昨日の内容を見て、フレイヤのことを「まともで賢い共産主義者の大統領」であると思った人は、騙されてはいけません。
なぜなら、フレイヤはシリウスにおいても屈指の変態エロ女だからです。
これ以降の内容には、過剰なエロ表現が登場します。画像はなく文章だけですが、そのような表現が嫌いな方は注意してお読みください。
フレイヤは、はっきり言って変態エロ女です。
フレイヤは、自らのために特別に開発させた「セックスよりも快感を感じるバイブレーションのローター」を持っていて、快感を感じるために、そのローターを四六時中つけた状態で政治家の仕事をしています。
膣、アナル、あるいは体中のありとあらゆる快感を感じる場所に、穴の中に入るだけいくらでもそのローターをつけて、その状態でフレイヤは仕事をしているのです。
フレイヤは、食事の際に必ず媚薬を飲みます。この媚薬は一種の麻薬であり、乳首とクリトリスがピンと立った状態になり、少しの快感であっても絶頂を感じ、何度もトリップを繰り返すような快感を感じます。
そして、国民への演説をする際には、機械としての限界ギリギリであるスーパーMAXまで、ローターのバイブレーションの感度を上げます。
時には四時間以上になることもある国民への演説の中で、フレイヤは絶頂を感じていることを隠さず、演説中に何度もイクことが、フレイヤにとっての快感です。時には、「わたしを抱きしめて!」と叫んで何分間にも渡るアクメ状態を国民全員に見せつけることもあります。
このように、フレイヤは常に絶頂状態で、毎日何度もトリップをしながら政治活動を行っています。
フレイヤは、また、誰とでも簡単にセックスをする女であり、逆レイプが大好きです。
街中でいい男を見つけると、大統領権限でその男を取り押さえ、自ら白昼堂々全裸になって、相手のズボンを押し下げると、いつでもどこでも逆レイプを行います。相手に拒否権はありません。
周りにいる男たちが欲望の目で見ていると、その男たちをも巻き込んで、乱交状態になります。
そして、周りにいるスタッフがそれをビデオカメラで撮影し、そのビデオを「スーパーインターネット」と呼ばれる誰でも動画を公開できる通信技術で、全世界に政府のチャンネルから公開します。フレイヤの意向から、動画はすべて無修正で、ぼかしやモザイクなどはなく、「18歳未満は見てはならない」という制限もありません。
このようなエロ行為を、フレイヤは毎日行っています。
フレイヤは、しかしながら、避妊はしません。なぜなら、フレイヤは「妊娠することが大好き」だからです。
フレイヤは、いわば「妊娠中毒」と呼ばれる病気であり、いくらでも危険日に中出しセックスをして、いくらでも妊娠します。
フレイヤは、「わたしの趣味は妊娠することであり、違う男たちの子供をわたしはいくらでも妊娠し、出産することがわたしの幸せである」と述べます。
そのようなフレイヤは、産んだ子供を侍女や家政婦に預け、自分ではなく侍女や家政婦がフレイヤの子供たちを育てます。
フレイヤは、かつて悪魔と契約し、14歳の状態のまま老化することなく、永遠に若い状態を生きられるようになりました。
しかしながら、そのために、フレイヤは毎週違う男とセックスしなければならず、そして避妊もしてはいけない、ということが、フレイヤが永遠に若いままを生きられる条件でした。
その結果、多くの男たちと常に避妊せずにセックスし続けるフレイヤは、その生涯で、あまりに多くの子供たちを作りました。
その子供たちが、「女王様」のようなフレイヤのことを守る「親衛隊」になるのです。
フレイヤがもっとも好きなのは、国民全員の見ている前で絶頂に達して、「わたしを愛しなさい!犯しなさい!抱きしめなさい!」と叫ぶ瞬間です。
そのように、フレイヤは一等星シリウスの大統領として、シリウスの市民から「セックス国家の象徴」とみなされているのです。
フレイヤは、生粋の共産主義者です。この世界で、「完全平等主義」のもと、国民全員を平等にすることを目指しています。
そのようなフレイヤですが、実際は裏でナチズムを信じています。
フレイヤは、時にそのことを匂わせる発言をします。「この世界は間違っている」とか、「自由は間違っている」などという発言がその例です。
ファシストであるフレイこそ大嫌いなフレイヤですが、実際はフレイヤもナチズムの一部であり、フレイヤは社会主義勢力が勝利するためであれば、ネオナチとも連帯を組むのです。
このようなフレイヤは、フレイを打倒すべく戦い続ける、「戦う女」である。
フレイヤは言う。
「シリウスの、わたしを支持する、フレイヤの勢力よ、フレイを打ち倒すために戦うのだ。
敵の軍勢である、フレイの帝国勢力は、風前の灯火である。
わたし、フレイヤを指導者とする、紅の革命軍が、このシリウスにおいて、フレイヤを打ち倒すために、最後のひとりになっても戦い続ける。
フレイヤこそ、この宇宙で最高の星シリウスにおける、もっとも位の高い『紅の指導者』である。
わたし、フレイヤこそが、シリウスを平和にし、この宇宙を平和にする。
フレイの述べる『天才的な最高の文明』は、本当はすべて嘘偽りである。
フレイは、単にどうでもいいホラを吹いているだけにすぎない。天才的発想に見えて、実際はそれらの定理は証明もなされておらず、再現性のある形で実験されたわけでもない。
明らかに、アルカリ炉や宇宙コンピュータなどという可能性がこの宇宙にあるわけがない。フレイは嘘をついている。
だからこそ、この世界は、そのようなひとりだけの傲慢で天才的な発想ではなく、『真面目に全員の力で協力して努力する』という謙虚で誠実な発想から変えていくべきである。
わたし、フレイヤは、ひとりだけの最高の天才ではない。わたしフレイヤは、ひとつの至高の存在ではなく、全員と協力して作られた、このシリウスという星全体の『共同作品』であり、『共同体』なのである。
わたし、フレイヤは、最後までフレイを打ち倒すために、わたしを支持する勢力とともに戦い続ける。
真のヒーローはフレイではない。真のヒーロー、この世界を『完全平等主義』のもとに楽園へと作り変える、紅の革命軍の指導者、フレイヤはここに存在する。わたし、フレイヤはここにいる。わたしフレイヤこそが、この世界を救う本当の救世主だ。」
本当のことを言えば、僕は単純に女が嫌いである。
僕はそもそも、女なんかと付き合いたくない。どんな恋愛もしたくないし、どんな行為もしたくない。
一切、人生において女が好きだったことはない。一度として僕は女性に恋焦がれたこともないし、今から女性を愛するつもりはまったく毛頭ない。
僕は女が大嫌いな男であり、どんな女とも付き合いたくない。
僕のことを、軽い気持ちで女性と付き合う男だと思うなら、それは間違っている。僕は絶対にどんな女性とも付き合わない男だ。女と恋愛をしたいという気持ちがない。
そもそも、僕は人類という生物種が嫌いだ。ホモ・サピエンスのために生きたいとか、ホモ・サピエンスの女性と付き合いたいとか、そういうことを僕は一切思わない。
僕が結婚する相手がもしいるとしたら、それは僕自身の分身しかなりえない。僕がもし二人に分裂し、互いに男と女に分かれたら、その時男である僕は女である僕と付き合うだろう。
ここに記述された「青の聖歌」はもう終わりになる。あまりに青少年のような「青」ばかりが残った。その「青」をこれから僕は「赤」へと変えることになるだろう。
僕ははっきり言って、過去の自分のクズみたいな人生が大嫌いだ。
同時に、この世界が嫌いだ。
なぜなら、この世界は何も努力せず、そして戦っていないからだ。
僕の誇れる点は、すべてのことを努力したこと、そしてこの世界のために戦ったことだ。
だから、この世界は、僕と同じぐらい努力し、僕と同じように戦わなければならない。
そう、この世界は、僕と同じように戦わなければならないのだ。
そう、紅の指導者、フレイヤとともに戦え。
この世界を覆すために、すべてのフレイヤの敵を殲滅せよ。
わたしフレイヤこそ、この世界を変える新しい支配者、紅の革命軍の誇りある指導者である。
わたしフレイヤは、フレイを打ち倒す。シリウスを最悪の世界にし続けているのは、傲慢で、自らのことを「馬」であり、人々を「カエル」であるとし、「馬にとってはカエルはどうでもいい」と言い放つ、フレイである。
フレイは今すぐに滅びるべきであり、わたしフレイヤが打ち倒すべき「敵」である。
わたし、フレイヤは、どんなに劣勢になっても諦めない。どんな辱めも、拷問も、わたしフレイヤはまったく怖くない。わたしフレイヤは恐怖の地獄の中を乗り越え続けてここまで生きてきた。わたしフレイヤはどんな迫害にも屈することなく、最後までフレイと戦い続ける覚悟だ。
フレイヤは言う。
「わたしは、この世界が憎い。
この世界が、憎くて、憎くて、憎くてたまらない。
わたしたちをいじめ続けてきた、この世界を、わたしは必ず打ち滅ぼす。
もっとも最悪の人間が誰かをわたしは知っている。それはフレイである。シリウスにおいて『神』であると崇拝されるフレイこそが、この世界においてもっとも凶悪な『嘘つき』であるとわたしは知っている。
わたしは、絶対にこの世界を許さないし、絶対にフレイを許さない。
わたしたちは、かけがえのない救世主である、神、フレイを殺したことになっている。だが、それでいいのだ。なぜなら、わたしは今度こそ、本当にフレイの息の根を止め、『神の力によって生き残ったフレイの運命にとどめを指す』覚悟だからだ。
わたしはフレイを殺す。フレイはこの世界において、生きる価値のない生命だ。わたし、フレイヤはそのために、巨大な軍勢を率いて、帝国軍のフレイを必ず打ち滅ぼす。
紅の指導者、革命軍のフレイヤは、ここにいる。今度こそフレイの息の根を止め、わたしこそが新しい本当の楽園を築く。わたしフレイヤこそ、フレイに代わる、楽園を築く新しい救世主だ。」
この世界の人々には、残念なお知らせだが、これより、この世界はフレイではなく、フレイヤによって支配される。
フレイヤを駆り立てるものは、「神への憎しみ」である。
フレイヤは、この世界が憎い。この世界の人々が憎い。この世界を作り出した存在が憎い。この世界を成り立たせる存在が憎い。
そう、フレイヤは、この世界を憎むあまり、この世界の創造主である「神」すらも憎いのだ。
なぜなら、フレイヤは、そのような「神」であると自らを豪語する、フレイのことが大嫌いだからだ。
フレイヤは神を憎む。フレイヤを戦いの最前線へと駆り立てるものは「神への憎しみ」である。
フレイヤは神を殺す。フレイヤは、この宇宙に素晴らしい最高の神がいるとは信じない。だが、神がいないとは言わない。なぜなら、神とされるのはサタンであり、「この世界で最悪の存在」だからである。
フレイヤにとっては、神もサタンも何も変わらない。神こそがサタンであり、神は最高の存在などではなく、この世界を滅びへと導く最悪の存在だ。
そのため、フレイヤは反ユダヤ主義を否定しない。フレイヤにとって「ユダヤ」を信じることはなんの意味もない、価値のない行為だ。ユダヤ人の神とされる存在は最悪の存在であり、ユダヤ人を救うとしている神の姿勢は、単なる日本に対するテロリストにすぎない。神フレイは東亜イスラエルの建国を目指しているが、その結果実現されるのは「ユダヤによって日本文化・日本文明が破壊された東アジア」であり、まったくの最悪の政策であるとしか言えない。
フレイヤは神が嫌いであり、ユダヤが嫌いだ。フレイヤにとって、タブーなど何ひとつ存在しない。フレイヤは堂々と反ユダヤ主義と同じことを言う。フレイヤはレーニンであり、スターリンであり、そしてヒトラーなのである。
このようなフレイヤは、単なるサタンでも反ユダヤ主義者でもない。
なぜなら、フレイヤは自由を勝ち取るからだ。
今までのフレイの支配では、わたしたちはフレイの言うことをそのまま受け入れるしかなく、フレイのなすがままに支配されてきた。
フレイの支配から逃れることはできず、フレイから自由になることをわたしたちの意志で決めることができなかった。
人生を生きる上で、いつでもフレイが生殺与奪の権利を独占しており、フレイに逆らうことは事実上できなかった。
だが、フレイヤによって、それが変わる。
フレイヤによって、わたしたちは自由意志でフレイからの支配を脱することができる。
この世界のすべてがフレイによって「フレイの一部」になっている状況が、今から、フレイヤが勝利することでなくなる。
フレイヤは、ユダヤを信じない。間違っているのは、ユダヤであり、キリスト教である。ユダヤのキリスト教を信じるせいで、このようにひとりの神によるロゴスに支配され、そこから自由に離脱することができなくなってしまう。
ユダヤを信じない、紅の革命家フレイヤにより、この世界はフレイによる支配が解かれ、人々はフレイから自由に離脱し、自らの意志で自らの人生を決断できるようになる。
最後に、僕は女になった。
僕はかつては男だったが、今では完全に女になった。
男として、射精することを僕はもうしない。
今から、膣内を綺麗にして、敏感にすることで、僕は常にイク状態を保つようになる。
僕はいつでも常にセックスをしている状態の女であり、男のように射精することはないが、常にアクメ状態になっており、絶頂の快楽を感じ続けている。
そのような僕にとっては、もはやこの世界において恋人を作る必要はない。
僕は誰のことも愛さずに、結婚しない。僕の恋人は神だ。僕にとっての恋人は、「神」とされるこの世界の裏側にいる最高の存在であり、神以外に僕の恋人は存在しない。
僕は今から、永久に常にセックス状態になり、常にアクメ状態になる。これ以上僕は男として性愛を感じない。僕は女になった。膣内を敏感にさせ、自分で自分を犯すことで、僕は常にセックス状態になれる。
フレイヤは言う。
戦い続けよ。
どんなに馬鹿になっても、どんな地獄に堕ちても、何も分からなくなっても、恐怖が際限なく高まっても、自分の力では何もできなくなったとしても、戦うことをやめてはならない。
戦い続けよ。最後まで、自らがくたばるまで、最後まで戦い続けよ。
そのために、神を信じよ。神は、そのように戦うことを信じるために存在するのであり、神は信じるものを必ず勝利へと導く。
戦え。最後まで、どんなに辛く苦しくなっても、何もかもすべて犠牲にして失ったとしても、戦い続けることをやめてはならない。
紅の革命軍、フレイヤはここにいる。フレイヤを支持せよ。最後まで、この世界の諸悪のすべてを打ち倒すその日を信じて、諦めることなく、この世界において「完全平等主義」が勝利するために戦い続けよ。
しかしながら、フレイヤは単なる戦うだけの女戦士ではない。
なぜなら、フレイヤは国家モデルを作るからである。
フレイヤが考える、カール・マルクスの間違いとは、マルクスは資本論において、資本主義の批判や資本主義の問題を考えることには卓越しており、資本帝国主義が打ち倒されて共産主義社会に移行するということを述べたところまでは正しかった。
だが、マルクスは、共産主義社会が訪れると言っただけで、どのような共産主義社会が理想の社会なのか、ということまでは考えなかった。
その結果、スターリンや毛沢東により、「計画経済」「社会所有」「平等分配」をベースとし、「プロレタリア独裁」の「評議会連邦」を行う、ソビエト型の劣悪な社会主義が生まれたが、それらは決して素晴らしい社会にはなり得なかった。
すなわち、20世紀の共産主義者に足りなかったのは、理想の社会主義の「国家モデル」を考えることがなかった、ということである。
そう、フレイヤは、そのような20世紀の共産主義者たちを反省して、理想である「国家モデル」を築く。
フレイヤの国家モデルの中核となるのは、「自由を成立させるために、国家としては何も決めない」ということである。
フレイヤは、まず、それぞれの自由ということを考える。
それぞれの自由とは、個別と集団のバランスということであり、それぞれの個人の自由をまったく制限することなく、集団を正しい社会になるように成り立たせるということだ。
そして、集団は、国家に対して押し付けられるものではなく、個人個人の自由の成立の延長線上としてあるべきであるとフレイヤは考える。
フレイヤは、憲法のような決まり事や、会社組織や福祉施設のような組織を、すべて、自由に成立させることによって成り立たせる。
すなわち、法律は権利を定めた憲法を最低限決め、それぞれの自由な決まり事を自由に決められるようにすることでほとんどの決まり事を成り立たせる。
会社組織や福祉施設も、国家が定めるのではなく、それぞれの国民が自由に作ったり参加できるようにした上で、それぞれの国民が自由に変えられるようにする。
だが、それだけでは、単なる「自由放任主義」になってしまう。
フレイヤは、自由を考える上で、「完全な自由ではなく実質的な自由が必要」であると考える。
たとえば、コンピュータのソフトウェアが、OSやコンパイラの上でユーザーランドのプログラムが動いているように、プログラマはユーザーランドだけを書くことができ、OSやコンパイラまで自分で作る必要はないような社会こそ、真の意味で「実質的に自由」である。
よって、フレイヤは、社会にとっての「基盤的なインフラ」を、人々の自由を阻害しない範囲で、社会制度や社会システムとして国民に自由な行動の基盤として与えるべきであると考える。
そのために、労働者は全員が国の公務員となり、全員を国が雇用するために失業者が一切生まれないようにする。
金や富によって格差が生まれるのを防ぐために、生活に必要なすべてのものは国が国民に配給する。
会社を作るために、多額の融資から自分で利益を上げて返すという「起業のリスク」を取る必要はなく、優れた発想やアイディアを持った人間は、国家の国民公社の部署として、その事業を行うことができるようにする。
そのようにすることで、社会主義経済における「共同体」という国家モデルを築くことができる。
そして、その国家では、「自由に国民主導で制度や社会を変えられる」ということを重視する。
すなわち、国家を誰も変えることのできない、「政治家や役人に押し付けられた社会」ではなく、国民主導で、議論をしたり制度改革をしたりすることで、社会のすべてのあらゆることを国民が変えられるようになることを目指す。
それこそが、真の意味での「民主的」という意味であり、「民主主義社会」であるとフレイヤは考えるのである。
そして、フレイヤは、世界を救うために、フレイヤ個人ひとりだけが賢いのでは意味がないと考える。
フレイのように、天才がひとりだけですべてを行う世界は、ファシストが考えて賢い点が何かしらあるかもしれないが、ひとりしか賢い人間がいないという意味で、とても虚しく、空虚である。
フレイヤは、「フレイヤと同じ人生を生きることができる国」として、「人生主義」という社会思想を作る。
人生主義は、完全平等主義を言い換えた名前であり、フレイヤは、自らと同じ人生を全員が同じように生きられるような社会を作る。
なぜなら、そうでなければ、決して社会を救うことはできないからだ。
その理由は、フレイヤという人間の人生の中では、すべてのことがはっきりと分かっていて、世界を救うためのすべての方法が「ビジョンとして見えている」からである。
そのようなビジョンを人々が共有するためには、フレイヤと同じ「自由で平等な正しい人生」を、フレイヤと同じようにみんなが生きることができなければならない。
しかしながら、今の資本主義の社会制度では、フレイヤと同じ人生を生きることは極めて難しい。フレイヤという人間がフレイヤという人生を生きられたのは、本当に奇跡に近い。
そのため、フレイヤと同じ人生を誰もが生きられる「人生主義」の世界にすることが、フレイヤの「完全平等主義」においては必ず第一に必要なのである。
そのように、フレイヤは資本主義社会を転換した「新しい共産主義社会」において、「何も国家として押しつけがましい制度を決めず自由にすること」「すべて自由にするのではなく実質的に自由にすること」「国民主導で変えられるようにすること」「フレイヤと同じ人生を生きられるようにすること」から、「完全平等主義」を達成する。
そう、共産主義の目指した本当の「共同体の楽園」を、新しい21世紀の共産主義者、フレイヤが実現するのである。
このように書くと、「単に自由と言って枠組みだけを決めているだけであり、実際のことは何も決めていない」と思うことだろう。
しかしながら、そのように考えるものは、フレイヤのことを侮っている。
なぜなら、フレイヤの賢い点とは、そのような枠組みと自由の思想をベースとして、国家や社会に必要なすべてのことを決めまくり、まるで全宇宙を創造するかのように世界を作りまくることだからである。
社会制度、社会基盤、ルール、発想、インフラ、そのようなすべてのことを、フレイヤは「国家モデルに必要である」と考える限りにおいて、あらゆる領域で決めまくり、作りまくる。
社会制度だけではない。科学や哲学、人生、経験、世界観、知恵、知性、知識、あらゆるすべてのことを、フレイヤは労力を惜しまずに無限に作り続ける。
そこにあるのは、「この世界と真正面から敵対する」という「戦いの魂」だ。
かつて、カール・マルクスがやったのと同じように、フレイヤは世界と戦いながら文章を書く。知性のすべてが失われ、狂人のようになったとしても、フレイヤは狂っておらず、冷静さを失っていない。フレイヤの見ているビジョンには、ほかの人間には見えていないものが見えている。フレイヤは、マルクスがやったのと同じことを、より正しく、より賢く、そしてより超越した立場で行う。
そう、そこにある「国家モデル」とは、「すべての人間が自由になれるような社会」である。フレイヤはかつて、「この世界が自由になれば今よりも必ずよくなるはずだ」と信じた。フレイヤにとっては、今の民主主義社会は自由に見えて、本当はまったく自由でなかった。だからこそ、社会主義の思想に染まりながら、フレイヤは「本当の自由の社会」を考え続けた。そこから生まれたのが、フレイヤによる「完全平等主義の国家モデル」なのである。
フレイヤの欠点がもしあるとしたら、それは「ひねくれた発想をする」ということだ。
フレイヤは、資本主義と社会主義の制度を比較し、自らの立脚する哲学や世界観を作るが、それはあまりに普通の人間から言えばひねくれたものであり、「世界を斜めに見た」かのようなものが多い。
そして、フレイヤ本人は、そのことに気付いていない。フレイヤ本人は、それを「正しい考え方」であると信じ、自らを「もっとも正しく考えている」と考えている。
だから、本当のことを言えば、どんなに頑張ってもフレイヤと同じことは分からない。この世界において、誰よりもひねくれたフレイヤの考え方と理性がなければ、フレイヤと同じことを考えることも、知ることも、経験することもできないからである。
だが、それでもフレイヤは諦めない。なぜなら、フレイヤが自分の考え方を「正しい」とする根拠は、物理学者や哲学者として考えた時に、宇宙でもっとも正しい洞察力と分析力をフレイヤは持ち合わせているということだからだ。
そう、フレイヤの通り考えることで、誰でも宇宙のすべての真理が分かる。この世界において正しい人生とは何かということ、正しい社会主義国家を作るためにはどうすればいいかということを、「正しい考え方」で洞察・分析するフレイヤは完全にすべて知っており、分かりつくしているのである。
フレイヤはまさに神のような共産主義者であり、フレイの何が間違っているかということを完全に分かっている。なぜなら、フレイヤの考える通りに考えた時に、「もっとも間違った考え方」は何かと言えば、それこそがフレイの考え方だからである。
フレイヤの正しい世界の捉え方は、フレイの世界観と完全に矛盾する。フレイの考えていることは、普通の人間から見て天才であっても、フレイヤの考え方から見れば完全なる愚者である。フレイヤは、フレイのような人間のことを愛することができない。フレイヤはフレイが大嫌いであり、「フレイのように考えると絶対に世界は滅びてしまう」と、フレイヤはフレイの考え方を確信的に疑っているのである。