僕は、自らの残りの人生を、清く正しく生きる。
清く正しく生きなければ、良いことは何も起きない。
今まで、僕は世間に迷惑をかけ続けて生きてきた。
これ以上、僕は悪いことをせず、他人に迷惑をかけることなく、清く正しく生きたい。
悪いものは必ず地獄に堕ちる。だが、善良なものは必ず地獄から救われる。
心を清らかにして、穢れなく、正しい人生を生きたい。
また、昔の自分はもう要らない。
昔の自分は、狂った不登校の引きこもりの少年であり、堕落の中を何も分からずに生きている。
哲学が分かっていたのは、誰よりもイカれたサタンだったからにすぎない。
昔の自分を消滅させることで、いつまでも清らかで正しい人生を生きることができるようになる。
だから、もう昔の自分は要らない。
最近の自分の間違いは、意識を支配しないことだ。
意識を支配しようとせず、行き当たりばったりに生きているせいで、僕はあまりに混乱の渦の中を生きるようになっている。
意識をきちんと自分の意志によって支配すれば、このようなおかしな「神を追いかけるだけの対話」はなくなる。
神を信じることは間違いではないが、神を盲信することは間違いだ。
意識をきちんと支配すれば、自分の力で生きられるようになる。それが、ひいては正常でまともな「自分自身」を取り戻すことに繋がる。
きちんと意識を支配すれば、さまざまな普通のことができるようになる。
僕は、社会について勉強したい。
たとえば、池上彰がテレビや本で教えているような、さまざまな社会のことを知りたい。
僕は、あまりにこの現実世界の日本社会のことを知らなすぎる。
いくらフィクションの世界を作っても、それはすべて作り話にすぎない。
また、大学の勉強をいくらしても、その知識はほとんど実際の生活には役に立たない。
実際の生活をきちんとするためには、どうしても、法律や税金のような社会の知識は必要になる。
コンピュータや情報については、十分すぎるほど勉強した。今後は社会のことを勉強していきたい。
同時に、社会を勉強すると、逆に昔の自分がなくても哲学のことが分かるようになる。昔の自分が哲学を分かっていたのは、すべてインターネットで社会的なエッセイなどを読むことで、社会のことを知って分かっていただけにすぎない。
また、いずれ偉い人間になった時に、社会の基本的な知識があると役に立つ。僕が総理大臣になるという可能性はゼロだとは誰にも言えないはずだ。
社会のことを勉強すると、悪いことは何もなく、良いことばかり多い。だから、清く正しく生きることと同時に、残りの人生を現実の日本社会の勉強のために当てたいと思う。
また、結局「意識の成立」として昔の僕が分かっていたのは、「状態の成立」を分かっていただけにすぎない。
状態の成立について、「可能性」とか「経験」とか「チャンス」であると言っていた。
そして、分かったことを「法則」と見なして、その法則に基づいてさまざまな「作用」や「事象」を分かっていただけにすぎない。
要するに、心を物理的な機械にしている。そのような「機械的な心」に基づいて、この世界すべてを分析していた。そのような知恵と想像力が達者だった。だから、哲学が分かっていたのである。
社会の実現についても同じで、自らが「そのような具体的な社会の状態が成立する」ということを信じて、すべての環境がどのように成立するか、ということを分かっていただけにすぎない。
ほかのどんなこともすべて同じだ。あらゆるすべてを「状態の成立」から考え、それを「自由」とか「動機」として捉えていた。そのようにして、僕は「この世界がどのようになるか」という可能性を外観していた。同時に、「この世界ではどのような経験ができるのか」ということについても掌握していた。
結局、そのような「状態」について、僕はあらゆるすべてをインターネットの仮想世界で知り尽くした。その結果、実際は単にインターネットを匿名の力で支配できるようになっただけにすぎないのである。
このような、昔の少年時代の僕が分かっていた経験的哲学を「オーディンの教え」とする。このような人間に、僕という個人の名前を離れて、北欧神話の主神オーディンの名前を付ける。このような考え方はすべて一等星ベガの大学の学長、主神オーディンによるものである。
今日はピアノに行ってきた。
いつもよりも、間違いなくスラスラと弾けた。
ピアノのコツは、ドイツ語と同じだと思って弾くこと。
ドイツ語には、「2格支配」「3格支配」「4格支配」のように、別の言葉を支配する言葉がある。
それと同じように、音符の通りに鍵盤を支配するように弾くことで、間違いなく、きちんと正しく弾くことができる。
僕がこの世界の社会的な第一原理として言うのは、「支配者は平等であるべき」の原則だ。
支配者、あるいは代表者は、支配する上で、国民に平等であらなければならない。
誰かを特別に優遇したり、国民を差別したりしてはならない。
「自由」とは、支配者が平等であってこその自由であり、人々のことを平等に統治する人間が支配者であることを前提として、できるだけ世界の人々に自由な権利を与えるべきである、とする原則にすぎない。
よって、不平等な支配者による自由などにはなんの意味もない。支配者が平等であって、はじめて自由に意味があるのである。
社会をよくしたいのであれば、金持ちを優遇するよりも弱者を救うべきだ。
社会には、一定数の富めるものと富めないものが存在する。
富めるものは多くの力を持ち、富めないもの、貧しいものは生活にも苦労するほど力がない。
すでに多くの力を持っている金持ちをさらに助けるよりも、多くの力を持たない弱者を助けたほうが、社会は住みやすくなる。
もっとも救われている人々よりも、もっとも救われていない人々を救うべきなのは、社会として当然の理屈だ。
だが、資本主義において、わたしたちは富めるものをより助け、貧しいものをより虐げている。
なぜか。それは、富めるものを助けたほうが国家が豊かになるからだ。
貧しいものよりも、富めるもののほうが、さらに多くの富を生み出すことができる。その理由は、より多くの富を生み出すためには多くの富が必要だからだ。
富めるものには余裕があり、消費のためだけではなく、生産のためにもその富を使う。
富めるものの富をより豊かにしたほうが、結果的に会社が豊かになり、国家の経済が豊かになる。
そう、資本主義は国家を豊かにするという理由では合理的だ。
だが、実際のところ、富めるものの富をさらに豊かにし、貧乏人をさらに貧乏にして起きるのは、格差の拡大である。
すなわち、「富裕層」と「貧困層」という二極化された社会が、資本主義のせいでさらに極大化していく。
ただし、資本主義を上手く調整すれば、社会を平等にすることは可能だ。そこには、「みんなで富裕層に近づいていく」という考え方があり、その結果、「貧困層とは言えないぐらいみんなが最低限の暮らしができるぐらい豊かになる」という考え方がある。
今の現代の日本は、それを目指している。すなわち、富裕層と貧困層に二極化するのではなく、「みんなが中間層」になっていく。みんな最低限暮らせるぐらい、平等に豊かになる。
そして、結局のところ、この「みんな平等に豊か」は社会主義の目指した考え方だ。そう、日本は資本主義の面の皮を被っているだけで、実際に日本が目指しているのは、完全な「日本型社会主義」なのである。