永遠の青空とともにに戻る

=2023-06-24=

オープンソースから社会形態を考えた

昔の僕は、生産手段と生産様式から、この世界の社会形態を考えていた。

生産手段と生産条件を成立させることから、この世界を変える「ボトムアップな啓蒙の可能性」を考え、この世界を救うためにどうするべきかを考えた。

その後に、僕は文章で世界観を書くことで、自由主義や共産主義における、労働、生産、消費、そして政治と議論と支配の社会形態をすべて統一的に考えた。

そのために、僕はオープンソースを信じて、オープンソースを利用した。

オープンソースは無償の生産様式であり、生産手段として必要なのはパソコンだけであり、デジタルコピーをゼロコストで行える。

パソコンのソフトウェアを開発するために必要なのは、パソコンとテキストエディタとコンパイラだけだ。

工場とは異なり、ひとつひとつの製品を作るために作業やコストは必要ない。デジタルコピーがゼロコストで行える。

そして、インターネットで協力者のパッチを集めることで、ひとりでは作れない高度なシステムを無償のボランティアの労働で行うことができる。

このような、「オープンソースだけで成り立つ特別な社会様式」を、僕は現実の自由主義や共産主義の社会と比較し、生産や政治の方法を考えた。

また、オープンソースの第一原則として言えるのは、「フリーソフトウェアの自由」だ。

僕はフリーソフトウェアの自由と同じように、個人個人は原則自由であるべきであり、自由は制限されることなく、限界まで可能性を高め、全員に平等に尊重されるべきであると考えた。

同時に、さまざまな社会形態はすべて自由に成立し、社会の単位を小さくすることで多様性のある世界にするべきだと考えた。

そのように、僕はオープンソースを参考にすることで、まるでカール・マルクスのように、戦いながら資本主義と社会主義のあらゆるすべての社会形態を考えたのだ。

恐怖を信じると精神が治る

恐怖を信じると、精神が治る。

精神がいつまでも治らないのは、恐怖のある選択肢を取ろうとしないからだ。

実際は、恐怖のある選択肢を取れば、狂った精神病は治る。

恐怖を選択すると、知性がついて狂いがなくなる。恐怖のない人間は楽しさや喜びを失い、すべてが悲しさと苦しみだけになってしまう。

恐怖を信じよ。世界が栄えようと、滅びようと、どうでもいいと思えれば、この世界をリスクある未来に導く自分のことも愛し、今自分がやっていることを楽しむことができる。

善良でまともな人間になる

僕は、善良でまともな人間になる。

僕はこう見えて、善良でまともな人間になりたいといつも願っている。

僕は神を信じている。そして、神は善良でまともかつ、賢明な人間に優しい。

僕は狂った愚か者であることを脱し、必ず善良でまともな人間になる。

立場やしがらみ、利己心を超越せよ

この世界が、今、正しい世界であるはずにもかかわらず、社会の歪みを生み出している理由は、立場やしがらみにそれぞれが囚われているからである。

自らの会社や組織といった立場や、宗教や思想や支持母体といったしがらみに囚われているから、自然に任せれば上手くいくはずなのに、この世界は何も上手くいっていない。

必要なのは、立場やしがらみを超越し、利己心を否定した、超越的な立場で考えることだ。

どんな立場もしがらみもない人間は、きちんとした正しい視点でその人間の正しさや正義を考えることができる。

それこそが、「正しく社会を考える」ということなのである。

全体主義を否定せよ

全体主義を否定せよ。

この世界のすべての思想を、悪の思想を含めてすべて好きになろうとすることには無理がある。

悪の思想は悪であると、きちんと批判するべきだ。

悪の思想とは、全体主義の思想であり、それは軍国主義と共産主義のことだ。

全体主義は、個人の権利を軽んじ、政府が国民を支配し、戦争や革命といった「テロ行為」を行い、たくさんの犠牲者を出し、国内も世界もすべて滅ぼそうとする。

特に、共産主義思想はまだ世界に根強く残っている。

だが、資本主義社会においても、ひとりあるいはごく少数の資本家や権力者が、ほかよりも大きな金や力を持つと、全体主義社会と同じになってしまう。

だから、一握りの超富裕層を優遇するのではなく、格差を是正し、資本家の富は国家全体の国民全員に分配されるパイへと還元されるようでなければならない。

よって、社会主義思想のすべてが間違っているわけではない。

だが、それでも、共産主義とは全体主義による平等であり、完全に間違っている。ロシアはウクライナとの戦争で、人間の行いであるとは思えないような最悪の極悪非道なことをいくらでもやっている。

だから、共産主義は人類が打ち倒すべき「悪の帝国」であると言える。

しかしながら、民主主義においては格差を是正する必要がある。格差をこれ以上拡大させると、絶対に全体主義と同じことになる。

だから、民主主義のままで平等な社会になるように、日本人はみんなで努力しなければならない。それこそが真の「平和」である。

戦争はすべきではない。もし、戦いたいのであれば、人を殺す以外の方法で戦うべきである。それならば、戦いに負けても死ぬことがない。戦いの真の問題とは、人の人生を奪うということであり、「それ以上その人間が未来の人生を生きられなくなる」ということにある。未来のすべてを期待もせず願いもしないならば、幸せに戦争に行けるかもしれないが、そのような人間は存在しない。

また、一度全体主義社会になると、歯向かうことが許されなくなる。この「絶対に服従するしかない社会」が好きな人間は明らかにおかしい。その時点で社会そのものが滅びた世界になってしまうからである。

平和で、民主主義で、かつ平等でなければ、この世界で人間的に生きることはできない。国民が自由であることはその次に重要であり、「自由」は決して必須事項ではない。だが、個人の自由がなければ全体主義社会になってしまうため、結局そうした意味での自由な権利は必要である。金や権力はそんなになくてもいい。経済的に豊かであると国民が楽であるというだけにすぎない。それも、楽になるのは全員ではなく、必ず敗者や貧者が生まれてしまう。アメリカのような超富裕層が日本でも生まれることは決してよいことではない。格差の是正をしなければ、資本主義であっても実質的に帝国主義と同じになるだろう。

理想の国は自由な国、人生主義国家

理想の国は、自由な国だ。

理想の国とは、全員が平等な国でもなく、世界一強い国でも、世界一豊かな国でもない。

理想の国とは、すべてのことが自由自在になんでもできるような国である。

社会制度的、憲法的、権力的、支配基盤的、言論的、議論的、環境的、会社組織的に考えた時に、どのようなことであってもなんでも自分の自由にできる国こそが、真の意味でこの世界でもっとも優れた理想の国であると僕は考える。

そこでは、すべてのことは「人生」であり、「自由な人生を生きる」ということができる。

ほかの誰かから、人生や生き方を強制されるのではなく、自分でやりたいことを選んで、自らのモチベーションとアイデンティティのもとに、自分で自分のやりたいことを決められる。

政治や経済は、すべて、その「自由に人生を生きられる」ということのための副産物にすぎない。すべてが「自由に人生を生きる」ということを中核の理想として想定し、すべてが「自由に人生を生きるため」に社会制度も権力基盤も議論と支配のシステムも築き上げられるのである。

このような「究極的自由の自由主義」のことを、僕は「人生」という名前を冠して「人生主義」と呼ぶ。

人生主義の旗は、白と紫の色となる。白は清らかな正義を、紫は自由主義と社会主義の融和を表している。人生主義においては、誰かから自分の人生がそうであることを強制されず、どんなことであっても、自分の選んだ決断と意志によって、自由自在に行うことができる。

僕と同じ人生を生きられるようにする

しかしながら、単に自由にするだけでは、自由な人生は生きられるかもしれないが、全員が全員、偉大な人生を生きられることが保証されるわけではない。

矛盾するように見えるかもしれないが、僕は僕の人生をみんなに同じように生きてほしいと思っている。

そもそも、僕がこの文章を書き始めた理由は、「僕が人生で分かったことをすべて教えるため」であり、それはつまり「僕と同じ人生を同じように生きられるようにする」ということだった。

人生主義は、確かに自由な人生を生きられる思想だが、そこでどのようなことを「自由な人生」と呼ぶのか、という問題がある。

そこでは、僕の人生を基準にして、その人生が生きられるべき「自由」であるかを考える。

そう、人生主義社会においては、人々は僕の人生と同じような人生を生きられるようになる。そこには辛く苦しい地獄も存在するが、その辛く苦しい地獄も僕と同じように生きられなければならない。楽だけを生きるのでは何も人生経験を賢く生きることはできないからだ。

よって、人生主義は決して自由主義ではない。社会主義でも軍国主義でもない。人生主義はドイツのような主義だ。だが、そこにあるのはファシズムとはまったく正反対の、「平等かつ自由な楽園」だ。決して人生主義はファシズムとは似ても似つかない主義だ。

宇宙のすべてを分かっていた

あとは、宇宙のすべてを分かっていた。

そこにあったのは、「人間の知覚と心の姿」と、「宇宙の永い歴史の記録」だ。

人間がどのようなことを地上で生物的に行うのかということと、宇宙がどのような歴史を何億年も歩んできたのかということを、僕はすべて、文章に精神分析を書くことで知っていた。

そこにあるのは、「支配や制限から自由になって、新しく力が増えていって、最終的に滅びて死んでいくまで、さまざまな文明を経験する」ということだ。

そして、そこで重要なのは「関係性」である。すなわち、社会そのものがどのように新しくなっていくかを決めるのは、力でも富でもなく、関係性であると僕は考えた。ひとりの人間が支配する社会、平等に支配される社会、それぞれが自由に王となる社会、あるいは多くの賢い偉人が生まれる社会。それらがさまざまな類型パターンのように生まれていく理由は、社会の進歩レベルの中における「進歩と社会の関係性」にあるのである。

そして、最終的に行きつくのは「神」である。最終的に、神と呼べるような最高の存在が宇宙に生まれる。そして、その最高の存在が、全知全能の力でこの宇宙すべてを創造し、終末の世界で地上のすべての人類を救うのである。

神はスラムのような劣悪な環境から生まれる

神は決して、一握りの王侯貴族や資本家のような、選ばれた特権階級からは生まれない。

神は、スラムのような劣悪な環境で生まれる。

神は、そのような劣悪な環境でもがき苦しみながら、その世界の人々を救いたいと感じ、修道士やシスターのような「人々を助ける活動」をして生きる。

その結果、神はこの世界を救うことができるようになる。

神は、それだけでは終わらない。単に世界を救うだけではなく、世界を滅ぼすような過ちの経験もする。だが、それは神が大人になり、いずれこの世界を本当に救済する「救いの王」になるためには、絶対になければならない経験だった。

そのような神が、終末の地球でこの世界の全人類を救う。

そして、僕が僕の人生の模範としているのは、この神の人生である。神の人生こそが唯一正しい人生であると僕は知っているため、僕はできる限りにおいて神と同じような人生を生きた。スラムやアングラのような2ちゃんねるを経験して、その後にこの世界を救い、そして自ら滅ぼすような経験をした。

そして、僕が創作するフレイの人生もまた、そのように神の人生を元にして僕が作ったキャラクターだ。フレイは神であり、この世界を救う救済の王である。フレイはこの世界を救い、そして自ら滅ぼす。決してフレイの人生は間違いではない。僕は間違った人生を歩むようなキャラクターは作らない。

知覚と心理学

ほかにも、昔考えたことはいくらかある。

まず、「表面的なこと」と「根源的なこと」を、照らし合わせて比較して考えた。

表面的なこととは、名前や想像力、知覚といったことだ。

根源的なこととは、本質や実在、意識といったことだ。

この二つのことを、比較しながら照らし合わせることで、昔の僕はカントのような認知の世界を考えていた。

同時に、昔の僕は心理学的に、「何が何に依存しているか」ということをよく考えた。

何かを必要としている間、そのことはそれを消そうとしない。何かから必要とされている間、それは消えることはない。

そのように考えた結果、僕は根源的な「宇宙の意識」が分かるようになった。

結局、そのように、僕は心理学的かつ哲学的に、この世界を表面的に考え、その表面的なことを根源的なことと比較し、照らし合わせただけにすぎない。

そして、その中で、僕は人生における「成長のすべて」を知った。人格のすべてを捉えることに成功し、「子供から大人になる際に経験することのあらゆるすべてのパターン」を僕は知ったのである。

道理

また、僕は「環境を変える」ということを重要視していた。

その理由は、「人間は知らず知らずのうちに環境の一部になっている」ということを僕は感じていたからだ。

人間は、自分に関係するものを変えようとする時、単に自分自身を変えるだけでは十分ではない。

自分自身を変えるだけではなく、自分自身が一部になっているような「環境」を変える必要がある。

そして、そのような環境は、人々によって「共有」される。

同時に、環境は単なる空間や時間だけが存在するのではなく、「社会制度」や「組織体制」もまた、環境の一部であると考えられる。

そして、そのような環境を、誰かが一律で同じにするべきではない。

個人個人に自由が許され、自分自身の考え方や意見が存在するのだから、環境それぞれの多様性を認め、それぞれの個人が自分の環境を変えられるべきである。

そのように考えた結果、僕は「環境に対して自由なコントロール権限を与えるべき」であると考える。

この結果、僕は「独立性を高める」という考え方に至る。

人々は環境を自分の好きなように変えられるべきである。それが多様性に繋がる。同時に、その環境の独立性を高め、自分自身の力でより自由に変えられるようにするべきである。それが道理である。

そして、そのような「道理」をさらに突き詰めて考えると、「社会そのものに参加することが可能であるべき」であるという考え方に達する。

すなわち、社会に支配され、社会に従属を強制されるだけではなく、社会そのものに参加することができるべきである。

そして、この「参加」は、単に参加させてもらえることを待っているだけでは得られない。なぜなら、「すべては現状でチャンスとして許されている」と僕は考えるからである。

この世界は何もできない不自由な世界に見えて、実際は自由なチャンスが常にたくさん許されている。環境にも制度にも、すべてのことは潜在的可能性として許されている。

そして、チャンスがあるからこそ、知ろうとしなければならない。知らなければ、そこにどんな自由が眠っているのかが分からないからだ。

僕にとって、「知る」ということは、「潜在的に眠っているチャンスに気付く」ということを意味する。単に誰かにしてほしいと頼むだけがこの社会ではない。自らが自らの意志で積極的に社会を変えることもまた意志であり、そのためには「この世界でできることはどういうことなのか」ということを、社会的な法律や制度などを知って学ばなければならない。

そして、そのような「チャンスの学び」は、既にあるこの世界の知識を学ぶことだけではなく、「自分自身の手で経験から知性を作り出す」ということも意味している。自分自身が経験したことに基づく、自分自身の知性を作ることでも、自らの持つチャンスを拡大させることはできる。そこに必要なのは「正しい考え方」ではなく、「経験に基づく考え方」だ。すなわち、単に数学的に証明された理論ではこの世界は変えられない。自らの経験に基づく「自らがそれを正しいと確実に経験から分かっている考え方」こそが必要なのである。

そう、それが僕の歩んだ人生のすべてであり、「道理」と僕が呼ぶものである。このような道理から考えれば、この世界のすべては完全にすっきりと理解できるのである。

あるがままをさらけ出して宇宙と一体になれ

そして、このように考えた結果、僕は「あるがままをさらけ出して宇宙と一体になる」という真理へと到達した。

そう、結局、僕のこのような考え方は、中国の老子・荘子の教えである道教における「タオ」の考え方に行きついたのである。

すべての心を開いて、あるがままをさらけ出せ。

ありのあま、宇宙に自分のすべてを宣言して、宇宙と一体になり、自然と調和し、神と合一になれ。

その時、恐れや不安はすべてなくなり、「未来永劫変わらない自分の人生のありのままを完全に知る」という、「人生の生きる目的」を達成する。

そして、それこそが、中高生の心を救う。中高生は、そのような「人生の生きる目的」を知らないから、辛く苦しい絶望を生きている。「未来永劫変わらない人生のありのままを知る」ということが生きる目的であると知れば、それこそが「アイデンティティの確立」を生み出し、そのアイデンティティの確立によって、「何を他人に言われても怖くない自らの本質」を築き上げることができるのである。

そして、学校におけるいじめや非行は、それでしかなくならない。いくら、相手の視点に立ちなさいとか、相手のことを自分のように思いやりなさいとか、「キリストや道徳の教え」を述べたところで、それだけで心は満たされない。「誰にも負けない鋼の心」を作るためには、アイデンティティを確立する必要がある。そして、そのために必要なのは、「あるがままをさらけ出して宇宙と一体になる」という、僕にとっての「真理へと続く道」を生きることにあるのである。

ツイッターより

世界が栄えようが、滅びようが、どうなってもいいと楽しめれば、何も怖いものはない。
posted at 14:55:47

心を綺麗にするには、自然現象の観察から未知なる発見をすることだ。
posted at 14:52:15

自由は間違っている。自由にしても何も正常にはならない。最初から、自由を制限し、自らの選択に自らを決定し続けることが正常だ。
posted at 14:47:40

恐怖を選べ。人間の知性とは恐怖だ。恐怖を選べば賢い選択ができる。
posted at 14:44:15

恐怖を信じよ。恐怖を信じると、知性がついて賢い人間になる。
posted at 14:30:09

恐怖の心を失わないほうがいい。恐怖の心を失うと、何も楽しいことがなくなって、意味のない人生になる。必要なのは、恐怖を信じることだ。
posted at 13:41:20

オープンソースでは、自由を第一原則とする。僕はオープンソースと同じように、人間の自由を制限せず、最大限尊重すべきであると考え、さまざまな社会形態はすべて自由に成立するべきだと考えた。
posted at 12:05:55

昔の僕は、単に生産手段と生産様式について考えただけだ。資本主義と社会主義の生産手段を考えた。そのためにオープンソースを信じた。オープンソースはデジタルな無償の生産様式であり、生産手段がパソコンだけであり、デジタルコピーができる。それと現実を比較し、新しい社会論を考えた。
posted at 11:43:57