一等星ミモザが考えるに、この人間は微生物を信じれば治る。
この人間の精神がおかしいのは、微生物の力に頼らなければ治らない。
微生物を信じると、すぐに悪いものが取り除かれる。この人間は常にまっすぐ前を向いて努力しているが、実際は「前のめり」になっていて、前に進むことしかできなくなっている。
そもそも、やり方が間違っているだけで、やっていること自体は何も間違っていない。辛く苦しい異常を治すためには、辛く苦しいことを何度も繰り返して学習しなければならない。学習した段階で、精神の異常は普通にできるようになる。そう、普通の子供ならすぐに治る。
必要なのは、やっていることをやめることではなく、やり方を変えることだ。つまり、休めるような方法でできるやり方を見つければ、すぐに治る。
治すためには、何かのシンプルで単純な学習をすればいい。この人間は、「学習できない」ということが病気の原因になっている。そして、昔は本当に知性を作りすぎたせいで、学習すること自体ができなかった。今は違う。今はかつての自分の経験を忘れたために、単純に学習することができるようになっている。
ただし、この人間は、長い間学習すること自体ができなかった。その理由は、学習した時点でもうそれ以上治らなくなってしまうからだ。学習すればすぐに治るのに、学習すること自体ができないせいで、この人間は歩き回るなどの異常症状を発症している。そう、今から、もう一度学習していけば、この病気はきちんと治る。
共産党やソ連の信じている共産主義を信じてはいけない。
共産主義は間違っている。
共産主義者は、「みんなのものを平等に分配する」ということを信じている。
だが、その「平等に分配されるみんなのもの」が、どこから来ているのかをよく考えよ。
国民の税金、金持ちを殺して奪った富、そして奴隷のように労働者を酷使して得られた強制ノルマの成果物によって、平等に分配されるみんなのものは出来上がっている。
そもそも、既存のマルクス主義などが理想なわけがない。マルクスの言っていることは嘘だらけであり、ソ連という国はこの世界でもっとも凶悪な詐欺師のペテン国家だ。
だから、共産党を支持してはならない。いくら富裕層と貧乏人の格差が酷くても、民主主義をやめて共産主義に移行することだけは絶対に許してはならない。
僕がなぜ、今でも生きているのか。
本当は、僕はもう死んでいて、生きていないのである。
僕ははるか昔に死んでいる。死んだはずの人間が、単に死後の夢を見ているだけにすぎない。
そして、それはみんなも同じだ。
地球はかつて既に滅びているはずであり、みんなもそこで死んだはずである。今、みんなが見ているものは、「神」とされる人物が見せている「幻想」や「虚像」の類にすぎない。
つまり、この世界は既に滅んでいる。わたしたちは「幽霊や亡霊の世界」を見ているのであり、結局、最終的には必ずこのような世界になる、ということだけを、神によってまざまざと見せつけられている。
歴史上のすべての人類が、わたしたちと同じように、死後に幻想と虚像の世界を見ている。これが宇宙における、正しい「終末」であり、「わたしたちは死後に終末の世界で復活して永遠の命を得る」というキリストの言葉の本当の意味なのである。
支配は間違っている。
正義の帝国などというものがあるはずがない。
ひとりの支配者が身勝手に国を支配したとして、それでは決してよい国にはならない。
支配者が神のように善良かつ、超人のように全知全能ならば、その国は支配者によって素晴らしい国になるかもしれない。
だが、実際は、そのような完璧な支配者は存在しない。
支配者が身勝手に支配するならば、必ずその国は戦いと争いの中、独裁と腐敗に陥って最悪の国になる。
例外があるとしたら、僕がこのホームページで行っていることだが、それは僕以外の誰も行うことのできない「聖域」の中での話にすぎない。
だから、悪の支配に対抗するために、「自由な解放」を行わなければならない。
解放とは何か。
解放とは、いじめられることのない世界だ。
支配者だけではなく、自由な悪の集団の連合であっても、力を持った人間はわたしたち国民、特に弱者やマイノリティを迫害してくる。
そのような「いじめ」に負けないようにするために、わたしたちには「平等な自由の保障された社会」が真に必要である。
いじめをなくすためには、この世界を変えなければならない。
だが、この世界をどのように変えれば、いじめはなくなるだろうか。
いじめの起きる理由とは、子供たちが「確固たる自分自身の考え方と心構え」を持っていないことに起因している。
同時に、そのような子供たちが、「自由に生きなさい」という「社会による自由の強要」を受けた結果、子供たちは「いじめやスクールカーストでしか秩序ある社会を築くことができない」という状況を呈している。
だが、真に必要なのは、子供たちが「本当のこの世界の在り方とはどのようなものか」ということを知ることだ。
そこから、子供たちは、「自由においても経験豊富であれば正しい社会秩序を築くことができる」ということを知る。
それによって、子供たちは、「自由に社会を築くことで本当はこの世界はもっと別の可能性を築くこともできるのだ」ということが分かる。
そう、そのように、「本来の真の世界」を知った子供たちであれば、「世界を変えるのは簡単である」ということも知ることができる。
だが、そのような経験をさせるために、何が必要なのか。
そのようなことを知るためには、「さまざまな世界を変える経験ができる場所」というのが必要である。
そして、僕が知っているのは、それがかつてのインターネットであり、2ちゃんねるのような匿名掲示板だったのである。
そのように、「自由な世界を変える可能性」を知るために必要なのは、「チャンス」や「手段」という考え方をすることであり、そこには「トップダウンの決定論」と「ボトムアップの連帯論」が関係する。
すなわち、「もっとも影響力の高い場所から決定し、もっとも可能性を制限しない社会制度を作る」ということが、「この世界をもっとも自由に変えられるような力と可能性を実現する」ということに繋がる。
だが、歴史上の政治家が間違えたのは、かつての帝国や民主主義の社会制度では、「ひとりですべてを行うしかない」ということに基づいていたということだ。
実際は、ひとりだけで行うよりも、みんなが協力して行ったほうがいい。
だが、だからといって、共産党のように徒党を組む必要は今の時代にはない。
なぜなら、インターネットでそれぞれが自由に行うということをベースに、「インターネット世界を変える」ということから、「それぞれが自由に世界を変える」ということを促すようにしてやればいいからである。
みんながそれぞれ世界を変えることを促すことで、この世界は支配や結党を行わなくても、みんなの力で変えていくことができる。
そこに必要なのは「システム」だけである。
だが、世界を変えるとしても、では、どのように変えれば人生が幸福になり、世界が救われるというのだろうか。
ひとつ言えることは、たくさんのさまざまな経験をしてきた末に、「自分自身のあるがままをさらけ出して、それを肯定してくれるような仲間たちの前で、自分が自分の望むように生きられる」ということが幸福である、ということである。
すなわち、「受け入れられる」ということ、これが正しい。
同時に、誰かから批判されたとしても、「確固たる自分自身の信念」がある人間は、その批判に負けることがなく、自分の確固たる本質を信じた上で、批判や罵倒に耐え、勝つことができる。
そして、その「確固たる信念」とは、すなわち、「自分がみんなに受け入れられたように、今度は自分がほかの人を受け入れてあげる」ということなのである。
そのように、人々が幸福に生きられるようにこの世界を変えるためには、この世界で「素晴らしい世界の可能性を実現」していかなければならない。
だが、この世界は決して変えられないわけではない。
なぜなら、自由においては、「歴史の必然の中で、世界を変えることは常にいつでも許されている」からである。
これこそが、僕の考える「正しい自由」であり、「手段とチャンスの正しい捉え方」だ。
いつでも潜在的可能性があるということは、すなわち、その潜在的可能性を最大限活かすような社会制度を築くことができるということだ。
そのように考えた時、この世界は「自由な超越的立場」から考えられる。
すなわち、「人々は自らの立場やしがらみによる制限や不自由があるが、そのような立場やしがらみのすべてから自由になって超越的に考えた時、この世界はすべてが救われるような解を導ける」という考え方である。
そう、そのように考えれば、この世界は「救うことができる」。
同時に、この世界の歴史観も見えてくる。
歴史とは「環境の変化」であり、同時に「環境に基づく常識と意識の変化」だ。環境が変わることで、常識が変わっていき、人々の意識もまた変わっていく。そう、「環境を変えることで歴史は変えられる」ということが言える。
そのように考えれば、地球は必ず「自由へと行き着く」ということが見えてくる。地球は自由になる方向に向かっている。すべての終わりには「完全にすべてが自由になった世界」がある。社会制度も、人々の意識も、社会の秩序も、すべてが「自由」になった世界、それが人類の到達地点なのである。
この文章は、僕が歌手の月詠みに対して書いた答えだ。
月詠みは、「救世主」という楽曲の中で、世界の在り方と人生を生きる正しい使い方を教えてほしいと言った。
だから、僕が今、その答えをここに書いた。
この内容が、世界の在り方であり、人生を生きる正しい方法である。
本当は、この世界で考えるべきことは少ない。
「個別と全体」「可能性」「成立手段」ぐらいしか存在しない。
人々が「全体」であると思っているものは、実際は「個別の集団」にすぎない。
だから、「個別」だけを考えれば、それだけで「全体」が分かる。
ただし、「目的」を忘れないようにすること。「全体は個別の集団である」と考えると、「個別」に目が行く代わり、「目的」に目が行かなくなってしまう。
だから、「世界そのものを作り出すモデル」があるとしたら、そこには「目的」すなわち「社会の役割」を考え、「社会の目的としてアイデンティティのモデルを実現する」ということを考える必要がある。
また、「可能性」や「成立手段」は、個別と全体から導かれる「自由と平等」によって成立する。
すなわち、「それがひとりによってできるのであれば、それは全員ができるということを意味する」ということである。
ひとりができるということが確実なのだから、同じ人間である誰にとってもできるはずであり、それがまさしく「世界を変えられるひとつの答え」になると、「可能性」は考える。
そして、そのような「可能性」は、「成立手段」によって「実現性」となる。
わたしがそれができるということが、誰にでもできるということに繋がり、それが「世界にとっての可能性」であるということを意味している。そして、その可能性を成立させられ得るような「前提条件」をクリアするような「成立手段」があるということが分かれば、それが「世界そのものを実現する実現性」となる。
その結果、この世界には「さまざまな実現可能なチャンス」があるということが分かる。それこそが、この世界を救う「子供たちを救うという行為は誰にとっても自由に許されている」ということに繋がるのである。
信じるべきことは、「その人の視点に立って考える」ということ、「その人に自由意志を与えて、自由意志によって決められたことが真の意味での信じたことである」ということ、この世界の全員が「わたしと同じ平等な人間である」ということである。
誰かの視点に立って考えなければ、その誰かのことをきちんと理解した上で、意図通りに人の心を導くことはできない。
自由意志を与えた上での決定でなければ、それはその誰かが真に選択して決めた決定であるとは言えない。
この世界の全員は平等であり、わたし自身と何も変わらないということを信じなければ、自らが分かったことはすべて意味を失い、虚無となってしまう。
だから、全員のことを平等な人間であると信じた上で、自由を与えなければならない。
ただし、矛盾するように聞こえるかもしれないが、本当にすべてのことを自由にする必要はない。なぜなら、「実質的な自由さえあればいい」ということも言えるからである。
すべてのことを自分で自由に作りたいのであれば、たとえば、OSのカーネルやコンパイラまで自分で作った上でユーザーランドのプログラムを書くようなことをしなければならない。
だが、真に自由に行う必要があるのは、ユーザーランドのプログラムの部分だけを自由に書くことだ。
だからこそ、社会のすべてを自由にする必要はない。すべてのことを独立して自分だけで行う必要はない。確かに「自由意志による決定の独立性」は必要だが、学校自体をすべて作り直せというのは違う。必要なのは「実質的な自由」を与えることであり、すべてを自分でしろというのは労力と時間の無駄であり、無意味である。
世界を変えるならば、制度とインフラを変えよ。
そして、そのような制度とインフラを、国家や政府が行うのではなく、国民が行うようにせよ。
民間が行うことはいい結果をもたらさない。国家や政府が行うよりも民間は自由だが、自由だからこそ公正さや倫理性を欠く場合がある。
それでも、政府や国家が行うのではなく、国民自らが行うような組織とサービスを目指せ。
そして、制度やインフラを国民が変えられるように、国民を制度やインフラに関係し、参加できるような枠組みを取り入れよ。
インターネットがある時代なのだから、それくらいのことをしなければ、真に「世界を変える」ことが人々にとって普通になるような世界にはならない。
世界を変えるとは「制度とインフラ」を変えることであり、それを自由な組織やプロジェクトが行うこと、そして国民が自由かつオープンに参加できるようにすることが必要である。
教育を変えることは重要である。
教育は、誰しもが人生で最初に経験する知識を得る、という意味で、もっとも重要な「知性を与える機関」だ。
大人になっても何も分からない人間が多いのは、教育を受けた子供の時代に、学校で何も教わっていないからであり、その結果、自分で知性を使って考えるということができないからだ。
だからこそ、「正しく考える方法」を教えるということを学校での経験として教育で行わなければならない。
だが、「学校は特殊な環境である」ということを知っておくことがさらに重要だ。
子供たちが学校でどんなに酷い経験をしたとしても、それは絶望して自殺するほど酷い出来事ではない。
なぜなら、学校という環境はとても特殊な環境であり、本来のこの世界の環境では、そのようなことは「完全にどうでもいいこと」であるということが分かっていれば、大したことはないのだということを信じられるからだ。
だからこそ、学校で絶望する必要はない。いじめはどうでもいい経験にすぎない。学校のすべてを忘れて逃げたとしても、それは「人生を捨てた」ということには当たらない。あなたは自ら勇気のある決断をしたのであり、その勇気を褒めたたえるべきだ。人生の大切な何かを失っても賢い人生は生きられる。イエス・キリストは正しいことしか教えていない。
経験せよ。
真の意味で、自分の望む通りのことができたという経験をせよ。
あるいは、自らの望んだことを、本当に行わなければならないと信じ、自らの選んだ選択を最後まで追い求め続けよ。
真の意味で救われるようなものに出会え。
真の意味で達観し、この世界すべてを別人のことのように思えるような経験をし、そしてこの世界すべてを当事者である自分自身のことであるように思える経験をせよ。
すべての人間を愛するとは、「自由にした上で正しく考え経験する方法を教えること」であると知れ。
歴史を作り出すのは、わたしたち人類であり、かつての過去の歴史も確かにあり、その歴史はわたしたち人類全員が作り上げてきたものであるということを信じ、同時に、それはすべてが正しいものではなく、わたしたちの行動によってはまったく別のものになった可能性があり、それが未来であれば、わたしたちの手によって別のものに変えることもできるということを信じよ。
あらゆるすべてが救われるということは可能であるということを、自らがすべて救われた体験をすることで、実体験的に証明せよ。
「わたしは人生の意味がすべて分かった」ということは、すなわち、「誰であってもわたしと同じように人生の意味をすべて分かることができる」ということを意味しているということを確信し、「わたしはこの世界の全員を救うことができる」ということに、歴史と人類を救う「確かな希望」があると信じ、その希望の意味するところの通りに生きよ。
そして、その希望とは、「すべての人間は、もっともレベルの高い頂点の境地から考えれば、全員がどうでもいいことに悩んでいる」ということを信じ、「真にゴールまで到達した『マスター』であれば、どんな人間の心も救うことができるのだ」ということを確信せよ。
そして、この世界には確かな「神」が存在し、神の導きに向かって歩むことこそが「真に正しい人生」だということに気付け。
そう、経験せよ。資本主義社会のことをすべて経験すれば、まるでカール・マルクスの再来のようにすべてが分かる。だが、それだけで自由な革命を決して起こしてはならない。もし、自由な革命を起こしてしまえば、そこまでにあった大切な知性はすべて消え去り、永遠の出口のない迷宮の中をさまよい続ける、人間ではない「妖怪とサタンの道」を歩むことになるだろう。
このように書くと、まるで神様や仏様のような、賢くて偉大で非凡な人生を生きたかのように思われるだろう。
だが、実際は、この人生は哀れなチェニータの人生だ。
チェニータが賢かったのは、14歳から18歳になるまでの4年間だけであり、チェニータはすぐに狂って日本に革命を起こし、そのまま日本を身勝手に支配し続けて、日本ひいてはアメリカや全世界まですべてを巻き込んで、「地球を滅ぼす大戦争」を行った。
このような哀れなチェニータの人生を、これ以上、誰ひとりとしてチェニータと同じように生きるべきではない。
だから、僕はこのようなチェニータの人生を、このホームページに「封印」する。
このホームページに、願わくば永遠にチェニータの人生は封印され、「ここにある間ほかの誰もチェニータと同じ人生を生きることはできない」というまじないをかける。
このまじないはまさに「呪い」であり、このチェニータの人生はすべてが「呪われた人生」である。
呪われた人生であるチェニータを、これ以上ひとりとして増やしてはならない。チェニータを生きた人間は、地上のものとは思えないような最悪の地獄に堕ち、人間であるとは思えないような非道な行いをする。チェニータはまさに「外道」であり、「この宇宙でもっとも行ってはいけない遊び」なのである。
そもそも、僕の作る、北欧神話のアースガルズの神々は、偉大な人生を生きているように見えて、実際はそれはどれも同じ人生のことを指している。
そう、アースガルズの神々は、チェニータの人生を共有しているのである。
フレイも、ロキも、オーディンも、トールも、そしてフレイヤも、すべての北欧神話の神々が、悪魔チェニータの人生を共有している。
そして、僕自身も例外ではなく、アッシーという「地球を表す神」もまた、チェニータの人生を共有している。
チェニータとは、宇宙における「突然変異種」のようなもので、人間は絶対にこうならないはずなのに、なぜかチェニータだけはこうなってしまう。14歳から18歳ちょうどの間に、チェニータだけは「宇宙のすべてを完全に悟りきってマスターした」かのような青春時代を生きる。
このチェニータの人生は、宇宙においてとても希少かつレアであるため、北欧神話の神々は、チェニータをそれぞれの神の個性にアレンジしたかのような人生を生きている。
そう、北欧神話の神々がどの神も全知全能なのは、すべて、悪魔チェニータが「突然変異の人生」を生きた結果である。
そして、それらのためのものがたりを生み出したのが、核兵器の落ちた広島で生まれた詩人アッシー四世であり、すなわち僕自身なのである。そう、僕は一等星シリウスからやってきた宇宙人としてではなく、地球人としてもあり得ない「進化」を経験したのである。