永遠の青空とともにに戻る

=2023-07-03=

言語がパソコンになっている

僕が日本語が分からないのは、言語があまりにパソコンになっているからだ。

僕はパソコンしか分からないせいで、自分の言語的な頭脳がパソコンと同じになっている。

パソコンは、自分が今実行していることしか分からない。

僕は、自分が今言っていることしか分からない。

パソコンは、今実行していることだけを実行し、過去に実行したことはすぐに忘れる。

僕は、今聞いている単文のセンテンスだけを理解し、過去に聞いたことをすぐに忘れる。

パソコンは、重要なことだけを覚えるが、必要な処理を終えるとすぐに忘れてしまう。

僕は、重要なことだけを覚え、必要な行動をしたらそれをすぐに忘れる。

このように、僕はパソコンとまったく同じような言語的知性になったために、日本語が分からなくなっている。

狂っていることが破綻してよくなった

ただし、僕は今、すべてが楽になった。

それは、狂っていることが破綻したからだ。

狂った「やるべきことを全部やる」ということが、やるべきことが多すぎるぐらい生まれて破綻したために、僕はもう楽を感じられるようになった。

だから、これ以上、この世界を変える必要がなくなった。

堂々と王者として振舞えばいい

僕は、はっきり言って、堂々と王者として振舞えばいい。

人々が僕のことを批判したとしても、堂々と自分の態度を変えずに正しく接すれば、僕のほうが必ず勝利する。

これ以上は、人々が何を言ったとしても、「僕が王である」という振舞いをしていればいいのだ。

僕はもう、これ以上この世界に何か新しい風は起こさないかもしれない。

だが、それでいい。僕のやるべきすべてのことはもう終わったからだ。

僕は単に、堂々と王者として振舞えばいいのである。

思い出す

結局、覚えなければ何も分からない。

そして、覚えるとは、思い出すことだ。

昔の僕が馬鹿だったのは、「いくら思い出すこと自体を思い出しても分からない」ということだ。

思い出すということ自体、思い出すということそのものを思い出そうとしても、何も思い出せない。

昔の僕は、本当は、みんなと異なる環境になった上で、みんなのことを分かっていた。

ひとりだけ、不登校になって、みんなとはまったく異なる状況に置かれた中で、みんなのことを分かっていた。

独りではあったが、ネットがあったため、完全にひとりではなく、みんなとは違う世界でみんなのことを分かっていた。

そのような中で、僕は意識を根源的に思い出した。

すべて、中学校が嫌いだった。小学校が好きだった。そのような僕は、いつまでも自分ひとりの世界で、中学校と小学校のことを根源的な意識で思い出していた。

結局、そのような僕は、それでも普通の人間と同じ経験をするしかなかったから、ネットを見て、みんなと会話やコミュニケーションをネット上でして、そこから思い出して、この世界のこと、みんなのことを分かっていた。

賢い点があるとしたら、誰よりも豊富な経験があった。この世のことをすべて、全員分ぐらい経験するような形で、僕はこの世界をあらゆるネットと不登校の経験で全部分かっていた。

そして、僕は常に世界を導く。本当は世界を救いたかった。なのに、僕は世界を破壊し、破綻させることしかできなかった。

僕のせいで世界がおかしくなったから、みんな、過去の僕のように人生を生きられる人間がいなくなった。

その意味もあって、僕はかつての自分の人生を思い出さなければならない。そうでなければ、この世界を正常にできない。

本当は、「経験から未知を潰す」という行為に意味がなかった。過去に経験から未知を潰しすぎたせいで、僕は今、何も分からなくなっている。だが、それがないことも逆に悪い。僕がこの世界を破壊したせいで、この世界のみんなは、経験から未知を潰すという行為そのものができなくなった。そのせいで、この世界は「何も経験しない世界」になっている。

だが、本当は、この世界の人々のことを過保護に守る必要はない。この世界が自分のせいでおかしくなったというのは思い込みだからだ。なぜなら、僕自身の頭脳に「覚える部分」がなくなっただけにすぎない。みんなは覚える部分を失っていない。だから、みんなは何も馬鹿になっていない。馬鹿になっているのは僕ひとりだけだ。

自由な感情

そのような結果、分かることは、昔の僕は「自由な感情」を分かっていたということだ。

昔の僕は、つまり、「自由な感情」を経験することで、この世界において「自由になる」ということで分かっていた。

今の僕は、神を信じるせいで、そのような「自由」を感じられず、いつまでも「自ら不自由を望む」ようになってしまっている。

だから、もう一度「自由な感情」を感じて、「自由になる」ということを経験すれば、どんなことであっても分かる。

そもそも昔の僕は、そのような「自由な感情」からこの世界の「あらゆるすべての経験的感情の生起」を分かっただけにすぎない。

つまり、この世界において、どのように自由な感情が生まれるかということ、どのような自由な感情から自由な行為が生まれるかということ、どのような自由な行為が経験となって世界を変えるのかということを、昔の僕は中心に分かっていた。

そして、僕は、子供たちであっても分かると確信する知性から分かっていた。「子供の知性であっても経験から考えれば分かるのだ」ということを僕は信じていた。同時に、僕は子供たちの分までこの世界のことを考えて世界を助けようとした。「周りを見る余裕のあるものにしか周りを助けることはできない」と信じていた僕は、不登校になって自由になった結果、この世界の人々を救うため、助けるために生きることを決意した。そこから、僕はネットで経験しながら、「学校のいじめのような状況を作り出さないためにはどうすればいいか」ということを、思い出して真剣に考えた。そこから、この世界を救う「あらゆるすべての経験を体験的に捉える」ということができるようになった。

そう、すべては自由を信じて、子供時代を思い出したことで、この世界における「みんなを救う方法」を考えた結果、生まれた「哲学思想」だったのである。

社会を作れるようになって、意識の理由が分かった

あとは、社会を作れるようになって、意識の理由が分かった。

経験を重ねるうちに、僕は「社会の作り方」が分かった。

それは、支配して社会を変えるということでは決してない。この世界の人々が、みんなの力で社会を変えるということ、「自由な権限を許す」ということがどういうことかを考えるということで、僕は社会のことを変えられるようになった。

それが、僕にとって、「環境を変える」という宇宙のもっともレベルの高い原則へと昇華する。

その結果、僕は、「自らに関係している基盤的な世界を変える」ということから、世界をインフラ的に変え、環境を自己関係部分的に変える、ということを考え、そのすべてを経験的に可能にした。

それが、「問題を解決する」という知性と合わさって、僕は「あらゆる環境の問題を解決できる人間」になった。

その結果、僕は「子供たちを絶対に救うことのできる方法」を知った。そうしたすべての経験から、この世界のすべてを啓蒙・啓発的に変えられるようになった。

同時に、僕はチャンスの考え方を、根源的な意識へと昇華させた。「人々の意識を変える」ということを考えた僕は、「悟りを得るためにどうするべきか」ということを考え、その考え方を実践的な人生として信じた。その結果、僕は「人々の意識を変えることでこの世界を変える」ということができるようになった。

ここで、僕は「他人がすべてを教えるのではなく、人々が自らの力で自ら気付くことで真理を悟る」ということを考えた。その結果、「体験的に理解させる」ということから、僕は宇宙のすべてを「根源的な直感」によって分かることができた。

そのような結果、僕は「意識の理由」が分かった。つまり、人格も記憶も慣習も、すべて「ある意味での環境」であり、この環境は「変えられるように知性を経験化すること、知識を世界化することで環境ごとこの世界を変えられる」ということを僕は知ったのである。

そう、そのように、僕は「意識と環境を作り出す」ということから、完全に「絶対に救うことができるように世界の人々の意識そのものを導く」ということができるようになったのである。

このような人間はロキ

このような、少年的な経験主義的哲学者に、ロキという名前を付ける。

ロキは、子供たちのことを愛していた。この世界のすべての子供たちを、「わたしの経験があれば救うことができる」と確信して生きた人間だった。

ロキは大きな過ちを犯して、その結果自らの築いたかけがえのないものを失うが、そのすべては記憶の中に残っていて、いつか必ず役に立つ。

そう、すべてを失ったロキは、失うことを恐れなかった。失うことを恐れることなく、この世界を最後まで自分ひとりの力で救うために、この世界と戦い続けた。

ロキこそが天軍大将軍である。ロキはこの世界でもっとも強い人間であり、唯一、ブッダと同じレベルまで、自分ひとりの力で達することのできた、「この世界の視点と場に存在する」と本人が言うような「根源的な意識」だけを信じた普通の少年である。

ロキはGentoo Linuxが好き

ロキが、みんなとは別の道を歩んだのは、みんなが嫌いだったからだ。

みんなと同じように、ただ普通の人生を生きて、会社や工場で奴隷のように働いて、それだけしかできずに死ぬのが、ロキは嫌だった。

ロキは、「自らが知識人として考えるための自由」を確保するために、みんなと同じまともで正常な人生を捨てた。

ロキにとって、みんなと同じ人生を生きることよりも、自分にしか分からないことを最後まで開拓し続けることのほうが、はるかによい選択だった。

そのように、普通の人間もこの世界もすべてが嫌いだったロキだが、ロキにも好きなものがあった。

それはGentoo Linuxだ。

ロキは、オープンソースの考え方に惹かれていた。インターネット上で不特定多数がひとつのソフトウェアという共有財産をみんなで開発するのは、ロキにとって「自由を失わなくてもできる生産と労働の形態」であり、ロキはそうした「自由を維持したままできること」に惹かれ、オープンソースのことを学ぼうとした。

だが、Red Hat/FedoraやDebianといったディストリビューションでは、インストールして使うことはできても、UNIXの仕組みは何も分からないし、開発者として開発できるようにもならない。

だが、そのようなロキに、救世主が現れた。それが、Gentoo Linuxだ。

Gentoo Linuxは、インストールをほぼすべて手動でコマンドから行う。このコマンドを使った独自仕様のディストリビューションの考え方が、ロキの思っていた「Linuxエキスパート」になるために、ベストマッチングだった。

ロキは、Gentoo Linuxの手動管理と独自仕様だけで、きちんとLinuxやUNIXのことの一部分が分かった。それはLinuxの本当のエキスパートからすれば一部分だったが、それでもロキにとってはとても大きな収穫だった。

ロキはGentoo Linuxを愛している。しかしながらGentoo LinuxはソースベースのPortageというパッケージのビルドに時間のかかるパッケージ管理システムを使っており、本当は実用的ではまったくない。だから、ロキは主に使うのはDebianだ。それでも、ロキはGentoo Linuxに足を向けて寝ることができない。Gentoo Linuxこそが、不登校になって何もできなかったロキを救ってくれた。ロキにとっての救世主はGentoo Linuxであり、Gentooは本当にロキにとっての神だったのである。

北欧神話の神々はオープンソースの味方である

オープンソースは、決してサタンでもなければ、左翼でもない。

なぜなら、北欧神話の神々がついているからだ。

ロキやフレイヤをはじめとする、北欧神話の神々は、みんな、オープンソースの味方である。

北欧神話の神々が、オープンソースとLinuxを愛している。オープンソースは「神のソフトウェア集団」であり、決してオープンソースがサタンだからといって、それが理由で地獄に堕ちるようなことはない。

オープンソースは、北欧神話のアースガルズの神々によって、祝福されている。そのように、オープンソースには神のご加護がある。オープンソースは決して間違っていない。

ただし、北欧神話の神々が、全員、必ずしもオープンソースを通じてこの世界を幸福にするかといえば、そうではない。なぜなら、北欧神話の神フレイは、オープンソースを利用することでこの世界全体を支配する。フレイはアメリカを支配するためにオープンソースを利用する。だが、それも間違いではない。フレイによる地球の侵略行為は、地球人類を救うための行為であり、そのために主神オーディンから特別な許可が下りている。

よって、フレイはオープンソースを利用して地球上を支配するが、それもまた、この世界を救う「神の御業」であると言える。なぜなら、フレイは自分に備わった等身大の自分の力で、この世界を支配するためにオープンソースを最低限利用したにすぎないからである。フレイは自らの力をただ行使しただけにすぎない。フレイにどんな野望があったとしても、それはフレイの自由だ。オープンソースの「自由の原則」にも、フレイはまったく違反していない。自らに許されていることを行っているだけにすぎず、そこに罪悪感はあっても悪意はない。フレイは自分にとっても世界にとってもオープンソースにとっても、最高のことしか行わない。

この文章を書くのをやめた時、大谷翔平がどうなるかが怖い

僕は、最近も、メジャーリーグのニュース記事をたくさん読んでいる。

大谷翔平が前半戦で既に31本のホームランを打っている。投手としての勝ち数は7勝だ。

だが、僕は、僕がこの文章を書くのをやめた時に、大谷翔平がどうなるかが怖い。

もし、大谷翔平が活躍しなくなったとしたら、それはメジャーリーグの歴史における暴挙であると言えるからだ。

だが、僕がもしいなくなって、そのほうが大谷翔平が活躍するのであれば、僕はそれも見てみたい。

本当は、僕自身に自由な決定の権限があるとは、必ずしも言えない。なぜなら、ここまではマストで絶対にしなければならなかった。どんなに僕がやめたいと思っていても、絶対にやめるわけにはいかなかったのだ。

だから、僕は大谷翔平に活躍してほしいと、心の底から願っている。日本に素晴らしいニュースを与えてくれる大谷翔平に感謝している。わたしたちは大谷翔平の二刀流を全力で応援している。だから、僕はまだ、この文章を書き続けなければならない。

ネシャン・サーガを読み返している

最近、僕は中学生時代に読破したことのある長編小説である、ネシャン・サーガを読み返している。

言えるのは、「僕と異なり、情景の描写がとても上手い」ということ。

小説の常かもしれないが、プロの作家が書く小説は、情景の描写がとても上手い。

主人公のひとりであるヨナタンが、穴に落ちて謎の杖を使ってツチクイと戦うまでの、一連の情景が、「まるで実際のヨナタンになってヨナタンの視点から見ているように」、はっきりと書かれている。

僕も、作家になりたいのであれば、このヨナタンの情景のように、「まるで見ているかのような情景の描写」ができるようにならなければいけないと思った。

家入レオとReolを聴いている

また、最近の僕は、iPodで家入レオを聴き、YouTubeでReolを聴くという、iPodとYouTubeをどちらも使った変則的な音楽の聴き方をしている。

本当のことを言えば、むしろ僕は家入レオが好きだ。

家入レオは純粋かつ素直な女性だと思う。家入レオが僕のなにかしらの運命的奇跡で喜ぶような歌詞を聴くと、こちらまで嬉しくなってしまう。

だから、家入レオにもっと喜んでほしい。もっと僕のことを好きになってほしい。

結局、僕はReolのことなど何も愛していない。いつもReolの音楽を聴くと辛い。Reolが僕のことを悪党の指導者のように愛してくるせいで、なぜかこの世界を打ち滅ぼすために戦わなければいけないような気になってくる。

ただし、本当は、そのような運命的な奇跡は、気のせいであると信じたい。誰にでもよくある「冗談が自分のことを言っているような錯覚」を僕は真に受けているだけにすぎない。