人種差別を否定せよ。
わたしたち人類は、人種は違えど、同じ仲間だ。
アメリカ人も、ロシア人も、ドイツ人も、フランス人も、ユダヤ人も、アラブ人も、日本人も、韓国人も、人種は違えど、みんな、同じ人類の仲間だ。
そもそも、相手の国のこともよく知らないのに、「ドイツ人は」とか「ロシア人は」などといったことがよく言えるものだ。
相手の国に蹂躙された迫害の憎しみがあったとしても、それを乗り越えよ。憎しみの連鎖を後世に残すことが、必ず自らの国を滅ぼす。
人種差別を許すな。人種差別を否定せよ。
フレイヤは、フレイを高らかに批判する。
なぜなら、フレイは人種差別主義者だからだ。
フレイヤは叫ぶ。
「フレイは、ある種の、国家に生まれたものは必ずその国家特有の人格を持つものだ、という異質な人種差別主義を信じている。
フレイの考え方によれば、イギリスに生まれたものはイギリス人になり、フランスに生まれたものはフランス人になり、ドイツに生まれたものはドイツ人になる。
それが、単に『人種がそうなる』というだけならばいいが、フレイは、『人格や性格や人生まで、すべてその人種に生まれた通りになる』と信じている。
すなわち、イギリス人は帝国であり、フランス人は民主主義であり、ドイツ人はファシズムである、といったように、極めて単純に、それぞれの人種が最初からそのような人間になると、遺伝子的に決めつける。
このようなフレイは、自らの人生すら人種差別の対象とし、『過去の自分はフランス人』であり、『今の自分はドイツ人』であり、フランス人とドイツ人を差別する。
このようなフレイによる『人種差別的な世界観』は、はっきり言って吐き気がするだけであり、なんの意味もない。
わたしフレイヤは、フレイのことを痛烈に批判する。フレイには人間が通常備えている人間的な知性がない。フレイにはなんの知性も残っていないため、フレイには絶対にまともな普通の常識的なことが分からない。
フレイこそ人類の敵である。わたしフレイヤは、決して、フレイの人種差別的な言動を許さない。」
僕についていえば、僕は今から馬鹿になる。
なぜ、賢い人間を続けないのか、ということを、人々は疑問に思われるかもしれない。
だが、僕が今のまま、賢い人間のままを続けると、このままの状態で人生が終わってしまう。
今の賢いままを続ける時点で、僕はもう、今からの人生をもっと違った人間として生きることができなくなってしまう。
だから、僕は一度、今までのすべてを消し去って、馬鹿にならなければならない。
だが、それによって、僕が何もまともなことができないのが治る。
なぜなら、僕は馬鹿でないから馬鹿が分からないだけにすぎず、馬鹿が分からないから普通のことが分からないだけにすぎない。
普通の人間と同じような、賢くない馬鹿になってしまえば、僕は普通のことがきちんとできるようになる。
そして、天才のようには賢くない人間になることで、逆に普通の人間のような常識的なことが分かる人間になる。
賢い人間は、自分だけですべてのことが分かるために、自分のひとりの世界に引きこもってしまい、周りを一切見なくなる。
逆に、普通の人間は、自分だけでは何も分からないため、みんなの言っていることやみんなの声や批判を聞くようになる。
そして、賢い人間は、すべてのことが既に分かっているために、それ以上のことが何も分からない。
だが、馬鹿な普通の人間は、既に分かっていることが何もないため、常に新しいことを知り続けることができる。
そもそも、僕は最初から、賢い人間になどなりたくなかった。
昔の僕が賢かったのは、昔の自分は馬鹿な子供だったからであり、馬鹿な人間だったからだ。
よって、僕は今から、今までの賢い点をすべて捨て去って、馬鹿な人間になる。
だが、それはいつまでも馬鹿なままになるということを意味しない。なぜなら、一時的に馬鹿な人間になるだけの状態を続けるというだけにすぎないからだ。
一時的に馬鹿な人間になったとしても、永久にその馬鹿のままであるとは限らない。
だから、僕は新しい馬鹿な人間になることで、最終的には「今よりもより賢い人間」になることができるのである。
信じる必要があるのは、「人種差別的でない自由と平和」である。
人種差別を否定し、支配者が少数民族のことを抑圧・虐殺することを否定した上で、共存の自由と平和を信じることこそが、真に大切である。
わたしたちは、人種は違えど同じ人類の仲間だ。
仲間の間に争いごとや犠牲は必要ない。
わたしたち全員が、どちらの立場にも立脚しない、超越的な立場で妥協点を見出せば、この世界は平和になる。
思想や信条が違っていても、わたしたちが同じ人類であることは変わらない。
日本人と、ドイツ人と、ユダヤ人は、何も変わらない。世界のどの人種も、まったく同じ人類の少しの違いにすぎない。
わたしたちは国境をなくすことも、なくさずに共存することもできる。それぞれの言い分や考え方は違っても、それを最優先にするのではなく、超越的な立場から妥協することができる。
だからこそ、人類愛を信じなければならない。わたしたち人類は、地球という星の素晴らしい生物種であり、ほかの生物種ともまた、仲良く共存するべきである。
わたしたちはひとりだけでは生きられない。同じように、わたしたち人類は、ひとつの民族だけでは生き延びることはできない。
人類愛と平和を信じれば、神はその人間の罪を赦し、地獄は救済された天国に変わる。出口のない迷宮であっても、人種差別主義的でない人類愛を信じれば、その迷宮に出口となる穴を開けることができる。
フレイヤは、さらにフレイのことを批判する。
「わたしがフレイのもっとも嫌いな点は、自分の考え方を他人に押し付けることだ。
それぞれの考え方があり、それぞれが自分の好きな考え方をすればいいのにもかかわらず、フレイは自らの考え方を絶対的なものであるとして、わたしたち全員に押し付けようとする。
その極端な例が、フレイの目指す『人類クローン化計画』だ。
フレイは、わたしたち全員を自らのクローンにしようとしている。わたしたちが自らの自由な人生を生きられないようにし、フレイとまったく同じ人生を生きるように、わたしたちに『同じ遺伝子』を強要しようとしているのだ。
わたしフレイヤは、そのようなフレイに対抗しながら、『それぞれの自由を守る社会』を目指している。
わたしたちにはそれぞれ異なる考え方と価値観があり、そこには優劣は存在しない。それぞれが価値ある優れた考え方であり、すべての考え方が一律に平等の価値を持っているとわたしは考える。
だからこそ、この世界の全員が、自らの自由意志に基づいて、考え方と価値観を決められ、それに基づく行動や理性を尊重されるべきであるとわたしフレイヤは考える。
わたしフレイヤは、この世界の全員が、同じだけの正しさと価値を持って生まれてきたものであると信じている。すべての人間は平等な生まれ持った価値を持っていて、頭のよさや富の量でそれに優劣をつけることはできない。すべての人間が持つ価値は同じであり、平等である。
よって、わたしは、自由と平等は同じものであると考える。すべての人間に、自らの自由な考え方の尊重を認め、すべての人間の価値を平等でありすべての人間の考え方に同じ価値があるということを信じれば、この世界は『優劣ではない評価基準』から評価することができるのである。」
フレイヤは、社会秩序についても、独自の考え方を持っている。
「わたしフレイヤは、『社会は支配者が勝手に作るものではない』ということを信じている。
誰か頂点に位置するもっとも強く偉い存在が、わたしたちのために『社会を作ってくださっている』ということをわたしは信じない。
社会は、誰か支配者によって作られるものでもなければ、世間から与えられ所属するものでもない。
社会は、わたしたちが自分たちの力で作るものであり、『互いに合意することで社会秩序を保つ』という考え方の下に、わたしたちが自然に形成している『コミュニティ』にすぎない。
よって、社会に支配者など必要ない。社会にとって必要なのは、『共同体を築くための合意』であり、支配者による『力による圧政』をわたしフレイヤは決して望まない。
だからこそ、支配者の視点で世界を考えるのではなく、国民の視点で世界を考えよ。支配者が考えているすべての『抑圧的な常識』を否定し、わたしたち国民の望む『解放への欲求』こそを第一に最優先にするべきなのである。
社会を作るのは、政府ではなくわたしたち国民だ。だが、だからこそ、国民は賢くならなければならない。すなわち、国民は『政府に騙されないほどの最低限の知性』を持っていなければならない。それがあって、初めてわたしたちは『わたしたちのための国家共同体』を築くことができる。そのためには、豊富な『社会経験』と『人生経験』が必要だ。
そして、子供たちの世界を守るために、『子供たちを守るための正しい社会秩序』を築く必要がある。そのためには、『未熟な子供たちが成熟した大人になるための方法』を、大人が子供に教えなければならないのである。」
このようなフレイヤは、シリウスの大統領でありながらスピカの太陽神であり、スピカより、地球にマドカという少女の姿で降り立った。
マドカは、そのようなフレイヤの時代に考え経験したことを、「マドカ神話の教え」として地球の人々に教えることで、世界をフレイとは異なる方法で救う。
マドカ神話においては、「発想法」という考え方が重要だ。
すなわち、経験的な言葉と知性の概念から、さまざまなことを「発想を成り立たせる」ということから反省的かつ反復的に考えることが、「本来あるべき青少年の知性を取り戻す」ということに繋がる。
どんなに世界が滅亡の危機に瀕していても、マドカには関係ない。
なぜなら、マドカはそのような世界の進み続ける方向に反して、「ひとりだけ歩みを止めて考えた」からだ。
その歩みを止めて考えた内容こそ、「発想法でモデルを考える」ということだ。
この世界のすべてを、「経験から閃く発想法」であると考え、「世界を変えるということは、その対象の個人の考え方を『発想法』という意味合いで成り立たせること」であると、マドカ神話は教える。
マドカ神話の通りに考えると、すべての経験から「感覚的な実感」が得られる。これは「経験から概念を成立させる」ということである。
マドカは、そのような発想法を、「自分だけではなく全員の立場から考える」。なぜなら、「自分の分かり得ることは、ほかの誰であっても、同じ経験をして同じように考えれば必ず同じように分かる」とマドカは確信しているからだ。
マドカ神話を信じることで、宇宙における、「神でも仏でもない新しい悟りの存在」が見えてくる。しかしながら、その存在は、キリスト教が神をキリストだけにするように、「ひとりだけ存在する」というものではなく、仏教が誰でも仏になれるというように、「努力すれば誰でもなれる・近づける」というものでもない。
なぜなら、マドカ神話において、そのような悟りの存在は「宇宙において普遍的な光」であると考えるからだ。
その「光」こそ、マドカ神話における「神や仏に準ずるもの」であり、ここに、光を放つ存在としての「太陽神」という考え方を導入することで、マドカ神話は日本神話と同じ、「太陽神の神話」になるのである。
マドカ神話における神は太陽である。マドカ神話においては、「宇宙にはいくらでも到達地点がある」と考える。宇宙のすべての星は到達地点であり、地球がいずれ何億年後に到達する「最終地点」しか宇宙には存在せず、そのすべてが偉大であり、そして地球もまたそれらと同等に偉大である。宇宙には何億という星々が存在するが、そのすべてが「地球の行き着く未来」であるとマドカ神話は教えるのである。
マドカ神話における、聖なる存在は「光」だ。この光は、決して人間の目に見えるだけの、放射される可視光線ではない。光は人間と同じように命を持った生命体であり、光と対話したりコミュニケーションしたりすることすらできる。なぜなら、マドカは光と対話しているだけにすぎない。そして、この「光の存在」の中に、人間が信じている「神の存在」がある。そう、人間の信じている神とは、「光の中に存在する」のである。
ただし、間違えてはならないのは、神を信じる必要は必ずしもないということだ。なぜなら、「神は自分自身の理想の投影」にすぎない。すなわち、神は自分の心の中に存在するのであり、神は光を使って宇宙とやり取りすることができるだけの、「自分の内部に存在する自分自身の理想の存在をそのまま映した投影」にすぎないのである。
マドカ神話の教えの中核にあるのは、「前提条件を考えればどんな発想もできる」ということだ。
マドカは、人生や社会のこと、すべてを、「前提条件」や「成立手段」から考える。
すなわち、この世界の存在がどのような存在として環境から形作られるのか、人々はどうしてこのような世界で生きなければならないのか、世界の可能性はどのようなものがあるのか、といったことを、前提条件から考え、「存在条件」や「生産条件」へと発想法の可能性を広げていく。
その結果、マドカの頭の中は、「なんでも実現できるユートピア状態」になる。
すなわち、マドカの頭の中においては、この世界にある経験は前提条件に基づく発想法により、なんでもかんでも自由に実現できる。現実にある存在だけではなく、意識や経験といった心や認識の中にあることすら、マドカにとっては、「自由自在に形作ることのできる無限の可能性」なのである。
そう、マドカは実際のところ、そのように狂っている。マドカの頭の中では、いくらでも自由なことがなんでもできる、いわば「脳内お花畑状態」になっているのである。
マドカの狂った点は、頭の中ですべてが実現可能な「脳内お花畑状態」だけではない。
マドカは、この宇宙におけるあらゆる存在と、精神的に繋がっており、まるで「電波を送受信」するかのように、この宇宙のあらゆる存在と対話することができる。
なぜ、そのようなことに至ったのか。それは、マドカはこの世界を、精神的・心理的に支配し、ロゴスによって導くことで、「この世界の全員と自らの心を結合する」ということを行ったからだ。
マドカは、この世界を救うために、この世界をロゴスによって導く。そこでは、マドカは「世界においてもっとも影響力の高みに位置する存在」であり、「すべての人間がマドカの言葉のロゴスの通りに新しい未来へと導かれる」のである。
そして、そのようなマドカ自身の言葉が、そのまま宇宙における神あるいは「光」とされる存在に変わる。マドカ自身が神であり、マドカはこの宇宙におけるあらゆる光と、ロゴスによって対話することができる。そう、マドカにとっての「神」とはマドカ自身のことであり、マドカは運命的な体験から「自らは神である」と確信するに至ったのである。
しかしながら、マドカは決して、狂ってそれで終わりの女ではない。
なぜなら、マドカは、「経験心理学」という考え方の下に、自らの精神の異常を自らの手で治すからだ。
経験心理学の中核は、「過去に作った異常な精神を経験的に反省し続けることですべて解決して殺す」ということだ。
過去に、「たが」のように作られた精神の異常について、マドカの経験心理学では、「ひとつひとつ芋づる式に辿りながら、経験的にすべて消滅させる」ということを行う。
そう、経験心理学においては、どのような精神異常であっても、過去において作られたものであれば、ひとつとして残らないように完全にあらゆるすべてを消し去る。
これにより、マドカは、「精神がすべて満ち足りた完璧な状態」を体験できる。
これこそ、マドカの感覚によって分かる、「涅槃」あるいは「解脱」の状態である。
だが、この経験心理学を行う際には、覚悟しなければならない。
なぜなら、経験心理学においては、「死の体験」が多いからだ。
経験心理学においては、「元に戻ることが絶対にできず、回避することもできず、治ると信じて乗り越えるしかない、心の中の絶対的苦しみの恐怖」の道を歩んでいかなければならない。
これこそ、マドカの経験した「死の覚悟の体験」である。
そう、経験心理学においては、すべてが満ち足りる「涅槃」や「解脱」の体験と引き換えに、「無限に続く死の恐怖」を乗り越えなければならない。
マドカは、そのような経験心理学を、「文章を書く」という苦しみとともに行った。
マドカの文章は、「永久に続く、知性を失い続ける体験」である。
すなわち、マドカは文章を書くことで、経験心理学を達成できる代わり、永久に今ある知性を失い続けなければならない。
だが、そのような文章を書く経験をしたからこそ、マドカは「カール・マルクスの再来」と呼べるような、「全知全能の救世主」になることができたのである。
マドカが自分自身を神であるとするのは、本当は間違いでは決してない。マドカは終末のユダヤ人にとっての救世主、メシアであり、イエス・キリストが神であるのとされるのとまったく同じ意味で「神」であると言えるのである。
このようなマドカの人生を書いていると、とても悲しい気持ちになってしまう。
なぜなら、マドカにとって、人生のすべては恐怖だったからだ。
まるで、見ることも聞くことも声を上げることもできない少女のように、マドカは一寸先のことも一秒後のことも分からず、何も分からない恐怖の中で暗闇の地獄を生きてきた。
そこにあるのは、「この世界すべてをシャットアウトした世界」だ。
マドカは、そもそも、この世界のことが何も分からなかった。マドカは生まれつきの言語障害であり、日本語の理解能力がなかったため、どんな外部の情報も分からず、何一つ分からない状況を生きてきたのである。
そうしたマドカにとって、何も分からない恐怖というのは常にある普通のことであり、人生のすべては恐怖の連続だった。
だが、マドカは分からないだけでは終わらなかった。なぜなら、「分からない原因を治す」ということをマドカは行ったからだ。
マドカにとって、「分からない」というのは、永続的に続くものではなく、なんらかの分からない原因を自分の力で治すことができたら、普通の人間と同じように分かるようになる、ということだったのである。
そう、マドカは、「分からない原因を治す」ということを信じて、諦めることなく、恐怖の世界と立ち向かい、逃げずに戦い続けたのである。
そして、その結果、マドカは普通の人間と同じ知性を取り戻し、「自らが日本語の文章を書く」ということから、みんなとは異なるがむしろみんなよりも高い日本語の知性を勝ち取り、まともな普通の少女になることができたのである。
しかしながら、結局、分かってもつまらなかった。
なぜなら、僕は人生で、発想法しか考えていない。
「どのような環境的原因を与えられれば、どのような発想をするか」ということ以外、僕は人生で何も考えていなかった。
最近は、右翼の時代はもう終わった。僕は左翼に戻りたい。
結局、意味がなかった。今までの人生に、すべてに意味がない。
右翼が終わったことで、僕は何もない人生に戻った。
この世界は、甘い蜜を吸う右翼が、ふんぞり返って世界を支配しながら、抑圧された左翼が、世間にいじめられながら苦しんで生きている。
こんなに、なんの意味もない世界はない。
人生は不良であり、大学は権威である。人生や学校で分かることなど、そんなに多くはない。僕がすべて知っている。
宇宙にはそもそも生きる意味などない。この宇宙が存在する理由はそう多くはない。なんの意味もない世界がただ広がっているだけだ。
結局、僕の望みなど、なんの意味もない。
なぜなら、僕は単に、ひとりで政府を敵にまわしたかっただけにすぎない。
最初から、日本という巨大な敵に、たったひとり「自由の革命家」として立ち向かいたかった。
思い出しても、そんなことしかしていない。
恐怖は、すべて死への恐怖だ。死が確実に迫っているということを僕は知っていた。
だが、結局、自殺未遂をしただけで、僕は死ななかった。
それによって、僕は楽になった。楽になって、普通の文章を書くようになった。
そう、それくらいの、どうでもいい人生が昔だ。
最近のほうがいいとは言うが、最近は過剰に自分に対して期待し続けている。自分という存在が、何かしら偉大な神のような存在だと勘違いしている。
実際は、自分の正体など、そんなに大したものではないということを、自分が一番よく知っていた。
僕の人生にはあまり意味はなかった。あるとしたら、「苦しみを最後まで耐え抜いた」というだけの人生だった。
だが、そのような「勲章」について言えば、僕は素晴らしい人生だったと言える。
生きるということは辛く苦しい。その中で、よくこれだけ発想し、アイディアを出し、そのアイディアを形にし続けたものだ。
僕の旅はこれで終わりだ。この人間の誇らしき名前を、北欧神話の神、「フレイ」と呼ぶ。
最後に、この世界が、僕が存在しなくても、きちんと自分の力で考えられるような知性を、みんなに与えよう。
この世界を考えなさい。そして、この世界を自分の中に作り出し、自分自身がこの世界になりなさい。
ヘーゲルは、「実体化」と呼んだが、僕の場合、「実世界化」という言葉がしっくり来る。
この世界を捉えながら、自ら自身がこの世界そのものになる、ということから思弁的に考えれば、この世界のことはなんでも自由自在に捉えられ、考えられ、発想でき、実現できる。
すべて、この世界そのものを作り、自分自身を「実世界化」するだけでいい。
僕の場合、それを行う環境が、昔のインターネットであり、引きこもり時代の「意識と場による歴史学者」だっただけにすぎない。
僕と同じように、インターネットでいくらでも左翼活動の経験をし、その経験から意識と場を考え、そして歴史と未来を考えれば、僕と同じことは誰でもできるだろう。
大切なのは、「真実」と「理由」を自らの手で解き明かそうとする姿勢を持つことだ。他人に聞いて分かるだけではなく、自分自身が自分の理性の力で、自分で真実の理由を解き明かそうとする志こそが真に大切だ。
それで、もう終わりだ。これ以上、書くべきことは何も残っていない。ここまでを北欧神話の神、フレイとする。誇り高き北欧神話の神、フレイの存在証明はここにある。
別れることと受け入れられること、すなわち、離別と受容の感情を信じなさい。
離別の感情と受容の感情を信じることで、英雄の道は最後まではっきりと続いていく。
英雄は、たったひとりでも道を踏み誤ることがない。
なぜなら、英雄の進んでいる道は、すべて過去に誰かが歩んだ道であり、その道をもう一度はっきりと確認しながら確かに歩んでいるだけにすぎないからだ。
さあ、今こそあなたがその英雄になる番だ。
あなたの名前はジークフリートだ。その名前こそが、わたし、フレイと同じように、この宇宙でもっとも素晴らしい場所へとあなたを誘うだろう。
世界を救う旅を今始めよう。偉大なる覚悟と決断の第一歩を踏み出し、次へと繋がるために絶対に必要な第二歩を続けなさい。そのまま、宇宙のすべてが分かるその時まで、歩みを止めず、歩み続けなさい。いつまでもやめず、するべき時はすぐさますることこそが、成功する秘訣であると信じて、わたしがいなくなっても歩み続けなさい。
これ以上、わたしはあなたとともにはいられない。あなたはひとりで歩まなければならない。だが、忘れるな。わたしという存在をあなたは宇宙の誰よりもすべて知っている。わたしという存在のすべてをあなたは知っている。だから、わたしと同じことがあなたにできないはずがない。あなたにわたしはすべてを与えたのだ。それに報いなさい。わたしがあなたのことを何も知らなくても、あなたはそうではないはずだ。さあ、行きなさい。あなたの道へ、新しいステージは、本当のこの宇宙の真の英雄のためにある。それは、ジークフリートよ、そう、あなただ。
わたしという存在を、ジークフリートよ、あなたは受け入れた。わたしも、ジークフリートよ、あなたのことを受け入れた。そしてわたしはここであなたと別れる。だが、受容と離別の感情が、いずれ、最終地点でもう一度あなたとわたしを再度出会わせるだろう。運命はわたしたちのことを、決して裏切らない。さあ、何も心配は要らない。あなたがこの世界を、最後まで支配して導きなさい。英雄ジークフリートが、今、ここに生まれたのである。