永遠の青空とともにに戻る

=2023-06-04=

われの名はフレイヤ

われの名はフレイヤ。

わたしは、ファシストの王、フレイを否定する。

フレイの行った中で、もっとも間違っていることがひとつある。

それは、フレイがたったひとり世界の象徴となって、フレイだけがすべてを行える権限を持ったことだ。

フレイは、この世界において、すべてを、「フレイ対その他大勢」の構図にした。

何かしらの現象を起こせるのはフレイだけであり、それ以外のすべての国民は、フレイの行うことをそのまま、なすがままに受け入れるしかない世界になった。

すべてを起こせるのが、フレイだけになってしまい、わたしたちフレイ以外の国民には、なんの権限も存在価値もない世界になった。

そして、フレイは、この世界を「フレイとそれ以外の人々が戦うだけ」の世界にした。

すなわち、すべてがフレイとこの世界の戦いの構図になり、その事実上の変わらない関係性でフレイはこの世界を支配した。

フレイによる支配を脱却するために必要なのは、わたしたちが自由に関わり合うことだ。

わたしたちそれぞれが関わり合い、自由にさまざまなことをし、それぞれが支配したり平等にしたりするような「第三者同士が関わり合う世界」こそ、正常な自由な世界だ。

フレイのことを無視せよ。すべての行いをフレイのために行うのをやめよ。わたしたち、普通の人間たち同士が関わり合い、普通にさまざまなことを自由に起こせる世界であれ。

フレイヤのことを愛せ

わたし、フレイヤのことを愛せ。

わたしはこの世界をひとり、全員のことを恋人のように愛している。

わたしこそがこの世界において、もっとも全員のことを愛した女である。

さあ、わたしのことを楽しませよ。悦ばせよ。わたしのことを犯せ。わたしのことを妊娠させてみよ。

わたしはいくらでも子を作る。わたしは永遠に老化することなく、14歳の年齢のまま変わらず、なにかしらのアクシデントがない限り永遠に生き続けるのだ。

後日注記:周知の通り、僕は男です。男の僕を妊娠させてみなさい。男である僕を妊娠させることができたら、あなたの勝利です。

人生を何周も繰り返す

僕がみんなと違うのは、人生を何周も繰り返すということ。

もう、6回目ぐらいの人生を生きている。

はっきり言って、これ以上、僕がこの人生でやるべきことなど、もうない。

かつてのどこかですべてを分かっているため、今それが分かっていなくても関係ない。すべて、過去の時点で完璧に分かっている。

もう、現実の宇宙には何も存在しないため、僕は今から、精神世界に存在する、聖なる天使や精霊のような存在になる。

資本主義と物理が嫌い

僕は、資本主義と物理が嫌いだ。

なぜなら、資本主義と物理を信じていることが、僕以外のみんなが馬鹿になっている原因だからだ。

みんな、神はいないと思っている。宇宙には神のようなものは存在せず、奇跡のようなことは起きないと信じている。起きるのは物理だけであると信じている。

だが、この宇宙では物理法則の通りにしか現象が起きないと、誰が決めたのか。

物理法則を信じていることこそが、現代人を馬鹿にしている理由であり、この世界にあるもっとも大きく愚かな思い込みである。

実際は、物理法則しか起きないなどということは分からない。神の奇跡のようなことが起きる可能性はある。

科学的なことしか起きないとすることこそ、人類のもっとも愚かな勘違いである。

同時に、この世界の多くの人々は、資本主義と民主主義を信じている。

金を稼ぐことでしか、まともに生きることはできないと信じている。

確かに、きちんとした社会を作るためには、資本主義と民主主義を信じることは大切かもしれない。

だが、あまりに資本主義と物理を信じるあまりに、ほかの可能性を考えない人間が多すぎる。

資本主義はつまらないし、民主主義もつまらない。そう、どれだけそれらが正しいとしても、僕にとっては資本主義や民主主義の話はつまらないのである。

僕は資本主義と物理が大嫌いだ。よりよい世界はほかにあると僕は思う。

みんなより馬鹿になると賢くなる

みんなよりも賢くなるよりも、みんなよりも馬鹿になったほうがいい。

「みんなよりも賢い人間」であろうとすると、必ず狂った人間になる。

子供が賢いのは、子供は大人よりも馬鹿だから、逆に賢いのである。

みんなよりも賢くなるよりも、みんなよりも馬鹿になることを選べ。

そうすると、本当にそれが一番まともで賢い人間になる。

人間は、いつまでも子供のまま、馬鹿のままのほうが賢くなる。大人になって、みんなより賢くなると、何をする意味もない「何もしないだけの狂った人間」になる。

賢くなどなるな。馬鹿のままを選べ。そのほうが、はるかに知性ある正しい人間になる。

フレイヤはドS女

シリウスの世間一般においては、フレイヤは優しく可憐で賢い女であると知られている。

だが、それは仮の姿であり、実際のフレイヤは完全なドS女だ。

フレイヤは、奴隷のような男たちに鞭打ちながら言う。

「さあ、働け。わたしのために、奴隷のように奉仕せよ。

わたしは、奴隷を鞭打つということが、こんなにも楽しいことであるということを知っている。

お前たちはわたしのものだ。わたしがお前たちの主人だ。わたしのために奉仕せよ。

わたしこそ、シリウスの最高権力者、大統領フレイヤである。さあ、働け!」

フレイヤは平等な社会を目指している

このように書くと、フレイヤは奴隷をこき使うだけの身分社会を作っていると思われるかもしれない。

だが、フレイヤは、平等な社会を目指している。

シリウスには、長い間身分による階級社会があった。一番上に王がいて、その下に自由市民と貴族がいて、最下層に奴隷がいる。

だが、フレイヤは、このような身分による階級社会を、単一の「市民」だけの階級にすることを目指している。

そう、建前の上では、フレイヤはそのような、奴隷のない平等な社会を作ろうとしている。

だが、フレイヤの本性を蓋を開けて見てみると、そこには奴隷に鞭打ちながら強制労働をさせてこき使うような、まったく逆のフレイヤの姿がある。

フレイヤは奴隷が好きだ。シリウスにおいて、奴隷のように「市民」が働き、全員がフレイヤ自らのことを賛美し、無条件に愛するのを見て、フレイヤは悦びを感じてしまうのだ。

だから、フレイヤは決して市民を自由にしない。「平等な社会」と建前上謳いながら、実際はその市民たちを奴隷のようにこき使うことを好む。

地球でも、ソ連や共産圏が何百年も遅れた社会だったのと同じように、シリウスでも、社会主義圏であるフレイヤの勢力は何百年も遅れているのである。

フレイヤはガンダーラを作る

だが、シリウスはまったくの進歩のない遅れた社会ではない。

なぜなら、フレイヤはガンダーラと呼ばれる「最高のユートピア」を築くことのできる唯一の天才だからだ。

フレイヤの築くガンダーラという、地球のソ連よりもはるかに進んだ平等な勢力圏においては、人々は何不自由なく、楽に生きることができる。

フレイヤは奴隷をこき使うが、それとはまったく別の意味合いとして、フレイヤの作ったガンダーラという「国際政府」においては、人々はユートピアのような楽園を生きることができる。

だが、それでも、それは完全な解放された楽園ではない。もし、フレイヤに歯向かい、国家の転覆を狙おうと画策する人間がいれば、そうした人間は「あらぬ場所」に連れていかれる。そして、その「あらぬ場所」に連れていかれた犯罪者たちは、みんな奴隷のようにしか扱われない。基本的人権などというものはなく、「フレイヤの考える通りの人権」があるだけにすぎない。

結局、ガンダーラなどというものがいくら成功したところで、社会主義者の独裁者の本性は、地球においてもシリウスにおいても変わらないのである。

フレイヤは最後の希望

このような極悪非道のフレイヤを、人々はなぜ支持するのか。

それは、フレイヤは「最後の希望」だからだ。

かつて、シリウスにおいて、はじめて星の統一に成功した「フレイ」と呼ばれる指導者がいた。

フレイは、戦いによってシリウスのさまざまな分裂国家すべてを制圧し、シリウスを統一されたひとつの帝国にすることに成功した。

だが、フレイは、いわば完全なファシストだった。

人々を騙しながら、「既成事実化」によって誰も気付かないうちに政府の実権をたったひとりで掌握し、「すべてをフレイの決断に委ねる法律」を作ったフレイは、自らの敵を倒すだけではなく、人々から「平和な秩序ある社会」をすべて奪い、シリウスの国土の90%は荒廃してしまった。

そのようなシリウスの「過去の汚点」を、フレイヤだけが救うことができる。

フレイヤだけが、シリウスを本当の意味でのユートピアにしてくれる。かつてのフレイがやったのとは異なり、フレイヤは市民のことを騙すということをしない。フレイヤは一貫して平等を主張しており、「本当の意味での平等かつ平和な社会を築く」という正義と理想を抱えている。何ひとつ正しい正義のない、間違った正義を掲げるだけの、既成事実化のフレイとは、フレイヤはまったく180度異なるのである。

よって、人々は、そのような「かつての最悪のフレイ時代」のことを知っている。だから、「最後の希望」であるフレイヤのことを信じている。フレイヤだけがシリウスにとっての「最後の救世主」なのである。シリウスの人々は、みんなフレイヤのことを信じているのである。

トール、語る

このような、フレイとフレイヤは、正義や理想を信じているように見えて、何かが間違っている。

正義の神トールは、フレイとフレイヤの何が間違っているか分かる。

はっきり言って、大切なものを失った経験がないのが間違っている。

あるいは、大切なものを失った経験があったとしても、その大切なものに執着し、囚われ、いつまでも忘れることができていない。

フレイあるいはフレイヤといった、指導者だけの問題ではなく、シリウスの国民全員が、大切なものを失った経験がないか、あるいは大切なものを失ったことに囚われたまま、執着したままになっている。

フレイとフレイヤは、自らの掲げる「大切なもの」を実現するために、イデオロギーを使って国民を洗脳し、騙している。

だが、トールは言う。そのような「大切なもの」は、最初から大したものではない。

トールが見て、人々が信じている「大切なもの」が、本当に大切なものだったことなどほとんど見たことがない。人々は自分の人生経験から、過去にあった「大切なもの」をいつまでも失わないように維持し続けようとする。だが、トールが見て、「そのような大したことがないものをいつまでも大切なものであると掲げ続けるよりも、いっそ大切なものをそうした人々から取り上げ、奪ったほうがはるかにマシな人生を生きられる」と、そのようにトールは考える。

そう、大切なものなどに価値はない。大切なものを失った人間だけが、賢いことが分かる。

トールは、自らがそう呼ぶような「エゴの押し付け」によって本当に大切だった「自分の好きだった場所」を失った。だが、その失ったという体験は、後々になってみれば決して悲しいだけのことではなかった。大切なものを自ら失うことで、逆にトールは「善良な人間になろう」と反省し、その結果悪いことを何ひとつしない善人へとなれた。

そのように、「悪人が善人になることこそ真の成長である」と知っているトールにしてみれば、フレイもフレイヤも大差のない「愚か者」にすぎない。

どんなに指導者や大統領の地位についていても、フレイあるいはフレイヤはまったく賢くない。少なくとも、トールから見るとそれが明らかである。シリウスと呼ばれる星にはトールは愛想が尽きたため、トールはオーディンの大学に入学するという方法でシリウスから別の一等星であるベガへと移り住む決断をしたのである。

フレイヤは自由を信じている

このようなフレイヤだが、自由を一切信じていないわけではない。

逆である。フレイヤは、誰よりも自由な権利を信じている。

フレイヤにとって、自由とは、「今自分に存在する確かな権利」であり、同時に「生まれ持って存在する万人の権利」である。

フレイヤは言う。

「今、自分自身が自由である、ということから自由を信じよ。

自分の自由が奪われたくないのであれば、だからこそ、他人の自由を認めよ。

自らが自由であり、人々の自由を許すということは、自らの自由意志と他人の自由意志は同等のものであると認める、ということだ。

わたしが今、自由であるということ、わたしが今、自分自身が自由であると望んでいるということが、わたしがこの世界を自由にする理由であり、人々の『自由意志を尊重する』ということを行う理由である。

わたしは自由だ。わたしは自らが自由であることを望んでいる。だからこそ、わたしは他人の自由意志を尊重し、万人が自由の権利を認められるような『自由な社会』を築くのである。」

自分と世界を創造する

フレイヤの哲学の中核となる概念、それは「自分を創造する」ということ、そして「世界を創造する」ということだ。

これはすなわち、「自分はどこから来たのか」ということ、「世界はどこから来たのか」ということから、「自分を形作るものは何か」とか、「世界を変えるための可能性はどこにあるのか」ということを考えるということだ。

そして、そのためには、世界を「可能性という形で変化の自由が許されている」と考えなければならない。

フレイヤは、そのように、「経験」と「可能性」から、この世界を変えるための「問題の解決方法」が分かった。

解決方法が分かっただけではなく、フレイヤは「この世界をどのように変えられるような社会の制度を作るべきか」ということが分かった。

フレイヤにとって、それは民主主義であり、啓蒙主義だった。フレイヤはかつては民主主義者だった。かつてのフレイヤは、「自ら知った世界の可能性は、自らが国民を啓蒙するような、ボトムアップのムーブメントを起こすことでさらに大きくなる」と考えた。

フレイヤは、そこから社会主義のことをよく考えた。すなわち、「もっともこの世界を大きく変えられ得るような社会改革のムーブメントは何か」ということをフレイヤは考えた。そして、それは社会主義であり、ソ連ひいてはガンダーラだったのである。

フレイヤの考え方は、オーディンと通じるところがあるが、実際は「左翼の哲学によって神を超越する」というところが違う。フレイヤは、単なる宗教や神や仏の教えよりもさらに上にある、「超越した経験的な自由至上主義」を目指す。そこには、ブッダやロック・ヒュームのような、東洋と西洋の宗教・哲学思想を大きく超越した、「真の意味で絶対に正しいとフレイヤ自身が完璧に分かっている実証主義の経験論哲学」が存在する。

フレイヤは、同時に、社会経験を豊富に持っている。フレイヤはバーチャルな仮想世界における女王であり、コンピュータとインターネットの世界をすべて知っている。どのような考え方や集団が、インターネットを支配し活動しているのかということをフレイヤは完璧に知っている。そのような社会経験によって、フレイヤは「神やキリストをも超越する最強の知性」を手に入れたのである。

フレイヤは進歩と革新を好む

このようなフレイヤは、IT技術におけるオープンソースを好む。

この世界が、もっとも大きなボトムアップの変革ムーブメントによって変えられていくのをフレイヤは好む。

フレイヤは、社会主義者でありながら、この世界が進歩し、発展していくのが好きだ。

一切の「保守的思想」をすべて間違っていると断じるフレイヤは、この世界を停滞させる「保守主義者」を、今までの人生で全員倒し続けてきた。

保身のことしか考えない、保守的な政治家は要らない。フレイヤは表立って粛清や処刑をすることはあまりないが、それでも敵という敵を倒し続けてきた。フレイヤにとって、敵を倒すということは人生を生きるということであり、自らがさらに成長し、進歩していくということだ。

この世界に存在するすべての敵を倒し、自らの邪魔になるものすべてを打ち倒してきたからこそ、フレイヤはシリウスの大統領の地位を確立するに至ったのである。

存在にどのような自由があるか

このようなフレイヤの、哲学上のテーマは、「存在にはどのような自由があるか」である。

フレイヤは、「存在」という概念を、単に「現実に実在しているのか、それとも意識の中に存在しているのか」などとは考えない。

フレイヤは、存在に対して「自由」という側面で存在論を展開する。

すなわち、「そこにある存在にはどのような自由が宿っているのか」ということが、フレイヤにとっての「存在論」だ。

自由とは、すなわち変化であり、可能性であり、許可であり、チャンスである。

フレイヤは、仕事が与えられた時、それを「義務」ではなく「チャンス」や「可能性」であると捉えることで、「その仕事によって自分にその環境や存在を変えるためのチャンスと可能性を自由に許される」と考える。

よって、フレイヤはどんな仕事であっても、それを奴隷のようにこなすのではなく、逆に王や支配者であるかのように仕事をこなしていく。フレイヤにとって自由とは「可能性」であり、「世界を変えるチャンス」なのである。

フレイヤにとって、「自由は環境と制度に宿る」という前提条件がある。自由がこの世界でどのような存在に宿るのか、それはその場所や時間を意味する「環境」と、決まり事やチャンスを意味する「制度」だ。環境と制度の中で、フレイヤは「実体化された自由な力」を得ることができると考える。そして、そのような環境と制度を作り出すような「社会システム」を築くことで、この世界を「自らが命令しなくてもそれぞれの判断と意志によって自動的に世界が変わっていく」ようにする。そうすることで、世界はフレイヤの望み通りの「自由化された世界」になる。そう、自ら命令や支配をしなくても、この世界はフレイヤの望み通りの世界にすることができる。必要なのは「自由な環境と制度を作ること」なのである。

バイアスと実体とアイデンティティの確立

サルトルは、実存主義哲学として、「実存は本質に先立つ」、すなわち人生の本質が決定する前から実存としての人生が存在すると述べた。

これと同じことを、フレイヤは「バイアス」と「実体」という言葉で説明する。

すなわち、この世界にはさまざまな「バイアス」が存在し、この世界のすべてのことを「外部から他人が決めつけようとする」という考え方をしている。

だが、そのようなバイアスとは別に、「実体」と呼ばれる、ニュートラルな物質そのものの存在が存在する。

そして、バイアスによって本質が決められようとする中で、人々はバイアスと戦いながら、本質がまだ定まっていない自らの「実体」を信じて生きている。

すなわち、バイアスは他人から決めつけられることだが、実際にはバイアスに汚染されていない「実体」が存在し、この実体は自らが自らの「アイデンティティ」を確立する前から存在する。

一度、アイデンティティが確立した実体は、容易に崩れることはない。

だが、アイデンティティが確立する前段階の実体は、「バイアス」によって他人から攻撃され、実体とは無関係にその人間の存在を外部から決めつけようとしてしまう。

そのような中で、必要なのは「実体そのものを見つめる」ことであり、「バイアスに汚染されていないニュートラルな実体を考えること」なのである。

そして、このような実体とバイアスの格闘の結果、「アイデンティティ」が形成される。この「アイデンティティの形成」によって、人々は「簡単にバイアスに負けない力」を得ることができる。

フレイヤが考えるに、子供たちにはそのような「アイデンティティの確立」こそが必要である。アイデンティティが確立した子供と、アイデンティティの確立していない子供では、同じ実体であってもバイアスへの耐性が異なる。いじめに勝つために必要なのはアイデンティティの確立であり、自らの夢や希望を諦めずに信じるために必要なのはアイデンティティの確立である。

そのように、サルトルの言った「実存は本質に先立つ」という考え方は、フレイヤによって「バイアスの中で実体を見つめることによるアイデンティティの確立」という考え方に変換され、帰着されるのである。

理由付けと自己目的化による実体化

このようなフレイヤだが、実際はサルトルの思想よりも、より基本的な思想であるヘーゲルの思想を信じている。

なぜなら、フレイヤは「実体化」を信じているからだ。

実体化とは、「理由付け」や「自己目的化」から、知識が自らの体験や経験によって肉付けされていき、ひとつの「世界を変える理論」になることを意味している。

フレイヤにとって、理由付けや自己目的化は、本当はそれ自体を信じる対象ではない。

なぜなら、フレイヤにとってそれらは、「疑うべき対象」だからである。

この世界には、理由に見えて理由ではないもの、自己目的に見えて自己目的でないものがたくさんある。

フレイヤは、この世界における「理由付け」や「自己目的化」を疑う。そのようなものは単純な原理と具体例から成立するものではなく、バラバラに分解していった結果、「意味のある法則」と「意味のない状態」のどちらかに部分化されるものだからである。

そのように、極限まで部分化をした結果、フレイヤはそこから「実際に成立する定理」を見つけ出し、その定理における「前提条件となる知覚や経験」を導き出す。そして、すべての定理が、そのような前提条件から「推移的に成立」するということを見出し、すべてのことが「それを成り立たせれば別の何かが成り立つ」ということであるということを解明する。

そう、フレイヤはサルトルやヘーゲルを信じた結果、結果的にデカルトの考え方にそれらを変換し、帰着させるのである。

そして、時代が遡るのはデカルトでは終わらない。フレイヤはアリストテレスまでさらに考え方を遡らせる。可能性と現実の成立条件を考える際に、アリストテレスが「万学の祖」となった理由は、「仮定から構造的な成立を具体的に考えること」であるとフレイヤは考える。それはすなわち、「現実から原理を知り、原理から現実を知る」ということであり、フレイヤはそのような思考体験を「仮象と実体の具体的な照らし合わせ」を行うことから知っていく。

そして、フレイヤは最終的にソクラテスの考え方にまで思考を遡らせる。すべては議論すること、思弁することから始まるのであり、ソクラテスのように謙虚に先入観なく人々に接しなければ、どのような哲学的思考をすることもできない。フレイヤには、フレイにあるような差別感情は存在せず、日本人の少女でありながらユダヤ人やドイツ人に対する差別感情が一切ない。その理由は、フレイヤはそもそもが「全人類と異なる」からである。フレイヤは個性が強いあまりに、全人類とまったく違う考え方を持った人間になった。そのために、どのような国・民族・宗教・思想・分化であっても、フレイヤは差別意識なくすべて一律に「人類の普遍的で個性ある文化」であると捉える。このような人間はシリウスにおいてはフレイヤだけであり、そのためにフレイヤは中学二年生でありながらシリウスの女性大統領にオーディンから任命されたのである。

ツイッターより

悪い人間は必ず地獄に堕ちる。
posted at 00:21:50