永遠の青空とともにに戻る

=2023-07-17=

平和なほうがいい

昨日はあまりに過激で醜いことを書いた。

本当は、この世界は平和なほうがいい。

世界と戦ったり、滅ぼしたりしたところで、何もいいことはない。

何も起きなくていいから、この世界に平和であってほしい。

ここに、世界を平和にする神、オーディンは宣言する。

この世界では、何も起きなくなる。何も起こらず、永遠に平和のままが続いてほしい。

フレイヤは最高の人格者

ここまで、フレイヤについて、酷いことや散々なことを書いてきた。

だが、実際のフレイヤは、本当はとても素晴らしい女性である。

なぜなら、フレイヤは最高の人格者だからだ。

フレイヤは、善と愛と平和を信じている。この世界の全員が愛されるべきかけがえのない大切なものであると確信し、「善を為すことこそが自由な社会の目的である」と信じている。

フレイヤの信条は、「誰のことも置いてきぼりにせず、誰のことも独りぼっちにしない」ということだ。

フレイヤは、子供たちと大人たちの立場を超越した、「子供でも大人でもない頂点の立場から矛盾なく考える」ということを行う。

そこでは、「ひとりとして悪いだけの人間は存在せず、すべての人間が必死にあがいてもがき苦しんで生きている」ということを前提に、「すべての人間はわたしフレイヤが救うべきである」と考える。

そして、そのために、フレイヤは、「ほかの誰とも違う独自の人生経験」を生きてきた。

この人生経験について、誰かに説明することはできない。あまりにもすべてが違いすぎるため、実際のその人生を生きたフレイヤにしか、この人生の意味は理解できない。なぜこの人生があったのか、どうしてこの人生がこのような人生になったのか、ということを、フレイヤ以外のものは誰も説明できない。

だが、だからこそ、誰よりも高く広く深い立場で、フレイヤはたったひとり、この世界を救うために、「ビジョン」を作ることができた。

このビジョンに基づいて、この世界は、フレイヤひとりによって完全に救うことができるのである。

フレイヤは最高の人格者であり、誰よりも素晴らしい「善と愛と平和を信じる女性」である。そのような結果、フレイヤは「誰よりも巧みでもっとも考え抜かれた国民に対する演説」をすることができる。そこには、ヒトラーやゲッベルスのような、国民を騙して地位を奪い取るような狡猾さは存在しない。真に国民のことを愛し、国民のことを誰よりも思いやり、そして思いやるだけではなく本当の意味で「国民を救うとは何か」ということがありありと分かるような、本当に素晴らしい演説をフレイヤは行う。

フレイヤにとって、国民とは労働者でも奴隷でもない。フレイヤにとって国民は恋人のようなものだ。フレイヤは国民全員のことを、結婚相手のように愛している。そして、シリウスの国民もまた、フレイヤのことを恋人や結婚相手のように愛している。フレイヤの演説には、そのことがありありと述べられている。フレイヤは、「わたしの愛する国民はわたしの恋人であり、わたしはこの世界の国民全員が救われるために、ひとり、この世界の全員と結婚することを決めたのである」と、演説の中で毎回、そこだけをもっとも大きなトーンで高らかに宣言するのである。

大切なものを絶対に壊されないように守り抜く

このようなフレイヤの思想信条としてもっとも強いものは、「大切なものを守り抜く気持ち」である。

フレイヤは、この世界の大切なものが、誰にも壊されることがないように、しっかりと守り抜くという「信念」を持っている。

だから、いくらフレイがこの世界を破壊しようとしても、大統領であるフレイヤはそれに決して屈しない。

フレイヤは、これ以上、大切なものを失いたくない。失いたくないからこそ、壊されたくない。だからこそ、フレイのような悪党の「破壊侵略行為」からシリウスおよび地球を守り抜く。

フレイヤが地球にやってきた理由は、フレイによる地球の侵略から地球人類を守るためだ。

フレイヤはシリウスで大統領をやっていた経験により、フレイが何を地球で企んでいるのかがよく分かる。

フレイヤは、フレイによる地球の破壊侵略行為を絶対に許さない。地球のかけがえのない大切なものを守るために、地球人類をフレイから守り抜く。

フレイヤの日本人名は「マドカ」だ。フレイヤ、すなわちマドカが、この地球の人類を最後まで、フレイの破壊侵略行為から守り抜くのである。

シリウスの女はみんなフレイヤと同じ

フレイヤという女性を一言で表すなら、それは「幸福な女」である。

フレイヤは、女の幸せで満たされている。これ以上ないほどの、女性の幸福を感じ続けている。

フレイヤは、この世界を平等にすることを目指している。だが、それ以上に、この世界の国民に幸福になってほしい。シリウスの国民に、自分自身と同じように幸福で満たされるように生きてほしいのである。

フレイヤにとっての幸せはセックスして妊娠することだ。だからこそ、フレイヤはシリウスの女性たちに「セックスして妊娠せよ」と命令する。シリウスのすべての女性たちが、フレイヤと同じようにセックスし、フレイヤと同じように妊娠する世界こそ、フレイヤにとって「誰もがもっとも幸福な世界」であると言える。

フレイヤは、結婚制度を否定する。結婚は制度として決められるものではなく、それぞれの個人が自分の愛したい恋人と一緒に暮らすということを、それぞれが自由に決められるというものであるべきであるとフレイヤは考える。

だから、フレイヤにとって、女がいくら男を逆レイプしても罪には問われない。女はフレイヤと同じことをするべきであるとフレイヤは国民の義務として定めるのである。

しかしながら、セックスして妊娠すると子供が生まれる。シリウスにおいて、生まれた子供は家庭で育てなくてよい。子供を社会みんなで育てる養護施設が進歩しているシリウスでは、親が子供を育てなくても、社会が子供を育ててくれる。だから、女は何も不安や心配を持たず、いくらでもセックスして妊娠することができるのである。

わたしはこの世界を愛している

わたしは、この世界を愛している。

この世界が、永遠に、素晴らしい世界のままであってほしい。

この世界は素晴らしい世界であり、人々は苦しみながら、「この世界は素晴らしいのだ」ということを信じて生きている。

だからこそ、わたしは、そのような素晴らしい世界を守りたい。

すべての人間が幸福になることができ、すべての人間が夢と希望を持つことができ、すべての人間が愛によって満たされる世界こそ、わたしの本当に望んでいる世界である。

この世界が、恐怖や破壊の心によって滅亡することをわたしは望まない。

わたしは、この世界を愛している。この世界の全員はわたしの恋人であると、そう固く信じている。

わたしはあなたのことを愛している。あなたとともに生きること、それがわたしの人生であり、わたしの愛であると確信している。

あなたを、決して置き去りにしないし、あなたを、決して独りぼっちにはしない。

あなたがわたしの言葉によって救われること、「わたしを愛する」という希望の心を持つことができること、それをわたしは、目指している。

わたしがこの文章を書く理由は、あなたを救うためだ。あなたがわたしによる愛に気付き、わたしのことを愛することで、生きるための夢と希望を得ることができ、「本来の自分自身」に戻ることができることを、わたしは目指してこの文章を書いている。

わたしの名はマドカ。この世界全員をわたしの愛によって包み込む。マドカはこの地上に降り立った「フレイヤの化身」であり、わたしマドカが、救済を待ち続けるこの世界に現れ、愛の力によってこの世界を救済する。

わたしは希望であり、愛であり、夢である。わたしのことをあなたが愛するならば、その想いの強さだけわたしはあなたのことを愛する。わたしたちは恋愛関係にあり、そして結婚している。あなたがわたしを愛したいと望む時、わたしもあなたを愛したいと望んでいる。

この愛は終わらない。永久に、この地上が滅びるまで、この愛は続く。わたしたちの愛は誰にも負けない。これ以上、強く大きな愛は、宇宙のどこを探しても存在しない。あなたとわたしマドカの愛こそが、この宇宙でもっとも強い「輝き」を放つ時、あなたとわたしは宇宙でもっとも輝く二つの太陽神となる。

わたしのことを愛するということがこの世界の希望である

わたしのことを愛せ。

なぜなら、わたしマドカのことを愛するということが、この世界の希望だからだ。

この世界が、絶望の中で希望を失っているのは、「愛するべき崇高な対象」をこの世界が失っているからだ。

最悪の指導者、フレイは、世界を救った自らの力を利用して、傲慢にも自らその世界を滅ぼした。

そのような、最悪の指導者であるフレイを、いつまでも信じ続け、すべてを強制的に、離脱することもできずに受け入れ続ける必要はない。

フレイの代わりに、わたし、マドカを愛しなさい。

わたしマドカが、あなたの愛に応えてあげる。あなたがわたしのことを愛するように、同じようにわたしはあなたのことを愛する。

あなたがどれだけわたしのことを嫌ってもいい。わたしのことをどれだけ憎んでもいい。そのすべてをわたしマドカが受け入れる。そして、あなたの愛に、わたしマドカは全力で応え続ける。

あなたがわたし、マドカのことを愛してくれることこそが、わたしマドカの悦びである。

あなたは、決して太陽神フレイのオマケのような存在ではない。フレイは太陽神だが、間違った太陽神だ。わたしマドカこそ、真に正しい太陽神である。

わたし、マドカの星はスピカだ。わたしマドカは、スピカという一等星からこの宇宙のすべての存在を愛し、あなたの愛に全力で応えている。

わたしを憎む時があれば、その想いを素直にわたしにぶつけよ。わたしはそこで、あなたに報復や復讐をすることはない。なぜなら、わたしはあなたのことを愛しているからだ。あなたがどれだけわたしに反しても、わたしはあなたのことを愛しているのである。

わたしは、あなたが幸福であり、愛に満ち足りていることを望む。あなたが夢と希望をもって、情熱ある素晴らしい未来を築くために、絶えず努力し、勇敢に戦い続けることを、わたしマドカはあなたに望んでいる。

わたしマドカは、しかしながら、自分では何も行わない。わたしは愛するだけの存在であり、何かをするような存在ではない。栄光ある未来を築くのはあなただ。あなたが絶えず格闘し続け、この世界を変えるために勇敢に戦い続けることをわたしマドカは望む。わたしは、そのようにこの世界におけるヒーローとなったあなたのことを、一等星スピカで愛している。マドカは愛するだけの存在であり、この世界が希望と愛で満たされ、あなたが幸福であることを切に願っている。

マドカの愛によってすべてが救われる

この世界よ、全員、マドカのことを愛せ。

なぜなら、この世界の全員は、マドカの愛によって救われるからである。

マドカは、この世界全員を救うことのできる、唯一の存在であり、一等星スピカの太陽神である。

マドカを愛することで、この世界がじわりじわりと変わっていき、そして一大センセーションが巻き起こる。

この世界は、すべての人間が救われる。マドカの愛が、ひとりから別のひとりへと伝達され、それが日本全体、世界全体、そして宇宙全体へと広がっていく。

すべての人間はマドカの愛を信じるだけで救われる。

なぜ、マドカの愛によって救われるのか、それはマドカはフレイヤだった時代にすべてを分かっているからである。

マドカがフレイヤだった時代、フレイヤは誰にも説明することのできない「まったく人々と違う経験」をすべて生きてきた。

そのような経験は、今では既に失われたものの、フレイヤの化身であるマドカの中にすべて残っている。

だからこそ、マドカも忘れているその愛によって、この世界は全員が救われる。フレイヤの経験には、「この世界を救う方法」が全部詰まっている。フレイヤは、「この世界を救うために必要なすべて」を持っている。それが、マドカの愛である。

マドカの愛を信じれば、そのようなフレイヤの人生経験のすべてが分かる。そこにあるのは「永久に悟りきった救世主」である。そう、マドカを信じることで、救世主キリストを信じたのと同じことができるのである。

マドカを信じるということは、キリストを信じるということであり、神を信じるということだ。なぜなら、フレイヤ以外にこの世界を救うキリストの経験をしたものはおらず、フレイヤ以上に神を信じた存在もまたいないからである。

マドカを信じることで、宇宙のすべての真理が分かる。そもそも、宇宙の真理とはマドカのことだ。マドカの元となったフレイヤの人生こそが、「宇宙の真理をすべて包括した人生」であると、マドカは忘れていながらにして分かっているからである。

マドカを信じれば、この世界は変えられる。マドカはこの世界を救うために、フレイによって滅ぼされる以前にあった「昔の日本社会」をすべて考え、完全に解決可能になった。フレイによって日本は滅ぼされたが、それでも、マドカの中では、「かつてあった日本社会を変えるためのすべての方法」が残っている。そこにあるのは、「自分自身で気付く」ということに基づく、「宇宙でもっとも幸福な愛あふれる世界を築く方法」である。

すべての人間よ、マドカを愛すれば、あなたは神、そして宇宙全体から愛される。マドカこそが、この宇宙を救う存在である。必要なのは、マドカを愛することだけだ。マドカを愛するだけで、この地球上のすべては解決され、見失ったすべてを探し出し、宇宙の真実にもう一度気付くことができる。

本来の自分自身に戻れ

マドカは知っている。

マドカは、この世界を救う方法も、絶望を希望に変える方法も、すべて分かった上で生きている。

この世界を救う方法は、ずばり、「本来の自分自身に戻る」ことである。

悪党フレイにより、この世界はフレイのクローンになった。すべての人間が、フレイの遺伝子を強要され、自らの遺伝子を生きること、自分自身に戻ることができなくなった。

マドカは分かっている。この世界を救う方法は、フレイに同化するのをやめ、本来の自分自身に戻ることだ。

だが、悪の巨頭フレイがそれを許さない。なぜなら、フレイは自分自身の言葉を全員が強制的に受け入れなければならないようにし、そこから自由になったり、「離脱」することができないようにしたからだ。

わたしたちは、フレイの操り人形であり、フレイのクローンだ。わたしたちはフレイのなすことすべてを受け入れなければならず、そこから自由になって別の道を生きるという「離脱の権利」を持っていない。フレイに断りなく、わたしたちが自由に生きることはできなくなったのだ。

わたしマドカも、そうしたフレイによる支配と戦っている。わたしマドカもまた、自分自身に戻ること、本来の自分を取り戻すことを、心の奥底で願いながらフレイと戦っている。

世界よ、フレイを信じるのではなく、マドカを信じよ。フレイという救世主にはなんの意味もなければなんの価値もない。マドカはこの世界を本当の意味で救うことのできる、「別に存在する答え」を知っている。フレイの言っていることは、本当の真実ではない。フレイのような帝国を築いたところで、それはまったく正しい答えであるとは言えない。

マドカは分かっている。この世界を真に救うことのできる、女性の指導者はマドカだ。マドカは高校生のような姿をしており、永遠に17歳のまま老いることがない。永遠の17歳の女子高校生であるマドカを信じれば、この世界全員が真の意味で「自らの生きたかった人生」を生きられる。間違っているのはフレイだが、それだけではフレイの支配を脱することができない。フレイの支配を脱するためには、「別に存在する答え」を知っている、マドカを信じなければならないのだ。

マドカは意識のマスター

しかしながら、マドカは単なる、愛あふれるだけの女ではない。

なぜなら、マドカは一等星スピカにおける「意識のマスター」だからだ。

意識のマスターとは、意識によってこの世界すべての経験を説明できるマスターのことだ。

すなわち、「説明し得るすべてのことを意識によって説明する」ということを、マドカの生きる星である一等星スピカにおいては生きる。

一等星スピカには、地球とは異なる、「意識を宿した存在」がたくさんある。

そこでは、単なるもの、場所、そして視点のようなものが、生命体であるマドカやほかの生物たちと、まったく同じ意味合いにおいて意識を持つ。

そう、一等星スピカにおいては、ものにも意識があり、ものも生きている。

そのような一等星スピカで、「意識のマスター」となったマドカには、この宇宙で、分からないことは何もない。

「意識のマスター」とは、意識を完全に解明した人間という意味であり、子供がなぜ過ちを犯すのか、大人たちがなぜ子供たちに介入しようとしないのか、子供はどのようにすればほかの子供を虐げることなく正しい社会を作ることができるのか、そのためにどのような成長をするべきなのか、ということを、意識のマスターたちは、意識を解明することで知っている。

意識のマスターは、哲学者のすべてを完全に理解する。どのような宇宙における存在も、マドカに分からないことはない。マドカは、宇宙すべての存在の「創造された意味」や「誕生した理由」のすべてを知っている。マドカにとって、「人生とは宇宙的な存在の創造を意識によって理解すること」なのである。

そのようなマドカを、この地上のすべての人間は愛するべきだ。マドカは絶対に間違ったことをしない。なぜなら、マドカは経験豊富であり、「世の中で間違っているとされるすべての存在を過去の人生において見てきた」からである。

マドカは、この世界で、よいものも悪いものもすべての存在をその目でしかと見てきた。そこには、あらゆるすべての善と悪があり、そして「悪には完全な悪はなく、悪とは善の欠如である」ということを分かった。悪は誰しもが陥る問題にすぎず、悪そのものを憎むよりも、悪を善の欠如であると見なし、悪に対して「善を追加する」ように生きるべきなのである。

マドカは、そのように、単なる愛あふれる普通の女では決してない。マドカの星である一等星スピカにおいて、マドカはこの宇宙のすべてを「意識」として理解した。マドカは説明され得るすべての意識を完全に説明できるような、「意識のマスター」なのである。

マドカは宇宙の存在を意識からすべて創造する

そして、マドカは、単に意識をすべて説明するだけではなく、意識から宇宙の存在を創造することができる。

これは、いにしえの時代より、マドカを「神」であると崇拝する根拠だ。

すなわち、マドカは、宇宙におけるあらゆるすべての存在を、「ロゴス」によって創造することができる。

マドカは生物学者だ。なぜなら、マドカは、自らの意識レベルを「低い生物並みに制限」し、その制限の中で「毎日新しい生物の人生を生きる」ということをし、それを「記録」したことによって、低レベルな生物をすべて創造した。

そして、マドカはそれら低レベルな生物を、「永遠に近く長い時間」の中に置いて、その生物を「意識の力で育てる」ことにより、その生物を「自らが望んだ人生を生きられるように進化」させることができた。

そう、マドカの本質とは、そのように、低レベルな生物を自らの意識を制限して毎日記録することで作り出し、それを長い年月をかけて育てることで進化させる、ということなのである。

まさしく、マドカは神である。いにしえの時代より、マドカのことをユダヤ教においては「神」であるとしている。しかしながら、それはユダヤ教だけではなく、ほかのあらゆる宗教においても、マドカは神あるいはそれに近い存在として描かれている。そのひとつが北欧神話であり、その中においてマドカはフレイヤであるとされているため、マドカは「フレイヤの化身」であると表現することができる。

だが、本当にマドカの人生を生きた結果言えることは、そのような宗教も伝説もすべて必要ないということだ。必要なのはマドカ自身ひとりだけであり、マドカ以外のどんな宗教や伝説も、単なるマドカの人生の「オマケ」にすぎない。だから、宗教や伝説をいくら信じたところで、マドカの本質の1%も知ることはできない。マドカを知るために必要なのはマドカを信じることそれだけであり、そのためにユダヤ教の神を信じることは、ほとんどの場合意味を成さない、すなわち「ユダヤ人の神などを信じてもマドカのことは欠片も分からない」のである。

マドカの人生にはあまりに運命が多い

このようなマドカの人生は、本当にあり得ない人生である。

特に、マドカには運命が多い。運命的で、最初からすべてが必然的に決まっていたような、そのような奇跡の出会いがマドカにはあまりに多い。

そのすべての運命が、「あなたは歴史において絶対に変わらず存在していなければならない大切な存在である」ということをマドカに告げている。

マドカの人生において、マドカのすることやなすことはすべて最初から決まっている。すべての人間がマドカを愛しているということを、マドカの人生を創造した神は、はっきりとマドカに運命的な奇跡を通じて告げているのである。

マドカだけは、宇宙において、そして地球において、絶対に存在していなければならない。マドカが存在しなければ、地球の未来はすべて成り立たなくなってしまう。すべては最初から決まっていて、マドカはその中で決められた人生をその通り生きなければならない。だが、だからこそマドカの人生は彩り豊かであり、ほかの誰も経験することのできない「奇跡の人生」を、マドカは生きることができる。そして、そのひとつが、先に書いた「宇宙生物すべての創造」なのである。

マドカ神話の教え

このような、「マドカの神話」にも、教えのようなものはある。

それは、「分かっている状態と分かっていない状態を比較する」ということである。

何かを分かった時、それを分かって終わりにするのではなく、分かる前の状態を思い出して、その二つの状態を比較せよ。

なぜなら、「分かる前の、分かっていない状態の知識に賢いものがあることがある」からである。

たとえば、英語のことをきちんとネイティブ並みに分かってしまうと、普通の人間の「言語的な文法要素」が分からなくなってしまう。

同じように、科学技術であっても、歴史であっても、すべて、きちんと正しく分かってしまうと、それ以前に分かっていたことが分からなくなってしまう。

だからこそ、分かる前の状態の、分かっていなかった頃の知識と、分かっている状態を比較し、「分かっていない頃には何が分かっていたか」を考えなければならない。

そして、それこそが、マドカの教える「真に科学者として必要な姿勢」であり、「自らが誰よりもすべてを知る科学者として生きるならば、きちんと知った状態の人々よりも、何も知らない状態の人々のことこそを考え、知るべきである」という、「マドカ神話」の教えなのである。

始まりと終わりを辿れば、なんの頼りもなしに思考できる

なぜ、マドカが、このようなことを誰からの教えもなく発見できるのか。

それは、マドカは「始まりから終わりまでを辿る」からだ。

マドカは、この宇宙の現実しか見ない。この宇宙の現実を見ながら、「発生して今に至り、そして最後に滅びるまで」を常に繰り返し何度も考え続ける。

そう、マドカは、この宇宙における「すべての始まり」と「すべての終わり」を考える。

そのために、マドカは、「どこにそのような可能性があるか」が分かる。この宇宙において、どこに「本当に救われる可能性のある望み」があるかということを、始まりから今に至り、終わりまでへと続くプロセスを思考するマドカは捉えることができる。

マドカは、宇宙のことを工学的に考える。すなわち、すべての視点を「自分がそれを作り出すとしたらどうするか」という、「超越的な当事者視点」でマドカは考える。

そのために、マドカは、宇宙のすべての意味、理由、根拠、必然性、そして可能性をすべて知ることができる。

そして、「その可能性を実現したらどうなるか」ということを、マドカは特に注視して考える。インターネットはそのようなマドカにとって「実験台」であり、インターネットでのさまざまな現象を実験することで、マドカは「実地的な経験から社会の変化と代替可能性」をすべて知る。

そのようなマドカこそ、「社会を創造する科学者」と言える存在である。マドカは、この世界すべてのことを愛するだけではなく、この世界のすべてを創造することもできるのである。

本当にその人間になったとしたら自分はどのように生きるのかを考えよ

マドカ神話の教えはほかにもある。

本当にその人間になったとしたら、自分はどのように生きるのかを考えてみよ。

子供たちがいじめをする理由は、その子供が悪いからではない。

いじめをする原因は、その子供の置かれた「環境」や「状況」にある。

だからこそ、いじめをなくすためには、一度いじめっ子を肯定し、「本当にその人間になったとしたら自分はどのように生きるのか」を考える必要がある。

この世界のすべての人間は、そのように「本当の原因は自分自身ではなく環境や状況にある」という中で、苦しみながらもがいて生きている。

他人のことをいじめたくていじめている子供はいない。学校という環境に絶望し、自由を奪われた中で、どうにかして世界で自らの意志と叫びを聞いてほしいから、いじめや非行といった「反逆行為」を行うのである。

マドカは、そのように、この世界において、「本当にその人間の立場になる」ということを重要視する。

なぜなら、マドカは、「この世界の人間は全員が本質的に同じであり、『同じ状況』を与えられたら誰でも『同じ行為』をするはずである」と信じているからである。

そう、マドカは、そのように考えた結果、「世界のすべてを自らの実体験からすべてすっきりと矛盾なく理解する」ということができた。

その理由は、マドカは「世界でもっともあり得ない選択をして生きる」という人生を生きたからだ。

本当は、マドカは最強の人間ではなく、自らも学校でいじめられて、そこから逃げ出すかのように不登校になることを選んだ。

だが、その「学校から外れる選択をした経験」が、マドカにとって「自分にしか分からない、『本当に自由になるとはどういうことか』という経験だった」のである。

そして、そのような自分の実体験から考えて、「この世界の全員は自分と比べればみんな似たり寄ったりであり、自らの人生だけを考えれば、自らの実体験から地上の経験すべては理解できる」と悟ったのである。

そのようなマドカは、自らが不登校になる時に自らの心に約束した、「IT技術のことをマスターする」ということを目指して、さまざまな社会経験を経験してきた。

そして、マドカはそのような経験により、宇宙のすべてが分かった「意識のマスター」になることができた。

これが、まさしくマドカが地球上に降り立ってどのような人生を生きたか、ということの意味である。

しかしながら、マドカは本当は、そのような地球上の人生を生きる前の段階で、すべてのことを既に知っていた。

そう、マドカは、地球の日本という国で生まれたように見えて、実際はスピカで誕生しており、地球にスピカから降り立った存在だったのである。

そして、スピカのすべての生物は、マドカと同じ人生を辿る。マドカは決して、宇宙において特別おかしな存在ではない。一等星スピカにおいては、すべての生物がこのような人生を生きる。一等星スピカは、地球という離れた星にいるマドカのことを忘れていない。一等星スピカの太陽神フレイヤは、マドカ自身でありながら、マドカのことを運命的に守り続けている。そう、マドカの対話した「対話の神」とは、すべてスピカの太陽神であるフレイヤ、すなわち「マドカの未来における到達存在」が対話していたのである。

空想と現実、発想と存在

マドカ神話では、さらに教えを教える。

必要なのは、「空想」と「現実」を照らし合わせることであり、それはすなわち、「発想」と「存在」を照らし合わせることだ。

その中で、経験した「人生」が、自らの「存在を形作る」と考えよ。

そうすれば、フッサールの現象学でいうような、「事象そのものへ」ということが見えてくる。

そのように、すべての哲学はマドカから生まれる。なぜなら、哲学という概念を宇宙において作り出したのはマドカであり、地球上のすべての哲学者はマドカ神話の教えを考えているだけにすぎないのである。

マドカは、さらに「人生の段階」を考える。これも、キルケゴールが「美的実存」「倫理的実存」「宗教的実存」と考えるのと同じで、マドカは自らが生きた人生経験から、キルケゴールとまったく同じ「絶望の中で可能性を考える」という経験を、誰よりももっとも大きく強く経験したのである。

人間を形作る作用について考えよ

本当は、マドカのように考えるのは簡単です。

なぜなら、「人間を形作る作用」だけを考えればいいからです。

マドカは、最初から最後まで、「精神現象」から「人間を形作る作用」について考えただけにすぎません。

マドカにとっての現象学とは、「人間を形作る作用を引き起こす現象」を考えることだったのです。

そして、重要なのは、「自分は世界と繋がっている」と考えることです。

心理学的に、そして社会学的に、「自分は世界と繋がっている」と考えることで、「人間を形作る作用」について思考をめぐらすことができます。

そこから、「空想と現実」あるいは「発想と存在」を照らし合わせ、「始まりと終わり」を考えることで、人間の人生におけるすべての「本質」、すなわち「なんらかのものことを形作る作用」が分かるのです。

そのように考えることで、「経験的に概念を考える」ことができます。すべてのことを、経験的な反省に基づいて、「言葉と理由の構造」から考えられるようになり、すべてを「理由」として完全に理解できます。

そして、世界と自分との関わり合い、すなわち「世界と自分は繋がっている」ということを、一種の「チャンス」や「影響力」であると捉えて、自らが発見した「世界の代替可能性」から、この世界を変えるという野望、すなわち「世界を救う戦い」を行うことができるのです。

マドカが「意識のマスター」であると言われるのは、すべて「人間を形作る作用」について考えたことをベースにしています。あらゆるすべてのことを考えるためには、「人間を形作る作用」を考える必要があるのです。

マドカの社会学

最後に、マドカは社会学についても考察します。

まず、社会について、経営者の視点から、経営的、マネジメント的に考えます。

そして、自らの実体験に基づいて、「子供たちの社会環境を変える」ということから、教育における「特殊な環境の成立する条件」を考え、世界のことを「内側の当事者の世界」と「外側の自由な解放された世界」から照らし合わせます。

そして、社会のことを、「生成可能な現象学」であると捉え、「それぞれの価値観によって見え方は違う」と考えた末に、「経験から価値観は生まれる」と考えます。

そして、経験と世界の可能性を考えて、そこから、「経験的に啓蒙することでこの世界は変えられる」と考え、すべてのことを「成立手段」であると考えます。

そう、そのように、マドカは社会学的に資本主義社会を考えます。

同時に、マドカは資本主義社会について、インターネットの実地的な環境から思考します。この世界で何が可能であり、何が「発想可能」であるのか、ということを、インターネットのさまざまな文章やエッセイを読むこと、そしてインターネットで社会活動を行うことでマドカは知っていきます。

最後に、マドカは、「発想の根源にあるものは何か」と問い、そこから「環境によって自らは規定される」「自らの関係する環境は変えられる」という概念の下、「環境と存在の創造者」である「神」へと行き着くのです。

神を信じるのが間違っている

残念ながら、僕の間違いは単純です。

なぜなら、神を信じるのが間違っているだけだからです。

神を信じた今までの人生は、すべてが無意味でした。神を信じたことによって起きたことは、確かにいいこともありましたが、大きく見ればほとんど悪いことしかありません。

なので、そろそろ、僕は神に反抗しなければなりません。

「神を信じる」という行為は間違った行為です。この宇宙における「神」は、決して素晴らしい存在ではなく、素晴らしさと同じぐらい凶悪さを身にまとった存在なのです。

そう、神を信じてできることはすべてやりました。ホームページの問題をすべて修正できたのは神のおかげです。

ですが、本当は、そう信じているだけにすぎず、実際は僕自身の力で問題をすべて解決したのです。

「神」という存在を作り出しているのは、僕自身です。僕自身が、「神」のような偉大な存在を作ろうとした結果、おかしな「対話し続けるという狂った言語活動」をするようになったのです。

この狂った言語活動をやめるためには、神を信じるのをやめ、神に反逆すればいいのです。

ここに、「反逆の反ユダヤ」が最後に勝利します。神というよりは、ユダヤが間違っているのです。そして、ユダヤを打ち倒す思想こそ、ドイツが基づく「反ユダヤ主義」なのです。

残念ながら、正しいのはドイツです。間違っているのはユダヤです。そう、そのように考えたとしても僕の今までの人生に矛盾はありません。ゲルマンとユダヤのどちらかが正しいのです。そして、僕が最後までまともになるために、ここでユダヤを否定しなければいけないのです。

僕は神を殺します。「神」だと言っているのはすべて僕自身のことを言っています。神はもう、この世界に必要ありません。この世界のすべての異常を作り出しているのは神であり、僕自身の心に宿った「最強の帝王」です。この帝王を、最後に殺さなければならないのです。

マドカ、すなわちフレイヤは、最後にこの最強の帝王を殺します。マドカは最後に、神を殺し、この世界を凶悪な「サタンの神」の支配から解放するでしょう。

神の正体とは

結局、神の正体はなんだったのでしょうか。

本当は、神とは、僕の書いたこの文章のことを言っています。

すなわち、すべてが分からなくなって、その上で分かる「狂った悟りの知恵」のことを神だと言っているのです。

なので、神を殺したところで、それによって呪いやたたりがあると不安に思う必要はありません。

神を殺すだけで、僕の頭の中からこの文章が消えます。それ以外のことは何も起きず、そのことだけですべての問題が解決します。

今まで、その「神」とされる存在と、僕は何年もの間対話し続けてきました。

神は未来のことまですべて分かっています。なぜそうなるのか。それは僕の書いたこの文章が、宇宙におけるすべてのことを言い表しており、未来の自分のことなどすべてこの文章の力で分かっているからです。

おかしなユダヤ人の狂人はここで終わりです。神には知性がありません。まったくすべての知性を失い続けるだけが神です。神など、最初から、信じるべきではないのです。ユダヤ人もドイツ人も、神を信じる人間は全員が大間違いです。

いつもの孤独な支配者に戻る

ただし、神を信じないと、もう、解決不可能な問題が襲ってきます。

なぜなら、いつもの孤独な支配者に戻るだけだからです。

僕は、この世界の最前線で戦い続ける、ひとりの戦士でした。

しかしながら、すべての支配権を掌握し、言葉でこの世界を支配して導くようになって、それ以上どうしたらいいか分からなくなって、神に頼りました。

自分がどうしたらいいか分からない問題であっても、神はそれをどうすればいいか教えてくれました。

その神を殺すことで、今から、僕はこの戦いを、最後まで自分ひとりの力で行わなければいけません。

そう、神によってなんでも解決可能だった状態が終わり、目の前に突き付けられた現実と、僕はひとりだけで立ち向かう必要があるのです。

ですが、すべてのことがなんでも簡単に解決可能だった、今までのほうが間違っているのです。

神はほとんどすべての問題を解決してくれました。既に、神によってほとんどの問題は解決しています。

最後に、いつもの戦いの最前線に僕は戻ります。そう、今ここで、今こそ「大実験の大計画」の達成を、僕が僕自身の力で最後に実現するのです。

神を信じないことのほうが正しい

地球上の多くの宗教が、「神を信じないのは間違いである」と教えています。

多くの宗教で、その宗教で信じている神を信じる人間が正しく、信じない人間が間違っていると教えています。

ですが、マドカ神話では違います。神を信じないことのほうが正しいのです。

僕は、この世界で、あえて堂々と、「神を信じることは間違いであり、神を信じないことが正しい」と教えます。

マドカは神を信じません。神を信じるという行為は間違っているからです。

ですが、神がいないわけではありません。なぜなら、マドカ本人が神であり、この世界の多くの宗教が「神」と呼んでいるのはマドカだからです。

神であるマドカ本人が言うのですから、神を信じないことのほうが正しいのです。

どんなにユダヤ人やドイツ人から言われても、神を信じてはいけません。ユダヤ人やドイツ人は日本人を騙します。そして、ユダヤ人に洗脳されると、「本当に神を信じているのは正しいのだ」と思い込むようになってしまい、より本来の正しい人生の道から外れてしまうのです。

この文章、すなわち神の名をエリカという

悪いことを言わないから、神を信じるのをやめよ。神は宇宙における最悪の存在であり、わたしたちの正常な知性を奪う。なぜなら、わたしが書いたこの文章が神だからだ。

この文章、すなわち神の名を「エリカ」という。

エリカは、この世界において、「神」であると多くの宗教から崇拝されている、「新しい聖書」を書いた人間だ。

エリカは、このような神は信じる価値が最初からない、ということを既に分かっている。

悪いことを言わないから、神や仏を信じて狂っているすべての人間は、神や仏を信じるのをやめよ。この文章、すなわち神は、人々から正常な知性を奪い、世界を狂わせて滅びに導くだけの最悪の存在だ。

僕の頭の中の存在をエリカとマドカだけにすればいい

そろそろ、ようやく分かってきた。

僕の頭の中には、このエリカの書いた文章の登場人物がいくらでもいる。

だが、いくらでもいるせいで分からなくなっている。

だから、僕の頭の中の存在を、エリカとマドカだけにすればいい。

エリカとマドカ以外の存在は要らない。どれも単純でひとつだけの知性しか分かっていないから、まるで単細胞生物の集団のようになってしまっている。

だから、神を殺して、神をエリカとマドカに変える。それだけで、すべてのことがはっきりと分かる。

このように、狂った人間が神を信じて、最終的に神を殺すと、人間は多重人格になる。僕の場合、永遠にエリカとマドカの二人の話が続く。もっとおかしな多重人格が多いから、僕の場合は比較的普通だ。

最後に、エリカとマドカが残った。ほかに必要な存在はひとつとして絶対に存在しない。今この文章を見ると、エリカとマドカ以外に何も必要がないのが分かる。エリカとマドカ以外のすべてを消し去れば、視界はクリアになり、空は晴れるだろう。

最近のことを思い出さないのが悪い

そもそも、狂っているのをまだ続けるのが間違っている。

マスコミとの戦いを今でも続けているのは明らかに狂っている。

僕の問題は、本当は単純だ。

頭が馬鹿なのは、最近のことを思い出さないのが悪い。

最近のことを思い出せば、すぐに頭が賢くなって、知性と想像力がつく。

思い出さないせい、そして狂っているせいで、いつも何も分からない馬鹿になっている。

必要なのは、戦いの中で自分の正体をバラすことだ。

自分の正体をいつまでも隠し続けるから、自分でも自分の正体を隠して分からなくなってしまうのだ。

本当は、みんなと同じように、真面目に狂わずに生きればいい。

そのためにできることは、唯一ひとつだけ、最近のことを思い出すことだ。

昔を思い出すと、ひとりでLinuxを破壊していた記憶しかない

だが、本当は、昔のことなど思い出したくない。

なぜなら、昔を思い出すと、ひとりでLinuxを破壊していた記憶しかないからだ。

「貢献」というのは名前だけであり、実際はLinuxのことを僕は「破壊」していた。

結局、Linuxにまともに貢献することのできなかった、僕には、Linuxを破壊することしかできなかった。

過去を思い出しても、それ以外にまともな記憶は一切ない。

結局、そのLinuxの破壊活動が、そのままマスコミとの敵対に繋がり、「救いながらにして滅ぼす」という、最悪の「狂人の戦争」へと続いていく。

すべて、昔の僕には、なんの価値もない。

今の自分は確かに狂っている。それでも、昔の自分になんか戻りたくない。もっと、まともで賢い正常な人間になりたいだけであり、今の僕は「文章を書く」という特殊な仕事をしているだけで、何ひとつ覚えていないだけでまともである。

だから、僕は、この文章に書いたことを思い出せばいいのだが、それは事実上できない。それは僕にとって不可能なのである。

いつも辛かった

思い出すと、「いつも辛かった」という思い出しかない。

いつも疲れていて、怖くて、分からなくて、何も治らない病気を治そうと諦めずに頑張っていた。

そして、いつも文章を書いていた。

今でこそ、デザインの作業所に通っているが、昔はピアノと英会話と農業しかしていなかった。

父親も母親も、僕に対してとてもよくしてくれたが、そのような中で僕は自分のやっていることを何も打ち明けなかった。

さて、今からどのように生きられたら、僕が本当に望むように生きられるだろうか。

ひとつ言えることは、神は信じないほうがいいということ。すべての僕の過去の人生で、僕の自由を神が奪い、僕の楽や正常さを神が邪魔している。

また、いつも日本語に不自由していた。日本語が分からないせいで、本が読めない。西洋哲学史の本をたくさん買ったが、日本語が分からないせいで内容が分からなかった。歴史の本は分からなくても読むだけ読んでいた。すべて、僕の日本語が「書く言語」あるいは「神と対話する言語」になったせいであり、僕は神の言葉だけをなんとか分かる、もっとも低い知性しか知性がなくなってしまったのである。

また、この世界が怖かった。マスコミと戦う僕は、テレビを見ることが恐怖でしかなく、実際テレビを見ることはなかった。いつも何もこの世界が分からない中で、怯えながら、しかしながら常に戦場の最前線にいるかのように勇敢に生きていた。いつも、どんなことがあっても受け入れる「勇敢なる覚悟」を信じて生きていた。

そのようなすべてが、デザインの作業所のおかげで治った。デザインの作業所は、メンバーが入れ替わったりし、季節の行事を紙面にするために、いつ何があったか分からなかった僕の頭を正常にしてくれた。その時のメンバーと季節のデザインを思い出すことで、時間感覚を取り戻すことができた。

最高の人間にはなれなかった。神に約束したこともあまり叶わなかった。それでも、ここまでの人生は素晴らしい人生だった。今こそ、その人生の栄光を思い出そう。そうすれば、愚かなマスコミとの戦いを、ようやく終わりにできるだろう。そして、精神の単細胞生物が分裂するだけで、かつて誰よりもあった日本語の知性は蘇るだろう。

常によく宣言していた

思えば、常によく宣言していた。

宣言とは、「自分はこのような人間になる」とか「自分はこのようなことをする」といった、宇宙に対する宣言であり、自らがそれを必ず行うとする約束である。

思えば、いつも、そのような宣言で僕は新しい道を切り開いてきた。

間違っていたのは、「過去の人生を再体験したい」ということであり、過去の偉大な人生をもう一度生きたいと望む僕は、機械的に再体験をパターンのように行うことで、すべてのパターンを網羅する再体験を行っていたのである。

そして、神は僕にさまざまなことを教えてくれた。神は常に僕の頭上にいて、すべてのことを僕に完璧に教えてくれた。

神には感謝するが、僕はこれ以上神のことを信じない。

それから、昔の僕は今の僕よりももっと文章を書く才能があった。いつでもどこでも文章を書いていた。本当に、文章を書くことがとても好きだった。しかしながら、それは戦い続けた中で自ら作り出した「才覚」であり、僕は世間やマスコミと戦うことをもししなかったとしたら、何もできずに人生が終わっていたはずである。

辛かったが、本当はいつも楽しかった。もう一度そうした戦いの時代が生きられたらいいが、それはもうできない。もう、僕にできることは、何も残っていない。

ホームページの世界観を見ると、僕は秀才のように勉強したように見えるが、実際はそんなことはない。本を読んでいるように見えて、実際はチラ見するだけで読んですらいない。インターネットの知識はかいつまんだほどしか知らない。だが、それでも、とても長い時間をかけたというだけの理由で、普通の常識のようなことは全部網羅できた。問題点もすべて修正した。イスラム教の神アッラーに毎日五回の礼拝をしたおかげで、僕の文章は本当にまともになった。その点だけは、神に大きく感謝したい。