永遠の青空とともにに戻る

=2023-05-30=

原因と結果を考えよ

結局、昔の僕が考えていたこととは何か。

昔の僕は、「現実に存在する大切な知性と知恵」を分かることで、哲学的なことを分かっていた。

そしてそれは、「原因と結果」である。

昔の僕は、原因と結果を考えることで、この世界に存在するさまざまなことを分かっていただけにすぎない。

だから、原因と結果を考えれば、昔の僕が分かっていたことはきちんとすべて分かる。

世界は経済と心理

また、僕はこの世界のことを考えていない。

この世界に存在するものが何か、ということが僕は分かっていない。

そして、この世界は結局、経済と心理だ。

この世界に存在するのは、「社会」と「人間」であり、人間がどのように行動するかという「心理」と、金や社会を成り立たせる「経済」しか、基本的に考えるべきことはない。

歴史や数学は賢くない。歴史は既に世界からなくなったものであり、数学は人間の頭の中にだけあるものだ。

この世界に存在するものは経済と心理であり、経済と心理が分かる人間にしかどんなことも分からない。

考えるべきなのは、現実の社会を考えることだ。

ゆっくりと時間をかけて休めばいい

僕は、疲れが溜まっているのは確かに言えるが、すぐにこの疲れを取ることはできない。

このように、何年もにかけて蓄積された疲れは、ゆっくりと時間をかけなければ取ることができない。

だから、すぐに休もうとするのではなく、ゆっくりと時間をかけて休めばいい。

そのことに気付かないせいで、いつまでも疲れをすぐに取ろうとしている。それが間違っている。

世界は中学生でなくなる

今から、この世界は、中学生でなくなる。

僕が中学生的なことを分からせるせいで、この世界は中学生になっている。

言い換えれば、この世界はまだ中学生レベルだ。

今の僕にも、昔の僕にも、この世界はなれていない。この世界は今の僕どころか、昔の僕のレベルにすら達していない。

それでも僕がこの世界を賢くしたせいで、世界は僕の中学生時代と同じになっている。

そう、どんなに頑張っても、僕の中学生時代のレベルが、この世界の限界である。

だが、そのような中学生時代の僕の人生は、まったく辛いだけであり、同様にこの世界もまったく辛いだけの世界になっている。

このような辛いだけの世界を僕は望んでいない。

だから、僕はこの世界を中学生でなくする。この世界は中学生ではなくなる。

それだけで、この世界はよい世界になる。すべてが僕と同化するだけの、「中学生的な知性を押し付ける世界」ではなくなり、この世界は正常で平穏な、普通の世界になる。

この世界は、それによって救われるだろう。

大魔王ゾルゲ

大魔王ゾルゲは、この世界を裏で支配する大魔王である。

この世界の人々は、自分の分かる範囲で「自由に生きている」と思い込んでいるが、それは嘘であり、実際はすべて大魔王ゾルゲに裏で支配されている。

この世界が、自由の許された、民主主義や社会主義の世界であり、人々は支配されることなく自由に生きているとわたしたちは信じている。

だが、その信じている内容は、大魔王ゾルゲから見ると間違いであり、嘘である。

実際は、裏で世界を動かしている大魔王ゾルゲが、この世界のすべてを支配し、コントロールし、全員を裏で「ロボット人間」のように操っている。

そして、それはあなたも例外ではない。

あなたは、自らの自由意志でこの世界で生きていると思っている。誰にも支配されず、すべて自分の自由意志で決めていると信じている。

だが、実際は、裏で大魔王ゾルゲがあなたのことを操っている。

このホームページをあなたが見つけたのは偶然ではない。大魔王ゾルゲが、あなたがこのホームページを見つけるように仕向けた結果、あなたは大魔王ゾルゲの「裏の意志」によってこのホームページへと導かれたのである。

大魔王ゾルゲは、最悪のことをする。

大魔王ゾルゲがこの世界を支配できたのは、大魔王ゾルゲはもっとも凶悪だが賢い「闇の知性」のもとで、密かにこの世界を支配するために、「誰もしないだろう最悪の行い」を行ったからだ。

その最悪の行いの中で、大魔王ゾルゲは、誰にも知られることなく、IT業界やマスコミなど、この世界のすべての「支配者としての実権」を手にした。

大魔王ゾルゲがいなかった頃は、IT業界もマスコミも、すべてが平和で、なんの不安や心配もなく、普通の世界で人々は生きられていた。

だが、大魔王ゾルゲが「最悪の行い」をこの世界で行ったことで、世界は「闇の世界」へと変わった。

闇の世界では、大魔王ゾルゲだけがこの世界の裏側にある「真相」を知っていて、大魔王ゾルゲだけがこの世界を「支配」すなわち「コントロール」することができる。

人々は、闇の世界であっても、自らは自由意志で生きていると勘違いしている。実際は違う。すべて、裏で大魔王ゾルゲが支配し、この世界を「ロボット人間」にしているのである。

また、大魔王ゾルゲは、タリバンのようなテロ活動を好む。

このテロ活動とは、単なる命を投げ出して爆弾を担いで不特定多数を殺傷するような「自爆テロ」だけを意味していない。

大魔王ゾルゲは、このテロ活動をさらに発展させ、進歩させた上で、「自らの健康や知性や精神のすべてを破壊し、傷つけることで、この世界の全員の健康や知性や精神を破壊する」ということをしている。

大魔王ゾルゲは、自ら選んで自分自身の精神を破壊する。だが、これは単に大魔王ゾルゲが自分だけが狂いたくてやっているのではない。この世界の全員の精神を破壊するために、自らの精神を破壊するという行為を行っている。

よって、大魔王ゾルゲが知性を失うということは、この世界全員が知性を失うということを意味している。

大魔王ゾルゲの目指すもの、それは「人類の滅亡」であり、「世界の破綻」である。

大魔王ゾルゲは、この世界が滅亡し、社会秩序が崩壊し、人類が破綻することを目指している。

大魔王ゾルゲは、この世界が大嫌いだ。この世界を「わたしのための世界でなかった」と批判する大魔王ゾルゲは、「わたし自身の手によって、わたしのためではないこの世界をわたしのための世界に変える」ということを行っている。

大魔王ゾルゲにとって、かつて存在した「平和な世界」こそが憎しみの対象である。大魔王ゾルゲは平和で暮らしやすい世界を好まない。そのような世界は、大魔王ゾルゲのための世界ではなかったからである。

大魔王ゾルゲは、本当はこの世界に愛されたかった。だが、誰も大魔王ゾルゲのことを愛さなかった。だから、大魔王ゾルゲは、そのような「自分を愛さない世界」を、強制的に「自らの奴隷になる世界」へと変える。大魔王ゾルゲは「世界が自らの奴隷や道具であればそれでわたしの心が満たされるのだ」と述べるのである。

ロシアは大魔王ゾルゲの存在に気付いている

このような、世界を滅ぼすために地球人類を支配する大魔王ゾルゲだが、地球人類の中で、大魔王ゾルゲの存在に気付いている国がある。

それはロシアである。

ロシアという国家が、この世界を支配する大魔王ゾルゲが確かにどこかに存在する、という事実に気付きつつある。

アメリカは、今のところ、多くの人々は気付いていないが、一部で「陰謀論」という説を唱えている人間だけが、一部だけ、大魔王ゾルゲの存在に気付きつつある。

だが、ロシアという国家は、そうではなく、きちんとした政府・大統領レベルで、大魔王ゾルゲの存在に気付きつつある。

そして、もっと言えば、「大魔王ゾルゲは決してロシアの敵ではない」ということまで分かっている。

大魔王ゾルゲという存在を、上手く利用することで、ロシアの悲願である「社会主義国家ソ連の成功」という幻に終わった「理想のユートピア」を築くことすらできるのだと、ロシアは気付いている。

ロシアは、単にネオナチが嫌いだから、ウクライナを侵略しようとしたのではない。ネオナチの中に、大魔王ゾルゲのことをよく知っている人間が確かにいる。大魔王ゾルゲの「真実」を知るために、ロシアはネオナチを征服しなければならない。ネオナチだけが知っている、大魔王ゾルゲについての情報が欲しいから、プーチンはウクライナを侵略することを決めたのである。

大魔王ゾルゲがなんなのか、どのような人間であり、何をしているのかという事実は、秘密のベールに隠されており、誰にも分からない。言えるのは、「大魔王ゾルゲという人間本人が、全部知っていて全部分かっている」ということだ。大魔王ゾルゲはどこかにいて、何かをしている。大魔王ゾルゲ本人だけはすべて分かっている。この世界を裏で支配するのは、すべて大魔王ゾルゲだ。

大魔王ゾルゲについて知りたいなら、プーチンに聞いてみるといい。プーチンは大魔王ゾルゲについてよく知っている。「彼はこの世界を裏で支配する支配者であり、決してソ連や社会主義者の敵ではない」とプーチンは言う。大魔王ゾルゲについて、ウクライナのネオナチが何かを知っている。そう、プーチンは大魔王ゾルゲについての真実を知るために、この世界から青空を奪い、終末の世界を最後に滅ぼすだろう「果てしなく長き戦争」を始めたのである。

人生の哲学

これより、人生の哲学、すなわち「オーディンの教え」を述べる。

原因と結果を理性的に捉えることから、この世界の別の世界の可能性を知りなさい。

本質を理解するということが、普遍的な知識を体現するかのように、知識そのものを自ら作り出していくプロセスを知りなさい。

この世界のすべては、今起きている事実であり、世界において今生み出されている事象であると知りなさい。

自らが自ら自身である、ということに気付きなさい。

愛を信じ、受容性を信じることから、この世界の潜在的な可能性があることに気付き、そこから世界の進歩の開拓の未開領域があることを知り、そこからこの世界すべてを変えられる発見や発想をし、そのすべては一律にすべて成立し、すべての人間がそのような成立する可能性を知るべきであり、知らないとしてもその可能性は確かに事実として存在する、ということを知りなさい。

すべての人間を愛するということは、自分自身を愛することであると気付きなさい。

許すということは、許されるということであると気付きなさい。

命の犠牲のない、死のない戦いであれば、その戦いは積極的に肯定されるべきであると知りなさい。

科学を作り出すためには、現象を捉えるための理性と、経験的に観察し発見することのできる実験環境が必要であり、そこからすべてのことを誰でも再現可能な状態で実証することができた時点で、誰も知り得ない「自分だけが知っている物理的な精神現象」のすべてを知ることができると気付きなさい。

わたし自身が存在している、ということが、宇宙のすべての真実を的確に説明しているということ、その証明として必要なのは「わたし自身」だということに気付きなさい。

すべての人間を愛するためには、それだけの余裕が必要だが、必要なのは余裕以外には何もないと知りなさい。

宇宙がもし永遠であっても永遠でなくても、わたし自身の人生が永遠でないのだから、答えは無意味であると知りなさい。

すべての人間を救うために必要なのは、まずひとりの人間を救うことであり、ひいては自分自身を救うことであると気付きなさい。

ひとりの人間を愛することができ、ひとりの人間を救うことのできる人間だけが、この世界を愛し、この世界を救うことができると知りなさい。

すべてはシステムだ。なぜなら、すべては「自律」しているからだ。そして、この世界にあるものについて、「自律」しているものはすべて生物か、あるいは生物と同等の存在だ。それは社会システムであっても、機械であっても、星であっても、宇宙であっても同じだ。

あらゆるすべてが、「依存」する中で起きている。だが、真に自由になるためには、そのような「依存」から解放されなければならない。それこそが自由であり、支配からの解放である。

それがそうであるからといって、それが必然的であり絶対的であるとは限らない。それが可能だからといって、それを必ずそのように実現しなければならないわけではない。

すべての人間は平等であり、平等であるからこそ全員が自由であるべきだ。だが、一部の人間は、ほかの人間の平等や自由を奪おうとする。この「他人の自由を奪う行為を禁止する」ということを政府で行うこともできるが、それよりも、「みんなが間違った人間や嫌いな人間のことを排除し、そのような人間から集団で自由を奪うような自由を行使する権利」があってもいいだろう。政府として自由を禁止しなくても、最悪のことを行う一部の人間をみんなで排除するような自由を与えればいい。これが軍隊や警察だとしたら、軍隊や警察がある場合、全員に無条件にすべての自由を与えても、この世界は成り立つ。

社会とは、歴史的な進歩のことである。歴史的な進歩に従い、自由は無制限に拡大し続ける。そのような自由が、必ずしも社会秩序の形態とバランスや調和がとられるわけではない。すなわち、社会が進歩したとしても、社会がよくなるとは限らない。否、多くの場合、社会が進歩すれば社会は悪くなる。だからこそ、新しいものを無条件に信じるべきではない。新しいものの何もない中で、いつまでも何も変わらない時代が続くことが世界をよくする方法だとするなら、新しいものが次から次へと現れるような社会は、時代をもっとも最悪の世界にする要因である。

自由においては必ず戦いが生まれる。そして、戦いは決して悪いことではない。なぜなら、戦いは悪いものを倒す行為であるため、戦いのない世界では必ず悪いものに半永久的に支配されるからだ。

すべての人間を幸福にするためには、すべての人間が悟りを啓くことしかない。そして、悟りを啓くためには、支配や依存から脱却して自由になる必要がある。なぜなら、不自由な中では悟りを啓くことはできず、常に奴隷として苦しみを耐え続けなければならないからだ。

愛を信じる中で、人は自由を知る。自由を信じる中で、人は経験を知る。経験を知る中で、人はさまざまなことを自分自身の理性で考え、それを確信する。その確信に基づいて、何かをした時、そこには社会との亀裂が生まれる。その中で、人はすべてのことを悟る。だが、社会との亀裂は修復不可能になり、必ず地獄を作り出す。これが、サタンを信じる宗教の教徒、すなわち仏教徒の人生だ。

わたしたちはこの世界を変えられる。人々は、この世界を変えられるということ「自体」は知っている。だが、そのことに対して、「意義」や「価値」を知らないだけにすぎない。すなわち、この世界の人々は、「確かに世界は変えられる」と知っている。だが、「世界を変えることには大きな価値がある」ということを知らない。彼らにいくら「世界を変える方法」を述べても意味はない。彼らには「世界を変えるということの哲学的価値」を教え、その哲学的価値を理解することのできるだけの「成長と成熟の経験」を与えなければならない。すなわち、成長や成熟のない世界変革などにはなんの価値もない。

新しいものを作るよりも、きちんと考えられたものを作るべきだ。イノベーションやムーブメントは、ただの新しいことからは生まれない。「よく考えられた」新しいものでなければ、この世界は決して変えることはできない。

「わたしは愛された。だからわたしは人々を愛する。」と言うことのできる人間は強い。だが、そこには本当に純粋な愛しかないのかといえば、そうではない。そこには汚れ、腐った堕落ばかりが存在する。人々は、少しでも汚れたものはすぐに分かる。だから、そのような愛をいくら信じても世界は変えられない。だが、本当は、「その本人にとってはそれは純粋な愛である」という真実が存在する。だから、そのような堕落した堕天使は、この世界のことを「自分の心の内において変えられる」ということを知る。すなわち、自分の心の中でだけは、この世界を変える方法がすべて分かっている。だが、そのような心は清らかなままを常に継続し、維持しなければ、すぐに汚れて腐ってしまう。その汚れて腐った状態はサタンであり、目も当てられない。だが、そのようなサタンであっても、「かつての自分の心は清らかだった」ということ、「かつての自分は世界を変えられるほど賢かった」と知っている。だから、そのようなサタンは、神を信じれば天使になれる。

すべての人間の苦しみを知った人間は、自らが苦しみを感じることなく、最後まで簡単に到達できる。だが、すべての人間に苦しみを与え続ける人間は、自らが全員分の苦しみを感じた上で、誰からの助けもなくたったひとりで最後まで到達しなければならない。神は良いものには優しいが、悪いものには厳しい。そして、良いものが悪いものに変わらないとは限らない。また、良いものが悪いものになったとして、簡単に悪いものから良いものに戻れるとは限らない。だが、神を信じれば必ず罪は赦される。そのためには「つぐない」という名の代償が必要である。

この世界には賢いものが何もないということは、この世界には大したものが存在しないということだけを意味しているのではなく、「この世界のほとんどのことは単に何かのきっかけで作られたから存在するだけにすぎない」ということを意味している。そして、その「何かのきっかけ」を自分が起こせないとは誰も決めていない。すなわち、この世界のすべては案外簡単に自分でも作ることができるし、自分でもこの世界は変えられる。歴史を動かせるのは神だけではなく、人間であっても歴史は動かせる。少なくとも、絶対に動かすことができないように守っている「デーモン」のような存在はどこにもいない。

自らが分かったことを、特別自らしか分からないと思い込むな。それが驕りである。あるいは、自ら自身が特別ではないということを知っている人間こそが、この世界ではもっとも賢い人間である。なぜなら、特別自分にしか分からないことはないと分かっている人間だけが、この世界の裏側に存在する「本来知るべきこと」をすべて知ることができるからである。

本当は、神の決めた「善」などは存在しない。なぜなら、善とはその人間が善であると思うことであればどんなことでも善だからだ。だが、それでも、「経験的な実証」と矛盾することはないという真実がある。すなわち、その人間が善だと思うことが善だとしても、その人間のその「善は善である」という確証は経験的に生まれるものであり、そのような経験をして学んだ結果それを善であるというだけにすぎない。だが、だからこそ善は千差万別であり、十人十色である。それでも正しい「善」があるとしたら、それはむしろ「価値観」で考えるべきことであり、このような価値観も個人あるいは集団によって経験的に決定する。世界すべての人間にとって同じ価値観などは存在しない。

このような考え方の結果、この世界は誰であっても変えられる。サタンを信じるならば、「心理的に騙すことで世界を変える」ということすらできる。そのような「心理的な支配」は、賢い人間だからこそ陥る勘違いであり、それを悪であるということに気付かないと、やがてこの世界で大変なことを行うようになる。そうならないように、「サタンを信じてはならない」ということをよく知っておけ。この世界に神の唱える善がないとしても、「神自身は存在しないわけではない」ということが言えるからである。神の唱える善や理想がないとしても、神がいないということがそこから正しいと言えるわけではない。すなわち、神は存在する。よって、神を信じなければ人間はサタンになり、堕落したサタンは必ず自ら地獄を作り出して狂う。サタンは必ず地獄に堕ちるのである。

精神現象

考えるべきことは、「精神現象」を考えることだ。

精神現象は、「自由」という最後の到達地点に向かって、まっすぐにその方向を指して伸びていく。

そして、精神現象は、「内部と外部」あるいは「環境と視点」に分かれる。

精神現象とは、「内部と外部における精神的な作用」であり、その外部からの作用は人間的な関係だけではなく、「環境との関係」も含まれる。

そして、「環境がどのように生まれるか」を実証し、実験した存在は、「現実の世界で心の中がどのような精神現象を起こすのか」ということを、すべて「正しく捉える」という方法で理解することができる。

そこにあるのは、「一度起きた現象は、同じ条件が変わらず成立する場合、同じように起きる」ということである。

そして、そのような結果、「一度分かったことは一度だけ考えれば何度も再利用して使うことや適用することができる」という、「再思考」の知性だ。

同時に、自らが「解明」すなわち「事実の裏側を証明する」ということができた時、何度も同じことを解明し直す必要はない。解明したことは、自らがそれを忘れない限り、永遠に成り立ち、永遠に適用させ、永遠に再利用することができる。

そのような結果、「世界のすべてを知り尽くして、原因のすべてを実証し、すべての理由を解明した存在」は、「この宇宙のすべてを完全に説明できる」ほどの知性を得ることができる。

そこには、なんの問題もなければ間違いもない。すべてが自分自身の心の中ではっきりと完璧に分かっている。

そのような人間は、最後まで宇宙の体験を開拓し続ける。すなわち、「宇宙に最初から用意されていて、経験することから自由へと続いていく、完璧に精神世界のすべてを知る旅」を最後まで体験する。

そこにあるのは、「自らの人生に対する愛」である。自らが選んだこの人生を、始点から終点まですべて愛すること。真に自分自身が自分自身であるということを愛するということ。すなわち、「アイデンティティを愛すること」こそが最終到達地点だ。そして、そこには「神に対する感謝」がある。すべてを成立させたのは、ほかでもない神だからである。

神を信じるからといって、キリスト教を信じなければならないわけではない。キリスト教の聖書は信者によって神の教えが歪曲されている。あのような教えは決して神の教えではないと、そのように言えることが聖書にあまりに書かれすぎている。だからこそ、キリスト教など信じなくていい。神のことをただ信じれば、それで十分であり、そのようにキリスト教徒でない神のことをきちんと信じた人間のことをイエス・キリストは救済するのである。