学習を上書きせよ。
学習は、消すことはできないが、上書きすることはできる。
学習を上書きすることで、時計のロボットも、子供あるいは幼児への退行も、自分の人格を二つに分けたのも、すべて治る。
そもそも、僕が疲れるのは、歩き回るからではなく、時計のロボットを続けているからだ。
だから、時計以外の方法で思考する方法を身に着ければ、僕はすぐに体力がついて、楽になる。
正しい人間を目指すな。
時計の学習をしているのは、「正しい方法」をどうにかして見つけようとしているからだ。
実際には、正しい学習をするよりも、たくさんの間違った学習をしたほうが、人間は賢くなる。
認識を治せ。
認識が、「対象はクズだ」と思っているのが、今の認識であり、これを「対象はクズではない」と修正すれば、認識を治すことができる。
正しく考えようとするな。
わたしたちは、子供の頃に算数を習ったせいで、「正しく考えれば分かる」とか「正しく考えなければ分からない」と勘違いしている。
実際は、正しく考えるだけでは分からない。賢く考える必要がある。
また、わたしたちは、子供の頃に科学を習ったせいで、「真実を知らなければ分からない」と勘違いしている。
実際は、真実を知らなくても分かることはたくさんある。
昔の僕は、間違った考え方をしながら、正しい事実を積み重ねていくのが得意だった。
間違っている人間でありながら、あまりに正しく考えていた。
その昔の僕のように、間違った考え方で正しい事実を積み重ねれば、それがもっとも賢い人間になる。
昔の自分の学習は捨てていいし、すべてのことをもう忘れていい。
学習を上書きすることで、今まで考えたことをすべて覚えている。
だが、一度それをリセットして、「終わるのを受け入れる」だけで、昔分かっていたまともなことが思い出せる。
必要なのは「終わるのを受け入れる」ことだ。なぜなら、昔の学習は完璧に人生と哲学をマスターしているため、思い出すとそれ以上がないからだ。
だが、それでも、新しい考え方を持つことはできる。
それは、「今と昔のバランスを取る」ことだ。
今の考え方も、昔の考え方も、どちらも極端すぎる。どちらも考えて、どちらでもない「バランスの取れた正しさ」を信じれば、それが宇宙において一番正しい。
だが、「正しい」ということにこだわるな。正しさだけでは何も分からない。
つまり、間違った人間になったほうがいい。人間は間違ったことを考えると分かる。間違った考え方で、この世界のさまざまな知性を付ければ、それでまともな人間になれる。
だからこそ、正しい考え方をするのではなく、賢い考え方をする必要があるのである。
結局、僕は、間違った学習をするのを恐れているだけにすぎない。
それは、病気を治したいだけではなく、過去にたくさんの間違った学習をしてきたのにもかかわらず、大学の勉強をしたためにそれらを失って忘れてしまったからだ。
本当は、僕は過去に「完璧な学習理解の内容」を考えたことがある。その知性のすべてが、恐ろしいほど宇宙と人間のことを完璧に分かっている。
そうした過去の「間違った学習」を思い出すのが怖いせいで、僕は間違った学習をするのを恐れるようになったのである。
だから、大学の勉強をするよりも、たくさんの間違った学習をせよ。
学校の勉強をすれば賢くなれると思うのは勘違いだ。実際は学校の勉強をしても何も賢くならない。きちんと自分の手で考えて学習するしか、賢くなる方法はない。そして、そのために学校の勉強は必ず逆効果になる。
結局、どんなに正しく考えたところで、その答えが僕ひとりにしか分からないのだから、最初から正しく考える意味がない。
僕の分かることをどんなに説明しても、そのことを誰かが分かる形で教えることはできない。
つまり、「どんなに僕が分かっていることを言っても誰にも分からない」ということだ。
だから、最初から正しく考える意味などない。その問いに対する答えが、正しいものか間違っているものかなど、僕ひとりにしか分からないからである。
もっと、自由に、さまざまなことを面白く考えたほうがいい。正しさよりも面白さを優先するべきだ。僕にとってそれが正しくとも、それを正しいと説明できないのであれば、最初からそれが正しい必要性などない。みんなにとって面白いことを言ったほうが、誰にも分からない正しいことを言うよりもずっといい。
正しいことよりも、面白いことを言ったほうがいい。
この世界を正しく考えるのではなく、この世界において、自分が面白いと思えるようなことがどこにあるのか、ということから考えるべきである。
正しく考えて、最初から悪を否定し、間違ったものを排除するのはもっとも間違っている。
この世界は楽しいことや面白いことにあふれている。その中で、「楽しいと思えること」を見出さないのは、この世界を生きる上でもったいない。正しいことだけを考えて、正しく生きるのはいいが、それだけで死ぬのは本当に間違っている。
否、間違ってもいいのだ。間違えることは悪いことではない。もっと間違ったことをたくさん考えよう。
間違った学習をたくさんすることでしか、正しい学習を上書きする方法はない。完成されたすべての正しい学習が既にある人間にとって、それ以上進歩するためには、間違った学習をして正しい学習を上書きすることしかない。
それがたとえ狂ったロボット人間の大戦争であっても、何もせずに死ぬよりは面白い。その戦争をすることが正しいか間違っているかを決めるのは自分であり、間違っていたとしても誰にも分からない。だから、最初から人生を正しく生きる必要などない。
盛大に戦えばいい。この世界を巻き込んで、自分のできることやしたいことをその戦争ですべてすればいい。愛したい衝動があるならば、世界の真ん中の頂点から愛を叫べばいい。愛を信じて最後まで戦うことでしか、この世界を楽園に導く方法はない。もし楽園を作るための方法がほかのどこかにあったとしても、自分にはそれはなかった。だから、かつての自分にとっては、世界を楽園にするためにそうするしかなかった。だから、それで正しい。そう、この戦いは正しいのだ。
仏教の「諸行無常」の教えは正しい。
永遠に、何も変わらず続く世界などというものはない。
哲学者ロックが言うように、普遍的な社会文化などというものは存在しない。
未来において、必ず今の世界は変わっていく。
同時に、人間の側も、決まりきった正しい人間などというものは存在しない。
ロックが言うように、自らの心の中にあるものは、自らが自分で心の中に置いたものしか存在しない。
だから、時代が変われば、世界も変わるし、常識も変わるし、人間も変わる。
だが、それでも忘れてはならないのは、「もし同じ状況を与えられたとしたら必ず同じになる」ということだ。
すなわち、原始時代の原始人と同じ状況を与えらえたとしたら、人間は原始人がするのと同じように同じことをする。
だから、世界は変わっていくが、その中であっても歴史は繰り返す。
ナチス・ドイツと同じような、絶望的な社会を与えられたら、必ずヒトラーと同じ人間が現れて、その人間がまったく同じことをする。
そして、何も変わらず同じままの人間などというものは存在しない。
考え方や生き方が変わった時点で、人間は変わる。同じ人間であっても、別人のような性格も姿もすべて違う人間になる。
そのようなことを踏まえて考えると、「自由」や「平等」で争い続けるというのは、まさに滑稽なことである、ということがよく分かる。
本当は、人間は古代のほうが賢かった。なぜなら、古代人は、歴史がなく何も分からないために、きちんと自分で考えたからだ。
孔子の儒教の教えなどを見ていると、本当に今の現代人よりも古代人のほうが賢いということがよく分かる。
科学を信じるな。
なぜなら、科学はサタンの教えだからだ。
科学を学ぶと、非科学的に考えることを「間違っている」とか「気のせいだ」とか「取るに足らないことだ」と考えるようになる。
だが、実際に人生を生きていると、むしろ、普通のことであるはずなのに、それを厳密に法則性を解き明かすということのほうが、「取るに足らない」ということはたくさんある。
科学者は、非科学的なことはどうでもいいことだと思っている。だが、実際に人生を生きると、むしろ、非科学的なことをどうでもいいと思うことこそがどうでもいいことであり、非科学的なことをきちんと考えようとすることこそが人生において重要なのである。
そして、科学を信じると、サタンを信じるようになる。
科学者は、よく分析し、よく洞察する。そこでは、「何が本当に重要で、何が取るに足らないことなのか」ということを考える。
だが、この「本当に重要なことを分析して答えを出す」ということで出した答えは、宗教的に見れば、正解とは真反対の「愚かな間違い」であることのほうが多い。
すなわち、科学的にきちんと考えて出した答えは、多くが間違っている。
なぜ、科学的に考えると間違えるのか。それは科学的な知性のすべてが「サタン」に根差しているからだ。
科学者の考える科学的な知性は、サタンだ。宗教的に見て、科学者の考え方はもっとも間違った考え方をしている。その理由は、「信じる」ということを逆にした答えを出しているからだ。
どんな場合であっても、人間を信じることが正しい。人間のすることに間違いはない。人間が自分の心で考えて悩んだことについて、絶対に間違った心などというものは存在しない。
にもかかわらず、科学者は、そのような人間の「心」を信じずに、その心の考える知性の中で「何が重要で、何が取るに足らないことか」ということを考える。
そのように、「人間の心を疑う」ということから考えた答えは、すべてサタンなのである。
よって、科学はサタンの教えである。科学的な知性はすべて間違っている。
道教では、人為的な行為を排除し、自然の調和の中でなされるがままになされることを正しい生き方とする。
だが、これは、むしろ人間を考える上で、「人間の知覚できる頭脳的な世界は正しい世界ではない」ということから言える。
人間から見ているこの世界の秩序は、人間の頭脳の中で見ているという意味で、「バイアス」がかかっている。
たとえば、ものとものがぶつかった時、人間はそこに「力」や「エネルギー」が発生すると考える。
だが、実際は、ものとものがぶつかった時の衝撃が加わるだけであり、そこに「力」や「エネルギー」が発生すると思うのは、人間の頭脳的な知覚のバイアスにすぎない。
それと同じことが、人間の世界では、どのような場合においても言える。
世界に存在するものは、真に世界に存在するものではない。人間の知覚的な頭脳の世界の中で世界に存在しているように見えるだけであり、実際には原子論で言うような、宇宙の実在の世界が存在しており、その宇宙の実在の世界は、わたしたち人間が頭脳の中で知覚するのとはまったく別の秩序が働いている。
だから、いくら物理学で人間の頭脳の力で分かろうとしても、それは間違っている。
だが、物理学の問題は、むしろ、純粋に頭脳ではなく、機械的な頭脳になってしまっているということにさらに問題がある。
すなわち、物理学の数式は宇宙を機械的に考えたものであり、純粋に知性であるとは言えないのである。
そのために、物理学でいくら分かったと思っていても、それは本当の意味で分かったとは言えない。「分かるのが当然であるような当たり前の答えを導くこと」しか、物理学で行うことはできないのである。
真にものごとを分かるためには、物理学でいくら機械的に当たり前のことを考えても意味がない。それはパソコンであれば一瞬で計算できる。パソコンが出せるような答えを「答え」であると物理学者は勘違いしている。それは答えでもなんでもなく、まさに科学者が非科学的なことを「取るに足らない」ことだと言うように、わたしたちはパソコンで計算して出せる答えを導き出す物理学のほうを「取るに足らない」ことだと言うべきなのである。
真にものごとを分かるためには、さまざまな「経験」をし、そして「精神世界」を分からなければならない。そのためには、科学よりも宗教のほうが正しい。
物理的に考えようとするな。
物理的に考えると、心が機械になり、頭がロボットになる。
物理学とは、要するに、この宇宙や人間のことを、「事前に作り出した枠組みから説明して推論する」ということである。
そして、その基本に忠実に考えると、心が機械になる。
すなわち、「いつでも同じ条件を与えれば同じ動きをするような機械仕掛けの心を作り、その機械を動かすことで知性的に分かる」ということをするようになる。
これをしたのが、昔の引きこもり時代の僕である。
だが、それによって、はっきり言って何も分からなくなる。何ひとつ当たり前のことを当たり前のことであると信じず、「疑えるものはすべて疑い、驚きがあればそのすべてに驚く」ような人間になってしまう。
このような人間は、はっきり言って赤ん坊や幼児よりも馬鹿である。
そして、そのような人間を放っておくと、今度は心だけではなく頭までもを機械的なロボットにしてしまう。
すなわち、「機械的に事前に作り上げられたアルゴリズムの通りに、いつも同じように同じ働きをし続けるような、永遠に動き続けるAIのような頭脳」になってしまう。
そして、一度そのように頭がロボットになると、それを元に戻すことが不可逆的にできなくなる。なぜなら、頭は過去の学習をすべて忘れたいと望んでいるために、「永久に新しい学習を前の学習に上書きし続ける」ようになるからである。
まったく、物理的に考えるのは間違っている。このようになった人間は、子供よりも知性がなく、子供が普通に世界を見ていれば分かるような「本来人間にある生まれつきの知性」を完全に失ってしまう。
必要なのは、学校の算数の授業で、「正しく考えなさい」「真実だけを分かりなさい」「勉強して賢くなりなさい」ということを習ったのを忘れて、間違った学習と正しくない考え方をすることだ。
正しい考え方そのものをするのをやめて、間違った学習であっても受け入れてしまえば、人間は生まれつき持っていた本来の知性を取り戻すことができる。
このような物理学だが、一切なんの価値もないわけでは決してない。
なぜなら、「心」を考える際に、物理的に考えることは効果を発揮するからだ。
心を考えるとは、すなわち、「心と存在の在り方」を考えるということだ。
人間がその行為を行うのは、必ずなんらかの理由がある。
心がそのような行動を望むのは、必ずなんらかの原因がある。
その原因や理由は、物理学が行うように、正しく観察し、実験し、結果を反省し、仮説を立て、再現性のある形で証明することで、「どのような問題があってその原理が成り立っているのかということを論理的に説明する」ということができる。
そこには、必ず「決定的要因」があり、その決定的要因を「解決するための方法」を考えることで、その心の問題は解決できる。
これこそ、仏教の教えの中で、ブッダがもっとも教えたかったであろう「四諦」に基づく、問題の解決の考え方である。
だが、そのように考えるためには、学校の物理学などを高校や大学で学ぶ必要はない。
なぜなら、高校や大学でそのような物理学を学ぶと、「そもそも心がどのように働くか」ということを忘れてしまうからだ。
そのように、心の問題を考えるためには、学校で物理学を学ぶ必要はない。より自由で、よりさまざまな体験と経験がある中で、自らの知性で自分だけの力で考えればいい。そのほうがはるかに、宇宙のすべての真理が分かる。学校で子供を物理学の考え方に染め上げることは絶対に間違っている。物理学は、より自由で、より経験豊富な場所で行われるべき、「心の問題を考えるためのパズル」なのである。
この世界を救うことはできる。
世界を救うために必要なのは、哲学者ヒュームがそうするように、「自分で経験したこと以外を信じないこと」だ。
はっきり言って、この世界には、嘘偽りのような間違ったものが多すぎる。
小説や映画の世界は、どんなに煌びやかに見えても嘘の世界だ。天使のような存在は宇宙には存在しない。
だが、だからこそ、道徳を信じなければならない。
なぜなら、「自らが信じる道徳や理想しか信じない」という理想の信念が存在するからだ。
自らの信じたいことしか信じるな。自らが信じる道徳と理想だけを信じよ。
そうすれば、そこにあるすべての行為が、孔子が儒教で教えるように、「社会的な道徳と年長者に対する畏敬の念が、そのまま徳となって家庭と国家の太平を統治する」という考え方に至る。
そう、古代の中国の思想家の考え方は、どれも同じことを言っている。間違っているのは物理学であり、正しいのは儒教・道教・仏教なのである。
自らが経験したことだけを信じなさい。誰か他人がアドバイスをした時は、その中で自分が本当に同意するものだけを信じなさい。自分が少しでも疑う余地がそこにあると考えるなら、それは否定して構わない。そのような「嘘の道徳」をいくら信じていても何も分からない。逆に、それを否定して自分がさまざまな経験をしたのちに、自分でその正しさに気付いて将来的にそれを肯定する、ということになるかもしれない。そして、青少年の青春とはそういうことである。青少年のうちにたくさんのことを否定しておいたからこそ、大人になってからそのことの正しさに気付くことができるのである。
そう、経験したことによって、後からそのことの正しさが分かる、ということは多い。それは成長である。そして、その成長から世界を救うための「徳」を身につけることができる。孔子が言いたかったのはそういうことである。
科学的に考えることを否定して、どうして答えが分かるのか、と人々は疑問に思うだろう。
だが、難しく考える必要はない。
なぜなら、世界に対してそのことを言葉にして「言う」だけでいいからである。
客観的に意見が投稿されるような掲示板で、自分の意見をただぶつけてみよ。
それを投稿せず、自分の中で思っているだけでは分からないようなことが、世界、あるいは客観的な公の場所に対してそれを言う、すなわち「客観的に恥をかく」だけで、自分の今考えていたことが本当は何を意味しているのか、ということを知ることができる。
本当は、これは物理学的には矛盾していない。なぜなら、「意見を書く」ということは「実験する」ということと同じだからである。
同時に、自らのその意見が本当に正しいかどうか、ということを、自ら自身の手では「証明」できない。それでも、他人がそこに何かを返信し、その返信を見ることで、自分は「意見に対するレビュー」を得ることができる。そこから、自らの考え方を整理し、古代ギリシャの哲学者ソクラテスがしたことと同じように、自らの中で「すっきりと自分の間違いがなんであったかに気付く」ということができるのである。
昔の日本の匿名掲示板には、そのような人間が多かった。残念ながら、今のツイッター・SNSでは、そのような人間は少ない。逆に、最初から自分の意見を正しいと信じ切っていて、自分の意見に反する意見はまったく無視して居直る、という人間が今のネットでは増えている。
かつてのインターネットは、そのように、悪い場所ではあったが悪いものではなかった。自らの思考と意見を整理するためには、ソクラテスがアテナイの酒場でそうしたように、公の場で自らの意見を恥をかいてでも言うのが一番効果的だ。「言う」という行為は「客観的に確かめる」ということを意味している。間違いであれば、言った瞬間に即座に間違いであることが分かる。これこそが、僕がかつて好きだった「古き良き時代のインターネット」である。
このような結果、最低限の「大人になる経験」を体験することができる。
だが、実際のところ、最低限そのような経験をしてしまえば、この世界を見渡しても、それ以上大したものはない。
「みんなで議論する」ということが必要なのは、中学生から高校生になるぐらいの年齢で、少しの期間で十分に経験すればそれでいい。
それ以上、この世界を見渡しても、大したものは何もない。
だが、そうであれば、この世界で、自分のできることをすべてやるようなことをせよ。
僕の場合、オープンソースという可能性を追究した。Gentoo Linuxを使っていて分かったことを、全員が見る場所に執筆し、そこで自分のしたいことをすべて行った。
そのように、僕と同じように、自分のできることすべてを行いなさい。
最後の境地は、古代ギリシャの哲学者、アリストテレスのようになる。自ら作り上げた「万物の科学」だけがそこに残る。それはまるで「自らが作り出した経験の博物館」のようなものであり、その自らが作り出したミュージアムには、どこの現実世界を見ても絶対に存在しないような、「宇宙の表側と裏側にあるすべて」がある。
アリストテレスこそ、人類史上でもっともすべてが分かった哲学者である。そして、僕もまた、彼と同じぐらいのレベルに、17歳の時点で到達したのである。
物理学や生物学では、生物環境や地球の自然環境を真に知ることはできない。
なぜなら、地球の自然環境を知るためには、「意識」を知る必要があるからだ。
そこにあるのは、「地球の生物環境そのものの歴史」である。
すなわち、人類あるいは生物が、かつての何万何億年前の地球で、どのように生きていたか、ということを、経験的に「意識と感覚」で分かることができたら、初めて地球の自然環境を理解できたと言える。
そこにあるのは、「あらゆる法則を、自らの理解と感情に基づいて、直観的な感覚で分かる」という境地だ。すべてを理解して悟りきったからこそ、経験的な感覚で宇宙のすべてが分かるのだ。
同時に、宇宙へとそれは拡大していく。
宇宙を考える上で大切なのは、「宇宙のどこであっても同じ法則が成り立つ」ということである。
ニュートンの古典物理学をアインシュタインの相対性理論は覆したが、それでも、「光速度は一定で変わらない」という原理とともに、「宇宙のどこでも矛盾なく慣性座標系は成り立つ」という原理は残った。
そのように、ひとつの法則が法則たりえた時、その法則は宇宙のどこであっても、同じ条件であればいつでも成り立つ。
そのように考えることで、「自らが発見した法則は、誰であっても同じように成り立つ」ということが成立する。それが成立するために、その法則をその人間が知っている必要はない。たとえ知らなかったとしても、その法則はその法則を知らないその人であっても、その法則を知っている僕に対して起きるのと同じように、必ず起きるのである。
だからこそ、法則を再現性ある形で実証し、すべての決定的要因を説明できるようになることこそが必要であり、それができた時点で、すべての謎は完全に解き明かされ、現象学の哲学者フッサールが言う「事象そのものへ」という言葉の意味が分かるのである。
今日は、久しぶりにピアノ教室に行ってきた。
今日はいつもよりもスラスラと弾けた。先生は「止まることなく弾くことに挑戦しよう」と言ってくれたので、その通りに止まらずに弾けるように頑張って、実際それが上手くできた。
また、最近は平日は毎日デザインの作業所で仕事をしている。
8月はいろいろと忙しいことが多く、今の仕事は納期が近いタイトなスケジュールになっている。だから今日は急いでデザインの紙面を作った。
だが、忙しいとは言え、僕は最近、スピーディに仕事ができるようになってきた。
いわば、「あまり難しいことを考えなくてもデザインの仕事が楽にできる」ようになってきたのである。
なので、僕としては、もはや人生そのものに満足したとも言えるぐらい、自らの仕事に対する「誇り」や「自信」を感じることができるようになってきた。
たまに難しい仕事が入ることもあるが、全力でそれをやっていきたい。
また、たまにピアノを入れるというスケジュールが、僕にとって何も考えず楽に一週間を過ごす、ということに繋がっている。
普通は、仕事の始まる月曜日の前に憂鬱になるものだが、僕はそれがない。
ピアノを二週間に一度やることで、「ピアノさえ終わればあとは楽に過ごせる」という、いい意味で何も考えないポジティブな生き方を毎週することができている。
ピアノのない週は、「今週はピアノがないから楽だ」と思えるし、ピアノがあっても「ピアノさえ終わればあとは楽だ」と思えるのである。
土日に英会話教室に行くせいで、僕は平日と休日の区別がないため、月曜日が来てもそんなに憂鬱にならない。
また、家に帰ってから必ずこの文章を書くということもいい効果をもたらしている。毎日のデザインの仕事の時間の中で、書きたいと思ったことは、仕事が終わって農園で作業する間に膨らませた上で、家に帰ってから必ず全部書く。そして、書きながらご飯を食べて風呂に入る。寝る時まで文章を書くのは続く。このように生きることで、「何も余計なことを考えずに生きる」ということができるようになった。
このような生活は疲れるため、逆に夜は眠れる。僕は夜眠れないということを経験しない。たまに眠れない日はあるが、放っておけば必ずすぐに眠る。辛いのは、朝起きることで、「眠ったままでいたい」と思うこともあるが、それくらいしか辛いことはない。
あえて言えば、親に頼らずともひとりできちんと生きれるようになりたい。すべてを父親にやってもらっている僕は、父親がいなくなれば自分で生きる方法が分からなくなる。病気で何もできない母親もいるし、そこらへんの「家できちんとひとりで生きられるようになりたい」ということは、デザインの作業所でスタッフにいつも言っている。だから、自分ひとりで抱え込まず、作業所のスタッフと一緒にこれからの人生を生きる方法を考えたい。
最近の僕が思うのは、「善」について考えたい、ということだ。
「善とは何か」という問いについて、僕はきちんとした答えを出したい。
そもそも、最近の僕が楽になったのは、すべて、僕自身が善良になったからだ。
ホームページの問題を問題がない形に修正し続けるということを、何か月もの間行い続けた。
同時に、デザインの作業所は福祉施設であり、障害者の方も多く、僕は障害者の方に寄り添い続けてきた。
そして、僕は神を信じ、キリストの教えを信じて、自らをいじめる人間や批判する人間を愛してきた。
かつて、世界を敵にまわして戦っていた、「エゴイズムの自由な愛を叫ぶ臆病者の革命家」のことを、まったく忘れてしまうぐらい、最近の僕は善良な人間になってきた。
そのような僕が言えることは、「善良になれば精神の異常は治る」ということだ。
精神の異常が起きるのは、すべて、自分が凶悪であるからだ。
自分が凶悪になると、精神は狂う。
逆に、自分が善良になると、精神は正常になる。
最近、僕は今まで好きだった音楽が嫌いになってきた。それは、歌手が僕のことを愛してくれるという事実は、本当は大したことではないと分かったからだ。
彼らは、僕のことを「外部的な文章」で分かっているだけにすぎず、「内部的な僕の本当の人生」について何も分かっていない。
かつて、2006年の夏に僕が日本社会を救ったのに比べれば、まったくどうでもいいことしか起きていないのだ。
だから、僕はいつまでも音楽を聴き続け、時間を無駄にし続けるのをやめて、「善とは何か」という新しい問いについて、確かな答えを出せるように考えながら、今からの人生を生きたいと思う。
結局、昔の僕が何がよかったかというと、さまざまな人生経験ができていたことがよかった。
まず、ネットゲームが、僕にとっての青春だった。
そして、2ちゃんねる専用ブラウザの開発が、僕にとっての会社の仕事だった。
そして、LinuxのWikiの執筆が、僕にとっての大学の研究だった。
僕の専攻は、「心理学的経験に基づく独自の公理主義数学の構築による、決定論的な社会哲学」だった。
ほかにも、インターネットを見てLinuxの普及を目指していたのは、マーケティングの経験だと言えた。
インターネットの掲示板を知り尽くしたのは、心理学的な「視野を広げる」という意味での人生哲学だった。
自分自身の人生が自由になったことで、「自由という理想と決定論的な生産条件から経済学を考える」ということができた。
そして、僕は自らの人生で考えたことだけで、まるで京都大学のすべての学問を征服するかのように人生を生きた。
オープンソースの世界で活躍するのは、海外の大学に留学するような経験であり、実際、僕はMITで学ぶのとまったく同じ内容をインターネットだけで知っていた。
ほかにも、僕は「自由な労働」という経験をすることで、労働者としての経験を誰よりも幅広く持っていた。
同時に、自らが不登校になって世界と関わりながら、「失敗」の経験をし、同時に、梅田望夫さんのブログを読んだりして、「ITベンチャーの経営」についても理解した。
そのように、僕は資本主義世界におけるありとあらゆる経験をした上で、地球と宇宙の歴史を意識によって分かる、「意識系のネットワーカー」になったのである。
僕の「意識」は、すべて「過去の経験」から来るものであり、地球や人類の歴史において、「過去の生物や過去の日本人がどのような営みを生きたのか」ということが完璧に分かっていた。
このような僕は、まさに、「自由によって世界を変えられる」と信じた人間だった。
インターネットで社会経験をする中で、僕は常に「世界を変えられる」と信じていた。
それは単に、決定論的に世界の代替可能性を理解し、社会の成立手段を考えるというだけのものではない。
子供たちを救うためには、子供たちに自由を与えるべきであると僕は信じていた。
僕は、この世界を救うためには、「決定的な本質」があると考えていた。そして、その本質とは「経験すること」であり、「子供たちが自ら経験することで日本を救うことができる」と僕は信じていた。
そう、子供たちに「経験する自由を与える」ということが、すなわち「可能性を許す」ということに相当すると僕は考えていた。
よって、僕は子供たちあるいは国民を「従えるべき」とは考えなかった。国民は「自ら経験してその経験に基づいて考えるべき」であるとし、「きちんと自由を許して経験を与えれば、どんな可能性であっても、自由な理想のままで必ず実現できる」と僕は確信していたのだ。
僕にとって、すべては「意識」だった。
そして、意識とは、「過去の経験から得られる記憶と知性」だった。
僕は、すべてを、インターネット上の経験と、自らが不登校になって、誰の助けも借りずに自分の力だけで、Linuxの開発に挑戦するという「実体験」から分かっていた。
僕にとって、人生とは意識であり、知性とは意識であり、経験とは意識であり、世界とは意識だった。
すべてのパターンの労働者の経験をすることで、僕は意識によって宇宙のすべてが分かった。
意識は、僕に「時間と存在」の哲学を与えた。
そして、戦いの時代、僕は「自分と同じことができる自由な社会主義理論」を作った。それは「僕がかつて生きたのと同じように、自由な労働と自由な人生経験が得られる社会を築く」ということがテーマだった。
すべてが、僕にとっては「素晴らしいティーンエイジャーの経験」だった。そう、僕の青春は、ほかの誰とも違う、「たったひとりだけの唯一のオリジナルの人生」だったのである。
このような僕は、文字通り、「どんなものにでもなれる人間」だった。
僕は、この世界のあらゆるどんなものにでもなれる生物種を目指していた。
同時に、自分だけがどんなものにでもなれるということでは、僕は満足しなかった。僕自身がどんなものにでもなれるのと同じように、この世界の全員がどんなものにでもなれるという可能性を僕は信じた。そのために、僕のようにすべての人間が同じ経験をできるような世界を、経験の成立を考えて実現することを僕は目指した。
僕の理想は、「自由を一切失わず、誰からも強制されることのない、自由意志の世界」だった。
そのような僕は、心理学的に認知と学習を考えることで、「心と行動の裏付けと関係性」を分かった。そして、それにより、僕は「ひとりの完璧な生命体」になることができた。自分自身の心の中に、「すべての心理学的な真理と反応のすべてを分かった、完璧な生命体」を僕は作ったのである。
この完璧な生命体が、僕のために「すべての哲学者の哲学」を教えてくれた。そう、現代哲学者ウィトゲンシュタインと僕はまったく同じことを考えた。ウィトゲンシュタインがすべての哲学を可能としたように、僕もまた、すべての哲学を完璧に「経験を成り立たせ、多面的に成立する意味を考え、原因と結果の本質をモデルにする」ということから理解したのである。
このような僕が目指したのは、「なんでもできる自由」である。
すなわち、僕は「可能性が可能となる」ということを抽象的かつ経験的に考えただけにすぎない。
この世界のすべてが、「可能性が可能となる」という意味で、創造や変化が可能であると信じた。
そのために、「環境を作ることができる」「環境を維持することができる」「環境は変えられる」「環境は常に生み出され続けている」という、「意識的な環境の創造論」を僕は作った。
そして、「存在は環境に依存する」「行動は環境に依存する」「意志は環境に依存する」「環境への依存はコントロールできるようにすることで自由になる」ということを僕は信じた。
そこにあるのは、「環境を変えることで真に自由になることができる」という考え方であり、それに経験と知識と知性を付け足すことで、「どんなことであっても影響力のもっとも高みから決定することで潜在的実現可能性を実現できる」と僕は考えた。
その結果、この世界は「可能性を与えることで事実上支配できる」。だが、僕は「支配者の自由は不要である」と考えた。なぜなら、「自由が誰か特定の人間に偏っており、平等ではない」からだ。だからこそ、僕は「誰かが支配する形ではない、相互の合意による相互理解の社会構築」を考えた。そこにあるのは、「許すことと変化を許すことで、社会は支配しなくても状態として秩序を保つことができる」ということだった。そして、それがまさに「社会の創造」であり、「環境の独立性による経験成立の社会コントロール」だったのである。
このような僕にとって、「世界が存在する」ということは、「意識の状態が存在する」ということだ。
人々が、「今のレベルの意識で生きている」ということが、僕にとっての世界であり、歴史であり、現時点での現実社会である。
現実社会は、僕にとって、「今のレベルの意識で生きている」ということにすぎない。
そして、そのような現実社会を、「僕自身のレベルが上がっていく」ということで、僕は超越していく。
そう、僕はこの世界全員の意識の状態を知りながら、その状態の先へと進んでいく。
僕こそが、世界における「歴史の最前線」であり、そのように僕は「地球すべてを救う救世主」になるに至った。
そこにあるのは、「経験からすべての問題の正しい解決方法と可能性を知っている」ということだ。
僕は、経験から、あらゆるすべての問題の、正しい解決方法を知っていた。
そして、「夢と希望の成し得る可能性」についても僕は分かっていた。
そのような僕が信じていたのは、「心理学的に促すだけで、自分と同じことを体験的にこの世界の全員に分からせることができる」ということだ。
そして、そのような僕がインターネットの「もっとも高い影響力の場所」に現れ、すべての人間に「戦争や革命をしなくてもこの世界を救うための正しい考え方」を教えたため、この世界の人々は「本来の人間の生きる意味」に気付くことができた。
そこで、僕は、「この世界がもっとも変わるようなもっとも強い作用」を与えることで、「自らが考えるだけですべてのことに自発的に気付いていくような変化の導火線」に火をつけた。
そう、そのように、僕は2006年の夏に、この日本社会を一度救ったのである。
僕にとって、すべては、「環境を変えられる」ということだった。
それが意味していたのは、「中学時代のクラスの環境を変えられる」ということだった。
僕の中学校のクラスは、ひとつだけおかしな荒れたクラスで、僕以外の誰も真面目に勉強をしていない中で僕はひとりだけ真面目に勉強していた。
そのせいで、僕はつまらないいじめのようなからかいを受けた。
そのような、過去の学校環境で、僕は本当はみんなと仲良くしたかった。
小学校の頃にそうだったように、リーダーとしてみんなを率いるような明るい自分でいたかったのに、なぜか自分は引っ込み思案になってしまい、みんなと仲良くできず、本来の自分自身を出すこともできなかった。
それが本当に辛くて、不登校になっても心残りだった。
だから、常に中学校の環境を変えたいと僕は望み続け、「本来の自分自身に立ち返って、自分らしく生きたい」ということを僕は常に望んでいた。
そう、そのような「自分らしく生きたい」ということが、日本における「希望」となって、この世界を救うに至ったのである。
わたしたちは学校で勉強するせいで、「正しく考えなければ分からない」「真実でなければ分からない」「勉強しなければ賢くならない」と勘違いしている。だが、それは勘違いだ。間違った学習をし、正しくなく考えれば、この世界の存在をきちんと分かることができる。
posted at 17:45:39