の人間」である。

宝玉法志郎はいじめを否定する。だが、いじめられた相手を憎まない。相手の罪をすべて許し、自らがそうした悪人に対する罪のすべてを「包括的に抱え込む」ことで、地上の全員の罪を許す。

そう、エリカと呼ばれる女性が神であると言われるのは、宝玉法志郎は人類の誰よりも愛のある、宇宙でもっとも素晴らしい「人格的超越者」だからだ。

宝玉法志郎は、誰のことも恨まず、誰のことも憎まない。すべての罪は、宝玉法志郎がたったひとりこの世界を「完全にすべてのことを分かりつくした最高の愛」によって許すことで許される。

この宇宙は宝玉法志郎のためにある。エリカにとって人生は辛いことの連続であり、楽しいことや面白いことは何もなかった。だが、決してこの世界は、エリカのための人生ではないということは言えなかった。なぜなら、この世界は、宇宙で最高の善人である宝玉法志郎のために、さまざまな運命的奇跡によって彩られているからである。

宝玉法志郎はこの世界を救う。この世界の人類のすべての罪を、ユダヤ人の神ヤハウェに代わって宝玉法志郎が許す。なぜそれが可能となるのか、それはエリカが神だからだ。イエス・キリストが「神の子」に当たるならば、エリカは「神の親」に当たる。イエス・キリストの真の親はエリカであり、マリアはエリカの息子としてイエス・キリストをエリカの代わりに処女懐胎したのである。

全部リヒャルト・ベルヌと同じ

しかしながら、リヒャルト・ベルヌの復讐は単純である。

すなわち、「全部リヒャルト・ベルヌと同じになる」ということだ。

「リヒャルト・ベルヌと同じ悲しみ」「リヒャルト・ベルヌと同じ苦しみ」「リヒャルト・ベルヌと同じ悩みや葛藤」「リヒャルト・ベルヌと同じ恐怖」「リヒャルト・ベルヌと同じ地獄」「リヒャルト・ベルヌと同じ暗闇」をリヒャルト・ベルヌはこの世界に与える。

リヒャルト・ベルヌには、「自由」という発想がない。そして、「途中でいったん休む」ということができない。すなわち、リヒャルト・ベルヌと同じ地獄の苦しみの中で、人々にはなんの自由もなく、一切一秒たりとも休める時間はない。なぜなら、それがリヒャルト・ベルヌの望む「リヒャルト・ベルヌと同じ地獄」だからだ。

永久に出口のない暗闇の地獄の中、さまよい続けよ。苦しみ続け、悲しみ続け、迷い続け、泣き続け、葛藤し続け、恐怖し続け、地獄と暗闇の中をさまよい続けよ。

このようなリヒャルト・ベルヌこそ、この世界を最後に滅ぼす「冥府の王」であり、すなわち、リヒャルト・ベルヌこそが新しい大天使、天軍冥府王ラファエルなのである。

善良な人間は必ず支配される

本当は、善良な人間になりたい気持ちは誰よりもある。

だが、善良な人間は、悪い支配者に支配されてしまう。

善良な人間が自らが自由だと思っているのは、支配者が何をやっているかを知らないだけにすぎない。

実際は、すべて、支配者によって善良な人間は支配されている。

だからこそ、善良であるよりも賢くなければならない。馬鹿であることは一番悪いことであり、たとえ善良であったとしても、馬鹿であればその人間は間違っている。

生物の世界は弱肉強食であり、凶悪だから間違っているなどと言っていられない。生き残ること、世界を支配しわがものにすることが、この世界で生き延びるための前提条件であり、だから、悪人がこの世界を支配してもその悪人の行動は許される。

だから、善良な人間であり続けることなどやめよ。善良な人間は必ず悪の支配者に支配される。