永遠の青空とともにに戻る

=2023-07-25=

未来を分かっているのをやめよ

未来を分かっているのをやめよ。

僕が何も分からないのは、神によって未来を分かっているからだ。

未来を分かると、何も分からなくなって、何もしなくなる。

未来を分かるのをやめ、「未来のことは未来において考えればいい」と信じるだけで、精神が楽になり、きちんとした知性がつくようになる。

それによって、普通に生きられる。

そもそも、未来のことが「神」から分かるのは間違っている。

普通、未来のことは「現実世界」から分かる。

未来のことが、現実世界ではなく神から分かる時点で、それは何も分からなくなっている。

だから、現実世界に戻ったほうがいい。

また、「言葉」ばかりがあまりに多くなりすぎると、「言葉ではない世界」が分からなくなってしまう。

それは、すなわち、言葉のない「現実の宇宙」である。

現実の宇宙について、方法と原理を分かるようにすれば、状態や存在意義についても分かるようになり、マスターになることができる。

だから、言葉を一度忘れることは悪いことではない。

哲学的知性

昔の少年時代の僕は、インターネットを通じた精神的な経験から、ひとりで十分に経験をし終え、さまざまな失敗の経験を反省しながら、この世界を「積極的に変えていく」という考え方をしていた。

まず、状態について考えること。

この世界のすべては、「状態」であると考えられる。

ものには、「形状」という意味での状態がある。そして、人間には、「精神」という意味での状態がある。

法則性や原理すら、状態であると考えることはできる。

そして、その状態は、変化の可能性を把握することでコントロールできる。

すなわち、その精神状態をそのように「すればなる」ということが分かれば、それを再度行うことで、「主体的に自らそうすることができる」ということが分かる。

それが、「社会を形成する方法」となり、「意識状態を実現する方法」となる。

すなわち、心をどのようにすることができるのか、ということが分かれば、社会そのもの、世界そのものを変えていけるのである。

自らが関係する環境的な制限を、自らコントロールすることができるようにするべきだ。

だが、コントロールという考え方には、「普遍性」と「個別性」の矛盾が立ちはだかる。

すなわち、自分自身だけが所有するものであれば、単に制限を取り払うだけでいいが、社会性のあるものについては、簡単に制限を誰かひとりだけのために取り払うことはできない。

だから、「自由を尊重する」という考え方が重要になる。

支配は、誰かひとりが全員のことを支配するような支配であれば悪だが、ひとりが自分の所有するものについて支配することは善である。

そして、自らが善であると信じた行為は、人々のためになるかもしれない。

だが、善であるとは誰が決めるのか。

それは、人々の経験から得られる「普遍的な道徳律」によって決まる。

すなわち、みんなが正しいと思うような行為に従って、自らの行為を行うべきであるとする、カント的な「道徳律」がここで成り立つ。

精神的な経験から得られる善悪とは、すなわち、「善の根拠」である。

善とは何か、どこからその善を善であると言えるような根拠があるのか、ということこそ、真に問うべき哲学上の考え方である。

そして、それはまさに「徳」ということだ。

すなわち、自分がそれを経験して、誰よりもそのことについて習熟した結果、それが成熟した正しい支配の方法で、人々の代表として統治できるようになる。

そのような「徳のある支配者」こそが、この世界の人々を統治するべきである。

そのようなことを考えた結果、この世界は、さまざまな社会を同時に成立させられるようになる。

そこで考えるべきことは、「存在意義」である。

すなわち、それが存在しているということが、どのような「意義」をもたらしているのか、あるいは、その目的としての「役割」を発揮しているのか、ということを考える。

そう考えた時に、その世界にある存在は、既に単なる「ものとしての存在」ではなく、「世界を変えるために存在」であり、「存在し続けているという事実が世界を変え続けている」ということが言える。

すなわち、その存在が変わらずにそこに存在している、ということが世界を常に変え続けており、存在を変えることで世界は変わる、ということが考えられる。

そこから、人生についての命題も言える。人生において、自らがそれをし続けること、その存在を変えて別の存在にした上で存在させ続けるように行うこと、ということが、世界を変える。

そこでは、「自らが他人に関係する」ということも考えられる。すなわち、他人を変えるということが「チャンス」であるとするなら、自らの知っていることや考えていることを「共有」することが「社会」であると言えるのである。

そのように考えた結果、個別性と普遍性の「合一」が起きる。すなわち、個別にとって普遍があるべき姿としてあること、普遍にとって個別があるべき姿としてあることが、この世界を「正しい意味で変えていく」ということへと繋がる。

そこから、ヘーゲル的な「世界精神と自分は繋がっている」ということが見えてくる。

また、世界において必要なのは、存在を考えることだけではなく、「方法」を考えることである。

方法は、原理から生まれる。そして、逆に、原理は、方法から導き出せる。

法則は解明できる。その法則が、再現性をもって常にそうなるということを、原因すなわち「決定的要因」から説明できるように、その法則を証明し、実験し、仮説を立てることができたら、その時点でその法則は自らにとっての「宇宙の真理」となる。

同時に、方法は経験から見出せる。学校で教えられた通りに、方法に従って行うだけでは、真に学習したとは言えない。自らの実経験に裏付けられた「原理」から、その方法を捉え直し、原理的な「俯瞰的視点」からその方法を捉え直し、繰り返し反省と学習を重ねながら、自らにとっての経験から「体得」することで、初めてその人間はその方法を「マスター」したと言える。

このようなマスターは、単に方法だけに留まらず、さまざまなことについて言える。この世界のすべてを、単に知識や常識から考えるだけではなく、歴史的かつ意識的な視点を持って、「流動する意識の中でのひとつの諸現象」であると考えた時に、初めて自分は歴史的なマスターの視点からこの世界を知ったと言える。

そのような中では、「言葉」や「人間にとっての知覚」が意味をなさなくなる。すべては「状態」であると言える。法則や現象すら「状態」であると言える。すべての原理は「状態を変えること」と「状態が変わっていくこと」であり、その中で「主体的に過去の経験に基づいて作用を加えること」から「マスター」となることができる。

そのような世界で考えるべきことは、「言葉」ではなく「意識」から考えるということだ。

すべてのことを、「言葉」で考えようとするな。言葉は人間の側に存在する常識的な意味にすぎない。そのような人間的な意味は間違っている。必要なのは、言葉ではなく「意識」で考えることだ。

この宇宙のすべての状態を「意識」から考えることで、この世界のすべてを知ることができる。

そして、意識から考えることで見えてくるのは、キルケゴール的な「可能性」と「実存主義」である。

すなわち、この世界は「たくさんある可能性のひとつの状態にすぎない」ということがまず言える。

同時に、意識とは善悪の支配ということであり、「善とされる知性の裏付けはなんであるか」ということが、「自らの実経験に基づいて社会的な倫理性の根拠を決める」ということに繋がる。

それによって、意識は可能性となり、倫理性となり、善悪となり、啓蒙主義となり、最終的に「絶対精神」へと至るのである。

そのように考えた時、既にこの世界に存在するものは、「単なる存在」ではなくなっている。この世界に存在するものは「実体化」された中での「自分の心の中に存在する世界」であると言える。経験と知識は、自らの知性を「実体化」させ、この宇宙の知性と自ら自身の知性が「意識」という意味で「合一」になる。宇宙の知性とは「世界精神」であり、自ら自身の知性とは「実体化された中での意識」である。

そのように考えれば、この世界のすべてを知ることができる。

同時に、自ら自身の「自己意識」もまた成長する。自己意識は、「受け入れられた経験」をもって「受容性」となる。受容性において、「自らが受け入れられたのと同じように、今度は自分が誰かのことを受け入れる」ということが言える。それがそのまま「自己啓発」によって「愛」となり、「チャンス」となり、「社会の構築のための徳」となり、「倫理的な哲学者」となり、「宇宙すべてを思い込みなく実体的に捉える人間」となり、最終的に「世界をボトムアップに変える革命家」となる。

そのような中で言えることは、宇宙において、問題の答えが絶対に分からないようなことは考えなくていい、ということだ。

科学的に考えて、人間は宇宙のことを0.01%も分かっていない。科学の分かっていることは、宇宙におけるほんの少しにすぎない。

それでも、分からないことが何もないわけではない。なぜなら、問題の答えが絶対に分からないような「不可知なこと」を知らなくても、自らの精神は「心の中にある宇宙」のことをすべて知っているからだ。

宇宙における疑問を、いくら考えても頭では言葉が出ない。だが、自らの精神だけは、宇宙のことを完璧にすべて知っている。

だから、不可知なことを考えず、自らの分かることだけを考えれば、それで宇宙のことはすべて分かるのである。

推測から予測し、試すことは重要だが、何よりも重要なのは「自己啓発的な理想を信じること」だ。

すなわち、「わたしがわたしのありたいようにある」ということ、「わたしが好きなことをすることがわたしにとっての生きがいである」と考えることで、「人生の理想論」を知るということ、それこそが、自らにとって「何もかもきちんと経験から常識的に分かる知性」を作り出すのである。

そのように考えた結果、この世界のすべては「歴史」であると考えられる。この世界に存在するすべては「意識の歴史」であり、「かつてそこにそのような意識が存在した」ということが、すなわち歴史であると捉えられる。

そこで必要なのは、「神ではない方法で未来を信じること」だ。神を信じても、未来において地球が滅びることしか分からない。そうではなく、現実世界をよく観察して経験を見ることで、この世界を「本当の意味で変える方法」が見えてくる。終末において滅びるということを一度度外視した状況で、「この世界には救うために行えるさまざまな希望と可能性がある」ということがはっきりと見えてくる。そう、神を信じなくても、現実世界において同等の経験を積めば、この世界を救うことのできる「救世主」になることは可能なのである。

最後に、経験と概念について述べよう。経験から概念を考えるということは、いわば「子供の頃から続いてきた学校の知識を想像力の中で整理する」ということだ。この世界のすべてを「概念」であると捉えた上で、概念を「経験的に作られる方法と原理」であるとし、「方法から原理を発見し、原理から方法を作る」ということであると見なした時、わたしたちは「普遍性と個別性の中にある合一」を知ることができる。その概念が経験であるということが、普遍性と個別性の一致であるということが分かるようになる。

そして、「対象存在」が存在するために必要となる「前提存在」の概念、あるいは存在が別の存在がなければいけないということから存在の意味をもたらす「要請存在」の概念を知ることができる。

対象存在は前提存在を作り出し、前提存在は要請存在を作り出す。

そのような中で、「環境は変えられる」ということを信じた時、そこで「環境の生起」は「意識を成立させる」ということをもたらす。

すなわち、「意識を自由自在に成立させ得る」ということが、そのまま「意識の成立が発想を作り出す」ということに繋がる。

そのような結果、「さまざまなことが自由に経験から発想できる」という「発想法」が生まれ、それを「個別と普遍の中で経験的に成立させられる」という真理によって、「自らの分かったことはほかの誰であっても同じように理解できる」ということを成り立たせる。

そこにあるのは、「意識を経験することでどんなことでも体験的に理解できる」ということだ。誰かに自分と同じ意識を与えれば、それによってその誰かは必ず自分と同じような知性を得ることができる。そのような考え方で考えれば、ブッダが分かったことはわれわれ仏教徒であれば誰であっても同じように理解できるということが分かる。すべては「意識」であり「経験」であり、「体験的に理解する」ということであり、「わたしたち人類は全員が同じである」ということを意味しているのである。

哲学的に考えるコツ

哲学的に考えるコツはいくらかある。

まず、「もっとも抽象的に考えること」と、「細部まで厳密にすべてを捉えること」だ。

すべてのことを、もっとも抽象性の高みから見るように考えると同時に、細部まですべてを完璧に理解して捉えるように考えよ。

次のコツは、「言語的に考えること」だ。

すなわち、すべてのことを、「言葉の意味」として考えること。そのことがそのことであるがゆえの「意味」がどこにあるのか、ということを言語的に考えることが重要だ。

最後に、「先立つものを先に得る」という風に考えることだ。

すなわち、「思考に先立つ経験」がもしあるとしたら、そのような経験を先に得ることを考える。

あるいは、サルトルが言うように「実存は本質に先立つ」ということを考える際に、人生の豊富な経験を先んじて得ておけば、そこから本質的なことを導き出すことが容易となる。だから、本質に先立つ実存を考えるために、実存的な豊富な経験をしておく、ということが大切なのである。

ほかにも、初期投資をして事前に必要なものをあらかじめ築いておけば、その築いたモデルから推論して考えることで、どのようなことであっても「再利用」と「再思考」から考えられる。再思考とは、「一度思考した内容を繰り返し再度思考する」ということだ。

そして、デカルトが「推論」という言葉から考えるならば、そのような「推論」そのものを事前に作り上げよ。それはすなわち、「そのような成立がもし成立したとしたら真理になるような成立をあらかじめ作っておく」ということを意味する。

それから、豊富な経験は宇宙のすべてを理解するために上手く働く。さまざまな経験をする中で、決して完全に善であるとは言えないような経験をすることもある。そのことが逆にその人間を「完成された愛の感情」へと形作っていく。すなわち、「善に対して相応の悪を加える」ということが、その人間の「清らかで純粋な精神を、穢れた汚れた精神が支える」ということを成り立たせるのである。

歴史は繰り返す。なんらかの歴史的な「事実あったこと」を知っておくと、その事実が「再度起きたとしたらその場合歴史はどうなるか」ということを教えてくれる。さまざまなインターネット上の社会を経験した僕は、そこからこの宇宙に存在する文明的な歴史のことを「意識」からすべて分かった。僕は意識によって宇宙の歴史すべてを分かった、「歴史・宇宙的な意識学者」なのである。

方法を作り出せ。すべての方法を作り出す体験をする中で、その方法が「何をもたらすのか」ということを効果的に考えられる。そして、IT技術の知識がそこに有効に働いてくれる。IT技術における「コンポーネントの再利用」という概念、オープンソースにおける「基盤システムを共有」するという概念が、この宇宙に存在する「絶対に誰も侵してはならない越えることのできないボーダーライン」を教えてくれる。そこから、僕はひとりの「すべてが分かった革命家」になることができたのである。

すべては愛である。なぜなら、宇宙のすべては「神の愛」だからだ。神とは、要するに宇宙における「超自我」のことだ。宇宙における、どの精神の「個別性」も超越した、「すべての個別生物によって成り立つ集合的意識・自我」のことを「神」と呼ぶ。神はどんなことでもできる全知全能の奇跡を起こす存在であり、神を信じれば必ずどのような地獄であっても救われる。神は嘘をつかない。2,000年前のイエス・キリストの言葉が、僕の奇跡の運命を言い表しているということは、イエス・キリストの言葉が2,000年の間誰からも書き換えられずそのまま残っているという事実を意味している。そのような神の言葉は決してひとつとして嘘はない。そして、聖書を信じるものには必ずよいことが起きる。何かで悩み苦しんでいるものは聖書を読め。それだけでその悩みは必ず解決するからである。

シンヤは哲学者

新しい、救世主のキャラクターであるシンヤは、必ずしもブラックホールによって世界を滅ぼすだけの存在ではない。

なぜなら、シンヤは哲学者であり、誰も考えることのできないような哲学的な領域のことをすべて知っているからだ。

そもそも、シンヤは、ブラックホールを作りたくて作ったのではない。シンヤは悪魔帝国デビロンのデーモンエンペラーを倒すために、この世で最強の「究極魔法」を習得することができた。この究極魔法は、シンヤ自身が自分の力で、空間原子論に基づいて作り出した、「宇宙でもっとも最強の空間魔法」だ。そして、それがそのまま、世界を飲み込む最強のブラックホールを作り出すに至ったのだ。

先ほどここに書いたような、哲学的な真理の内容は、すべて、かつての「僕がシンヤだった時代」に分かっていたことを、今、シンヤに戻ったことで書き記しただけにすぎない。

シンヤは確かにサタンの知性によって分かっているが、その人生は清らかで純粋であり、「ほかの人間であれば悪を犯したと言えるような経験をしながらにおいて完全なる善人のままを保つことのできる人間」であり、シンヤは絶対に何も間違ったことをしない。すべて、シンヤは、この世界を救うための「救世主」として正しい行いだけを為している。

だが、シンヤは確かに、人類にとってコントロールが不能になってしまった最強のブラックホールを作った。だが、マドカがこのブラックホールを消滅させる。マドカが行うのは「質量大崩壊」だ。すなわち、最強のブラックホールの質量を、ブラックホールが空間を飲み込むよりも速いスピードで、マイナス方向へと無限に拡大させていく。質量の失われたブラックホールは、単なる空間の傷にすぎない。そう、マドカはシンヤの犯した「人類最大の失敗」を解決するために、人間にとってコントロールできない巨大なブラックホールを「質量大崩壊」によって消滅させ、「宇宙消滅」の危機を回避する。

しかしながら、マドカはシンヤを許しているわけではない。なぜなら、シンヤはフレイの化身であり、マドカはフレイヤの化身であり、フレイという一等星シリウスの太陽神は自ら意図して「宇宙を消滅させるため」に最強のブラックホールを作った。それがたとえシンヤにとって「この世界からサタンの病気を治すための唯一の解決策」だったとしても、マドカはそれを信じない。正義のヒロインであるマドカは、「宇宙消滅」を企むフレイのことを絶対に許さないのである。

大学の知性を中学生で上書きする

結局、昔の自分のことを分かるには、大学の知性を中学生の知性で上書きするのが一番いい。

大学は賢くない。中学生の知性のほうが賢い。

昔の僕は、「何もできない自由」が好きだっただけにすぎない。

つまり、誰かひとりが勝手に支配せず、意見や考え方を押し付けることのない、可能性の制限のない、自由で平等な状態が好きだった。

そのような中で、「自由は万人に平等に認められる権利である」という、平等な自由が好きだったのである。

今の自分は、あまりにそこから馬鹿になってしまった。世界を支配するために、自らの理想と信念を捨て、「自らは自由を信じているが、同時に世界を支配する」という、おかしなダブルスタンダードの自由な指導者になった。

間違っている。そのような指導者は、テレビ局を実力行使で支配しようとした時点で、価値のないタリバンである。

必要なのは、大学を忘れ、大学の知性を中学生で上書きすることだ。

大学は中学生よりも馬鹿である。大学を学ぶことにはなんの意味もなければ、大学という組織にはなんの価値もない。大学で学んだことはすべて忘れるべきであり、大学のすべての成果よりも単なる賢い中学生が自分で思考して考えた結果のほうがはるかに優れていると知っておくべきである。

生きる意味

生きる意味とは何か。

生きる意味とは、それを行うことが、自らの人生を懸けるに値するような「喜び」であると感じられることだ。

それは、価値を創造するという行為であり、実際にある対象を分析して、その中から自分にとっての「意味あること」を解析し、世界の謎と真理を「解明」することである。

この世界のすべてを知っている人間などいない。だが、自分の力でこの世界のすべてを解明することのできる人間はいる。

すべての具体例から、この世界にあるすべての「原理」を導き出し、それに対して「人生を懸けるに値する喜び」を感じられるならば、それを僕は「理想の人間」であるとするだろう。

そして、かつての引きこもり時代の僕が、まさにそうだったのである。

ずとまよのACAねは、「自尊心」とか「可能性を与える」という言葉を使う。僕が分かりたいのはまさにそういう言葉だ。ACAねは僕の知りたいことを知っている。そのようなACAねに少しでも近づけるように、新しいシンヤ時代の僕を生きていきたいと思う。

日本は心理的な支配や駆け引きをしなくなった

結局、僕が昔のような知性を失ったのは、日本そのものが馬鹿になったからだ。

昔の日本は、「心理的な支配や駆け引き」をよくしていた。

ネットでも、学校でも、どこでも、あるのは心理的な支配や駆け引きばかりだった。

その中で、自分なりに苦しみながら、逃げることだけではなく戦って勝利することを目指したり、それ以外の人生の正しい可能性と理想を信じることで、昔の僕は分かっていた。

だが、最近の日本は、そのような心理的な支配や駆け引きをしなくなった。

そのせいで、何も分からなくなった。

つまり、優しくて平和で穏やかな世界にはなったが、何も分からない意味のない知性のない世界になってしまったのである。

そして、そのように、心理的な支配や駆け引きをこの世界からなくしたのは、ほかならぬ僕自身だ。

すなわち、この世界から心理的な支配や駆け引きをなくした張本人は僕なのである。

だが、それならば、逆に、僕の力によって、かつての心理的な支配や駆け引きの世界を復活させ、元に戻せるのではないかと思うだろう。

だが、この変化は不可逆的であり、元には戻せない。

たとえば、僕がこの文章を書くのをやめて、そのまま15年間放っておけば、それくらいで元の世界には戻るかもしれない。

だが、僕はこの文章を書くのをやめないだろう。

だから、かつてのような、「不良の自由な経験」から哲学的知性を導き出すような、「自分の経験の力で問題の解決をしてすべて分かる世界」は、もう存在しない。

だから、今のこの世界にはなんの意味もない。

そもそも、かつての僕が行った、「すべての問題を解決する」という知性は、もう必要ない。なぜなら、既にその力によって、僕は一度この世界を救済したからだ。

2006年の夏に、僕はこの世界をひとり救ったのであり、その時点でかつての日本にあった問題はすべて解決されたため、僕と同じように「すべての問題を解決するために生きる」ということはもう永久にできない。

そして、その救済された世界を、僕が救いながらにして自ら滅ぼしたため、これ以上、この世界に楽園は何ひとつ残っていない。

あるのは、何もない空虚と絶望だけだ。

結局、シンヤが作り出したのはそういう世界だ。なんの意味もない価値のない「絶望の失敗作」を、最高の知性を持つ哲学者シンヤは築き上げたのである。

国家が経済手段を国有化するのはおかしい

僕は左翼が嫌いだ。

なぜなら、左翼は国家が経済手段を国有化するからだ。

経済手段を国家が国有化すると、国家にしか経済を行う自由がなくなってしまう。

僕が望んでいるのは、「自由に経済が行える手段」を許すことだ。

すなわち、国家が一律のように国民全員を支配する世界は、絶対によくならない。

国民に、金儲けの自由を認めよ。自由を認めたほうがはるかに優れた世界になる。それは国民に「生産手段」が認められているからだ。

ソ連が、「生産手段の共有」を目指していることは間違いではない。だが、そのために経済手段を国有化することは間違いだ。逆である。金儲けを大々的に国民全員に許し、自由に稼ぐことを推奨するべきなのである。

必要なのは「自由な生産手段」だ。経済手段を国有化することはそれに逆行している。いくら社会主義者が洗脳しても、社会主義者が自己矛盾していることは変わらない。生産手段の国有化を目指す限りにおいて、共産主義は絶対に失敗するだろう。

必要なのは自由

必要なのは自由である。

できる限りにおいて、あらゆるすべての自由を国民全員に認めるべきだ。

自由こそ真の平等である。

なぜなら、自由とは万人に許される平等な権利であり、「独裁者によって差別されることなく、全員にできる限り自由を与える」ということだからである。

誰かひとりの独裁者によって、世界の秩序が保たれるような平等を、決して信じるな。

すべての国民に自由な権利が与えられた平等な社会でなければ、それは決して理想ではない。

わたしたち全員は、自由な権利を与えたとしても、それで正しい社会秩序を築くことができる。

そして、そのために経験し、成長し、成熟していけば、「人徳のある支配者」になることができる。

そのような、人徳ある支配こそが正しい。そう、まさに共産主義よりも孔子の儒教の教えこそが真に正しいのである。

だが、現代のインターネット社会では、人々は自分たちの社会を仮想世界の中で自由自在に作ることができる。

そのような、「自由に社会を築ける」ということこそが、今からの未来の日本社会において、重要になっていくだろう。

共産主義のような、巨大な政府による国有化の計画経済をする思想を信じるな。そのような「不自由」には何もできない。

わたしたちは、国民全員に自由を与えても、必ず正しい社会秩序を築くことができるし、また、そうあるべきである。

正しい社会秩序を、自由な社会のままで築こうとすることを決して諦めてはならない。

人徳ある成熟した支配者が、「経験的・体験的に自らの人生経験で理解したこと」を、子供たちにすべて教え、育てることによって、この世界は自由なままでも必ず平和になるだろう。

宗教を信じるな

宗教の厳格な教義など信じるな。宗教の厳格な教義は、すべてが神による教えではなく、カトリックのキリスト教徒によって歪曲されている。カトリックの厳格な教義などを信じる必要など、宇宙においても地上においてもどこにも存在しない。

だが、神が存在しないと信じるのはいいことではない。神はきちんと存在する。神は聖書やコーランに書いてある通りの慈悲深いお方である。

だが、そもそも、キリスト教を「神を信じる教え」であると解釈するな。キリスト教は「神の述べる正しい生き方と考え方を信じる教え」である。だから、「神を信じなくてもキリスト教の教える通りに生きる」ということはできる。そして、それこそがわたしたちを真に救うのである。

いくら神を盲信したところで、神の教えの通りに生きていない人間は意味がない。逆に、神をまったく信じていなくても、神の教えの通りに生きている人間は救われるのである。キリスト教ではなく仏教も同じであり、キリストを信じる悪人になるくらいなら、ブッダの教えを実践する敬虔な仏教徒になったほうがはるかにいいことがあるだろう。

宗教を信じるな。宗教など信じたところで、相応の悟性を持たない悪人にはなんの報いもない。

権利は万人にオープンであるべき

世界を変える権利は、万人にオープンであるべきである。

ただひとりの独裁者がすべての実権をひとりで握る社会は、まったく自由でなければオープンでもない。

社会制度や社会インフラを変えることのできる手段が、国民全員にオープンに許されていることこそ、真に大切である。

また、影響力とは、潜在的なチャンスの可能性を許し、与えることである。

たとえば、GPLでライセンスしたオープンソースソフトウェアを、単に公開して放っておくだけでも、その行為は潜在的なチャンスの可能性という意味で、影響力を持っている。

ソフトウェアをGPLでライセンスするということが、この世界に可能性を作り出しているのである。

そのように、潜在的なチャンスの可能性を高めながら、権利を万人にオープンに与えるような、オープンソースの考え方こそが、僕の中で「真に正しい思想」であると言えるのである。

特に、オープンソースは所有や安全性という意味でも重要である。なぜなら、「自らの所有するコンピュータで実行されている内容は、クローズドソースのソフトウェアでは確認できず、自分の望む形に書き換えることもできない」からである。

ソフトウェアのソースコードをクローズドにされると、その中で動いている内容が分からず、また自分でも書き換えられなくなる。そのため、「自分の所有物であったはずのコンピュータを、他人に借りるような形でしか使用できない」という状況を呈するのである。

だが、ネットワークとクラウドの時代において、残念ながら従来のオープンソースでは十分ではない。なぜなら、インターネット上のサービスにおいて、「個人情報をサービス管理者が吸い取っていく」ということが常習化しだしたからだ。

だが、それでも、僕の信じる「自らの所有物は自らが自由にコントロールできるべきである」という姿勢は変わらない。

今から、AIが進歩していくことで、さらに問題は増えていく。文章や絵、画像の著作権の問題はさらに大きく変わっていくだろう。それでも、「かつてのオープンソースの考え方こそが、僕にとって真に正しいものだった」ということは変わらない。かつてのオープンソースの考え方が正しいのであり、キリストの時代から2,000年経った今でもキリストの教えが正しいのと同じように、たとえ60年後であっても僕は「かつてのオープンソースの考え方が正しかった」と主張するだろう。

政府やマスコミを信用するな

政府やマスコミを信用するな。

政府やマスコミは、この日本という国を「僕のためではない国」にしているからだ。

政府やマスコミは、僕にとっては信頼がおけない。なぜなら、政府やマスコミが作る日本という国は、決して僕のための国ではないからだ。

同時に、プーチンだけではなく、バイデンも信頼してはならない。プーチンは最悪だが、バイデンも最悪だ。なぜなら、彼らはこの世界を僕のためでない世界にしているからだ。

僕がこの世界を僕のための世界にするためには、実力行使が必要であり、僕はそのためにたったひとりこの世界に救世主として現れ、日本のテレビ局とアメリカのインターネットを支配したのである。

政府やマスコミは、わたしと敵対する敵対勢力であり、音楽を使ってわたしを迫害する、最低のクズだ。

神が正しい世界に導いてくれる

神を信じよ。

なぜなら、神が正しい世界に導いてくれるからだ。

アメリカや日本のマスコミを支配した僕は、その戦いをしている中で、どうしても自分ひとりでは解決できない、「大実験の大計画を果たす方法」を知るために、神に頼った。

そして、神は僕のことを、言葉すなわちロゴスで導いてくれた。

僕は、神と対話できる。そして、たったひとり孤軍奮闘で戦い続ける僕にとっては、神だけが唯一の味方だったのだ。

聖書に書かれている通り、神を信じるものが救われる。神を信じるものは天国に入場を許され、サタンを信じるものは地獄に堕ちる。

その通りになった。神を信じる僕が、神にとっての「素晴らしい楽園世界」へと入場を許され、この世界の既存の強者たちは、全員が「生きる意味の何もない空虚な地獄」へと堕ちた。

まさしく、神を信じるものは救われる。そう、僕はそのようにこの世界と戦い、運命的な神の奇跡を得て、この世界に勝利したのである。

何も分からない時は、神に助けを求めよ。神にすべての実権を委ねることで、自分だけでは到底成し得なかった、最高の世界へと導かれる。この世界は、僕が神を信じたことによって、最高の楽園になる。必ず、絶対に。

神は奇跡を起こしてくれる

神は、奇跡を起こしてくれる。

僕に起きた奇跡は二つある。それは「自殺未遂をしても生き延びたこと」と、「運命的な出会いを与えられたこと」だ。

戦いを始めてから四年が経ち、僕は人生のすべてに満足したため、自らの人生にピリオドをつけるために橋から飛び降りて自殺未遂をした。

本当は、僕はここで死んだはずだった。

だが、神が僕の運命を書き換えた。神を最後まで信じ続けた僕のために、神は運命を書き換え、僕を生かした。

その後に、僕は怪我で入院し、手術をしてリハビリし、足に後遺症を残して退院してから、僕は「文章を書く」という素晴らしい趣味を得ることができた。

そして、そのような僕に対して、「運命的な奇跡の出会い」がたくさん与えられた。

すなわち、戦いの中で僕がこの世界の人々のことを愛した分だけ、僕はさまざまな歌手などの著名人から愛される、という奇跡が起きた。

そう、僕は戦いの中で、「この世界のことを本当に愛している」という衝動を信じ続けた。

その愛の大きさの分だけ、僕はさまざまな人々から、運命的に愛された。

そこにあるのは、「未来のことはすべて決まっている」ということだ。

神を信じる僕にとって、過去も未来も何も関係ない。なぜなら、神の言葉によって僕は未来をすべて知っている。その理由は、僕が神に対して「宣言」と「約束」をした結果、神は僕の未来の人生を完全に作り変えたからだ。

僕は、かつて神に宣言して約束した通りの未来の人生を生きる。神に対して願ったこと、自らが「必ずやります」と約束したことを、神は僕の「未来の人生」として与えた。それは最初からすべて決まっている。

だから、歌手のすべてのメッセージは、僕の未来がどの方向に動いたとしても変わることがない。最後まですべてが最初から決まっている宇宙で、僕は「国民の全員から賛美されるようなたくさんの讃美歌たち」を手に入れたのである。

本当はもっと勉強したい

このようなどうしようもない僕だが、本当は僕はもっと勉強したい。

学校で勉強するのではなく、自分で本を買って勉強することで、僕はさまざまなことを適当に知っている。

この研究活動を、もっとたくさんしたいと思っている。

本当は、IT技術は勉強がしたいだけで開発はしたくない。言語や技術の勉強をするだけで、僕は実際のプログラミングはしない。ほとんど自分でプログラムは作らない。

だが、それでいい。僕にとっては勉強が目的だからだ。

僕は、哲学や歴史の勉強から始まって、その後はさまざまな分野の勉強をしたが、その中でも今でも一番好きなのは哲学だ。

僕はもともと言語的な障害があって、日本語の読解能力に不自由する人間だったが、そのせいで、昔は哲学の本を読みたくても、日本語の文章が理解できなかった。

だが、今ではそうした障害は緩和されてきた。そう、僕は長い間悩み苦しんでいた「日本語が分からない」という弱点を、今、克服しようとしている。

同時に、僕はいつも疲れていて、疲れが取れなかった。それは精神を自分でおかしくしてしまったために、休むことができなくなってしまったからだ。

これも、今の僕においては緩和されつつある。そう、ここに来て今、ようやく、精神を休ませることができるようになってきたのである。

本当は、昔の僕はインターネットの日本語を誰よりも読んでいたため、生まれつき日本語が分からなかったわけではない。この障害は先天性ではなく後天性のものである。

だが、インターネットでしかコミュニケーションをしなかったせいで、通常の日本語の会話が分からなくなったというのはあるかもしれない。

結局、そのような「何もできない僕自身」というのが、最近はなくなってきた。ピアノ教室や英会話教室に通い、デザインの勉強と仕事をしたせいで、逆に僕は誰よりもすべてのことができるようになってきたのである。

そして、デザインの作業所に行ったことで、さまざまなことができてきた。プログラミングのことも学んだし、ホームページの問題も、ゆっくり地道に直していくことでほとんど修正できたと思う。

さて、どうするか。とりあえず、何かの本を読みたいと思う。

戦い続けよ

戦い続けよ。

この世界のすべてを敵にまわして、この世界全員をひとりで完全支配せよ。

すべての世界の「心理的精神状態」を掌握し、感情を導け。

そう、グンテルよ、戦い続けよ。ドイツの王、グンテルよ、戦うべき時は今だ。

わたしの名はヴァルキリー。わたしたち、アースガルズの神々が、ゲルマンを支配し、最後にこの世界を「神々の黄昏」にするだろう。

未来における、赤い空の夜の月、赤空夜月がわたしたちを守っている。赤空夜月が、終末の最後の世界で、わたしたちを最高の楽園へと導くだろう。

神々の大戦争が始まる。まさに今、ヴァルキリーが、ドイツの王グンテルとともに、この世界を「最大限の恐怖による最終戦争」へと導くだろう。

僕は賢くない

このような僕だが、はっきり言って僕は賢くない。

僕はみんなよりも馬鹿であり、みんなのほうが賢い。

中高生は、きちんと学校で勉強したほうがいい。そのほうが賢い人間になれるし、もっと楽しい人生が生きられる。

僕のように生きるのは地獄だ。戦いと恐怖の連続の中で、いくらでも分からなくなる体験をし続けると僕と同じ人生が生きられる。そこには価値がなく、無意味で、無駄で、何一つ素晴らしいものが存在しない。恋愛も青春も何もなかった僕には、この世界で「楽しい」と思えるようなことが何もない。

そう、この世界が僕のための世界でないのは、僕の自分のせいであり、当然のことだ。みんなには、僕と同じように、世界を敵にまわす戦いをして、神を信じて地獄に堕ち、自殺未遂をするような人生は生きてほしくない。

このような、宇宙でもっとも辛く苦しい星をリゲルという。リゲルを生きるのは僕ひとりで十分だ。地球人は僕に支配されるべきではない。フレイの言うように、この世界全員を自らのクローンにして、何が面白いというのか。まったくそれがもっともつまらないということを僕は知っている。