永遠の青空とともにに戻る

=2023-07-22=

IT技術の具体例

そろそろ、僕はIT技術についてきちんと分かった。

IT技術は、OSや言語だけを分かっても分からない。

僕は、身の回りや社会に存在する、具体的なIT技術の活用例が分かっていない。

だが、「組み込み・制御」や「IT技術に依存している社会システム」を考えるとよく分かる。

たとえば、商品コードやIDタグ。スーパーの商品に付けられているバーコードや、書籍のISBNタグなどは、その書籍がどのようなデータを持っているかを識別・照合できる。専用のカードを識別し、データベースのIDと紹介することで、何かしら必要になった時はすぐに保管場所と在庫がどれくらいあるかを確認したり、すぐに連絡用の電話番号や住所が分かったりるようにする。

あるいは、センサー。センサーを使うことで、そのものがそこに存在すること、どれくらいの力や熱や光や重さや大きさがかかっているかが分かる。

ほかには、入退室管理やタイムカードの管理。今、どれだけの従業員が働いているのか、どれくらいの労働者にどれくらいの給与を与えるべきなのかを計算する。また、それぞれの仕事がどれくらい進んでいるのか、製品や部品がいつ出来上がる予定になっているのか、という「プロジェクト管理」も行う。

あるいは、工場の生産ライン。プレス機にどれだけの力を与えるのか、製造機械にどれくらいの素材を一度に投入するのか、ラインをどれくらいのスピードで動かすのか、今どれくらいの個数の製品が並べられているかを管理し、専用の機器や車両や従業員に指示を出す。

そのように、さまざまな場面で、システムを制御し、組み込み機械で識別やデータ照合を行うことで、システムが滞りなく働くようにする。

あるいは、さまざまなものを作るために、デザインしたり言語的な処理を行うために、専用のソフトウェア製品を操作する。これはTeXやCADのようなソフトウェアだ。アニメーションなどでも専用のソフトウェアは使われる。大きなスタジオなら自分でソフトウェアやCGの描画エンジンを自作することもある。

あるいは、たくさんの組織の支部を繋げるような、大規模な分散ネットワークシステムを築く場合、WANのようなネットワークシステムを築く。このような場合には、組み込みのICやソフトウェアの開発よりも、その応用的な利用と運用・保守が鍵となる。

あるいは、さらに大規模なシステムとして、世界中の交通や物流などを考える。今どこに航空機や船がいて、どれくらいの運送貨物を運んでいて、どれくらいの時間で到達できるのかということを考え、決められた場所に決められた貨物が届くようにする。重要なのは、「今どこにいるか」ということと、「貨物は届いているのかいないのか、いつ届くのか」ということ。そのための、世界中すべてを繋げるような「交通情報システム」を構築し、運用・保守する。運んでいる数を計算するには、店に並べられる商品の数や、実際に売り買いされる商品の数も計算しなければならない。そのために、全世界で販売される商品の数をあらかじめ計算し、それがどこに運送されるのかを適切に計算し、判断する。

ほかの大規模なシステムの例としては、発電機と送電線を管理し、どれだけの電力が今使われていて、今必要で、今発電するべきか、ということを計算する。社会全体に電力が滞りなく行き渡るようにしながら、無駄な電力を作らず、空いているところに回すようにする。そのために電力を計算し、管理する。

ほかには、金や予算の管理。会社としての金や予算をどこに配分するかということから、それぞれの従業員の給料とノルマを決める。あるいは、ATMのような自動決済で、取引された金額が絶対に間違いのないように引き落としされるようにする。これは「絶対に間違えてはならない」という意味で信頼性が必要であり、そのためにトランザクションの仕組みを用いる。

ほかに、なんらかのイベント(たとえばスポーツの国際大会)を行う上で、そのイベントにIT技術を用いたサービスを提供する場合があるが、このサービスはどれだけ負荷がかかっても安定してサービス提供を維持しなければならない。そのための信頼性向上や負荷分散・耐障害性の仕組みを考えられる。サーバーの負荷を分散し、ハードウェアが故障しても別のハードウェアが自動的に代わりを行う冗長性の仕組みが必要。たとえば道路信号や水道のような絶対に機能が失われてはいけないノンストップの公共サービスでは、どこが壊れても必ずほかが代わりを務めるような「冗長性のある耐障害性」が必要だ。

あとは、物理的なシミュレーションなど、とてもたくさんの計算を行わなければいけない分野では、とてもパフォーマンスの高いスーパーコンピュータを使うことがある。これはたとえば天気予報などで、たくさんの物理的な単純な計算を、「状態モデル」によって計算していく。それぞれの状態が隣接する別の状態にどのような影響を与えるかということを、完全に計算しつくす。膨大な計算量であるため、コンピュータ資源を並列でたくさん繋ぎ、中央集約モデルか分散モデルのどちらかを採用する。

あるいは、監視やモニタリング。今、この環境がどのような状況であるかということを監視し、モニタリングする。単に国民の監視を行うような政治的利用だけではなく、たとえば株式市場のマーケットの取引を監視し、常に取引が間違いなく行われるようにするとか、あるいは交通渋滞や人の往来や事故・災害であるとか、さまざまな意味での「監視」を行う。

ほかには、国家や会社の機密情報の管理。一部の人間にしか知られてはならない情報を、ほかの誰からもアクセスできないように、厳重にセキュリティ管理する。関係者しか入ってはならない部屋には入れないようにし、外部のネットワークからは絶対に傍受されないような暗号化やファイアウォール・VPNなどのセキュリティ対策を行う。

このようなことを、プロのシステムエンジニアはシステム開発で行っている。今までの僕は、このような活用事例を考えたことがなかったため、UNIXやWindowsのようなOSと、プログラミング言語やネットワーク・データベースのような「基盤技術」だけしか分かっていなかった。だが、今になってようやく、組み込みや制御などを実例として、さまざまなITの活用事例に気付くことができた。

IT技術に一番近いのは、デザインの仕事だと思う。デザイナーの仕事はITエンジニアの仕事と重なる部分がある。デザインは単なるイラストやポスターの仕事だけではなく、工業製品をデザインしたり、製品の使い方がよく分かるような図入りのマニュアルあるいは組み立てるための設計図を書いたりする。クラウドの受託開発サービスなら、サービスの操作画面をデザインすることもある。デザインの仕事が分かると、ITの仕事もよく分かる。実際、デザイナーとエンジニアを兼業しているプロダクトマネージャーは多い。

IT技術が「頭脳」であると考えるのは間違っていない。だが、頭脳には人格・思考・感情をコントロールするような「理性」の部分だけではなく、運動・体の制御・知覚・言語・記憶などをコントロールする「肉体・感覚の制御」の部分も多い。IT技術はまさにそのような制御を担当しており、大脳だけではなく小脳として求められる部分も多いのである。

本当は、ここに書いたような「ビジネス的な基幹システム」だけではなく、エンジニアはさまざまなシステムを作っている。動画の会議システム、ビデオレコーダーやプレイヤー、メッセージ共有・通知システム、一元的なデータベース照会システム、大規模データの検索エンジン、並列情報処理機器、自動車などのネットワーク通信制御部品など。本当にエンジニアはありとあらゆるシステムを作っているのである。

社会構造による発想法

昔の僕は、「社会構造」から「発想法」を作ることが多かった。

昔の僕は、そもそも、そのような発想法を作るために、文章を書いていた。

たとえば、EUを「ユーラシア連合」という名前に改名して日本が加盟国に入るとか、東アジア・東南アジア・インド・インドネシアを中心とする「アジア帝国」を作ることで、大きくて強い、アメリカに対抗できる国が作れると言う。

あるいは、ノルマを自由にし、自分の労働結果を自らレポートのような形で自由提出型にすることで、決められた仕事を毎日行うのではなく、自由に好きな時に好きな仕事ができると言う。

国会は、下部国会の上に上部国会を作り、下部国会で議論されたことを上部国会で議論することで、労働や生産まで、すべてを国会で議論できる。これはレーニンが考案した「評議会の連邦」に近いが、すべてを民主主義にして、国会で会社やノルマのことまですべて決めるのが、ソビエト型の社会主義とは異なる。

あるいは、政治家と労働者の時間を調整し、一年の半分は政治家、もう半分は労働者とすることで、全員が政治活動に参加できるような、新しい民主主義を考えた。

あとは、学校を自由参加型にして、時間割を自由に選択できるようにし、カリキュラムを自分で選べるようにすることで、勉強する内容を自由に決められるようにしたり、いじめが起きたらそのクラスから簡単に離脱できるようにしたり、いじめ問題を専門に考える教師として「いじめ対策員」を作ることを考えた。

あるいは、経験心理学と言って、経験の中の心理的な傷である「たが」を、経験を芋づる式に考えることですべて解決するような、新しい心理学的な治療について考えた。

そのように、僕はいつでも、社会の「構造」を考えることで、そこから新しい「新発想」をしてきた。

今では既に政策や製品として行われているが、ぜいたく品にだけ課税するようにするとか、モバイル機器のOSをGPLにしてモバイル機器の業者が自由に改造できるようにする、などということも言っていた。資本主義については、「品質保証」制度を導入し、単なる安値競争で売り上げが決まるのではなく、ある程度の品質のあるものには認定や補助を出すようにすべきだと考えていた。ほかにも、会社の起業や投資を金や融資や株式で行うのではなく、国民公社の部署として行うことで、低リスクで国営事業を起業することができるようにしてはどうかと考えていた。

今では、そのような新発想があまり文章の中ではなくなってしまったが、昔の僕の文章はいつでもそのような「新発想」を考え続けてきたのである。

また、僕は新しい未来の国家モデルとして、「新しい社会主義」をよく考える。これは不自由な社会主義ではなく、「自由な社会主義」のモデルであり、そのために、ドイツのマイスター制度のような徒弟制度を参考にした「師弟論」などを、カール・マルクスの「資本論」に代わるものとして考えていた。それ以外にも、「自由を制限しない社会主義」のことを僕はよく考えた。かつての僕にとって、自由と社会主義をどちらも両立させるということは一種の「研究テーマ」だったのである。

もう文章は書かなくなる

僕は、もう、文章は書かなくなるかもしれない。

決して死んだわけではない。だが、僕はそもそも、ネットそのものをやめたいと思う。

今の日本は、はっきり言って「ネットの外」と「ネットの中」の格差が広がっている。「ネットの外」には、楽しいものや面白いものが何もない。だが、「ネットの中」では、誰も聴いていない音楽をいくらでも聴いていたり、誰も見ていない漫画やアニメをいくらでも見ていたり、誰も知らないIT技術のことをいくらでも知っていたり、ということが起きている。

だが、そのようなネットは、SNSを中心としたものだ。そして、SNSを使い続けるのは疲れる。友達の書いていることを常にチェックしなければいけないし、通知を常に確認しなければならない。

そして、ネットには悪い人間が多い。詐欺広告も多いし、おかしなメッセージもたまに来る。そもそもサービスの運営者からして怪しかったり、日本やアメリカ以外の信頼できない国が個人情報を盗んでいくことも多い。

なので、僕はネットそのものをやめようと思うのだ。

先日、大谷と吉田が未来においても活躍するだろうとしたのは、僕の願望であると同時に、「僕がもし世界からいなくなったとしても、大谷と吉田は活躍してくれるだろう」という、僕の切実な願いを記述したものである。

僕はこれ以上、特定の学問や科目の勉強をしたいとは思わない。生物や歴史の勉強はしたいと思っているが、それは生物や歴史を主に学ぶのではなく、「すべての分野を学ぶ」ということで生物と歴史から学ぶということである。何かしらの特定の科目を決めるのではなく、世界にあるものはなんでも学ぶ、ということにしたほうがいいのだと僕は気付いたのである。そのほうが、時間がある限り、無理をせずに幅広く世界のことを学べるからである。

また、僕は勉強をすることよりも、「大切なことを考える」ということをしていきたいと思う。たとえば、「善とは何か、悪とは何か」という問題は、勉強するだけでは見えてこないが、生きる上で大切な問いである。そのような「哲学的真理」を探求するには、勉強などをしても意味がない。

同時に、僕が今まで日本語が分からなかったのは、「単発でそれだけをひとつ思い出すことしかできない」という僕のおかしな制限があったからだ。単発でひとつだけしか思い出せないせいで、逆にこの文章を書くことができたが、実際には大切な思い出をひとつしか思い出すことができなかった。幅広くさまざまな記憶を思い出すようにすれば、日本語の知性もつくし、デザインの作業所で経験したさまざまな大切な思い出、特にメンバーとの出会いの記憶を幅広く思い出せるようになる。

知性を制限することは悪いことではない

また、今の僕について言えるのは、「制限することは悪いことではない」ということだ。

僕は、今まで、自分の頭の知性やできることを常に制限し続けてきた。

この制限のために、本当はとても賢く頭がいいにもかかわらず、頭が悪い状態を維持し続けてきた。

だが、実際は、この制限があることは悪いことばかりではなく、全力で考え続けても疲れないとか、制限があるからこそ分かることとか、さまざまないいことがあった。

そして、僕は今、文章を書くことをやめることで、制限を取り外すことができるようになった。

だが、逆に、そのせいで、楽になる代わり馬鹿になるとか、エネルギーを無駄にたくさん消費してしまう、ということがあるということも分かった。

だから、これからは、制限があるということを悪であると決めつけず、「制限を上手く使いこなして操る」ようにしていきたい。

本当のことを言えば、「制限のある状態」と「制限のない状態」を行き来することができたらいいのかもしれない。

もし、それが多重人格の二人になるのであれば、制限のある状態を「エリカ」とし、制限のない状態を「マドカ」としようと思う。

僕が言いたいのは、知性を制限すること自体は決して悪いことではない。知性を制限したほうが、僕の場合は楽に賢いことが考えられる。知性が制限される代わり、エネルギーの消費も制限される。そう、ものすごく誰よりも賢い僕にとっては、逆に制限があったほうがまともに普通の賢いことを考えられるのである。

あり得ない文章を書いていた

実際のところ、昔の僕は、あり得ない意識と記憶の文章を書いていた。

人生の最初と最後を記述し、意識を高みから低くすると同時に逆に高くし、記憶を破壊し、言葉を再体験のパターンにする中で、僕は「世界との関係性で星を作る」ということを行った。

すなわち、僕の文章は、最初に僕とどのような関係性を持つか、ということで、その読者がどのような「社会的文明」を築くかが決まってしまう。

つまり、最初から僕に従う社会は「従う星」、最初から僕に反抗する社会は「反抗する星」、最初から僕と同じことをする社会は「同じことをする星」となる。

そのような、僕との関係性によって成り立つ「宇宙の星々の世界」を、神が教えてくれた。

また、僕は、進化論や生物学について、いくらかの仮説を考えた。

まず、最初は進化だけをする生物的物質があったとする説。最初は海の中で細胞が分裂するようになって生まれたのちに、「進化だけをする生物的物質」になり、それが全生物になった。その原始的な生物が、今でも昆虫のように残っている。

あるいは、より文学・小説的な仮説として、宇宙から生物が地球にやってきたとする説。エデンが最初の星であり、地球が最後の星であり、生物は宇宙戦争の戦いの末に地球に降り立ち、ほかのすべての星は滅亡した。

ほかにも、僕は超次元の世界について考える。四次元以上の高次元の世界は、「視点」や「目線」を増やせばいくらでも無限に作ることができる。これを「無限次元」と呼ぶ。そして、この無限次元の波状ベクトルをもって、宇宙の「本来の次元」であるとする説である。

そのほか、僕はサインカーブは円の角度の変化であると考えたりして、さまざまな数学的なことに対しても、新発見と言えるような仮説を多く立ててきた。

社会論について言えば、できるだけ自由で平等な国を保とうとする僕は、社会所有ならぬ管理所有によって、街並みを国家が管理し、人々は美しくデザインされた都市の中で決められた住居に住むようにする。あるいは、嘘、殺害、虐待、そして盗難を禁止した、単純な法律(中国史で出てくる法三章のような最低限の法律)を定めることで、極めてシンプルに憲法的な法律を定められると考えていた。

神は前世についてさまざまな人種を僕に教えたが、それはすべて未来の僕のことだった。同時に、神は宣言のすべてを僕にするように促したが、それによって僕は奇跡のような未来の人生を生きられた。また、僕は自らが神となって、ロゴスによって宇宙を創造したが、それがそのままこの文章になり、「永遠に無限に思考できる宇宙の歴史の弁証法」となって、僕はこの世界に宣言するだけで文章がいくらでも書けるようになった。

辛いことはたくさんあって、耐え難いほどの地獄だったが、いつでも神が僕にさまざまなことを教えてくれたので、本当は辛くなかった。この神のことを、僕の精神の中に存在する「ガルト民族」と呼ぶ。ガルト民族は僕の唯一の「戦争の中にある味方勢力」だった。僕はジェシカという女性に会えるという神の言葉を信じていた。すべてが真実ではなかったにせよ、神はさまざまなことを教えてくれたし、そのすべてが嘘ではなかった。