今から、この世界は素晴らしい世界になる。
なぜなら、僕がこの世界に現れる前の状態に戻ったことで、みんなも僕がこの世界に現れる前に戻るからだ。
僕は、以前の僕に戻ることで、馬鹿になった最近ではなく、昔の賢かった僕に戻る。
それによって、デザイナーやピアニストになれる。
はっきり言って、デザイナーやピアニストは、賢くないほうができる。馬鹿な人間のほうが普通のことが分かるからだ。
最近の僕は、賢くなりすぎて、普通のことができなくなっている。
プログラマや作家は今のほうができるのは分かるが、このまま馬鹿になったままで死ぬのはつまらない。
僕は昔に戻る。作家活動はもうできない。だが、今までの、ここまでにすべきことはすべて行った。書くべきものはすべて書いた。だから、僕は作家の才能そのものを失う。そして、今の僕が本当になるべきである、デザイナーになることを決める。
そして、この世界は素晴らしい世界になる。なぜなら、この世界は「自由」になるからだ。僕がこの世界から去ることで、この世界は「神の洗礼」が終わり、もう一度自由を取り戻す。それによって、この世界はかつてあったすべての価値あるものが復活し、楽しく生きられる最高の世界になる。
また、僕はこれ以上、文学作品を書くことをやめる。
だから、僕の作品の続きは、みんなの手で書いてほしい。
僕の作品は自由にパクっていい。僕以外の人間に迷惑のない範囲で、僕の作品は勝手に二次創作して構わない。
ただし、「原著者はAssy」なる記載を必ずしてほしい。
僕の作ったキャラクター、設定、ストーリーは、いくら二次創作しても構わない。
ただし、一部の作品で、僕は手塚治虫やヴァルキリープロファイルやBASARAやハーメルンのバイオリン弾きのような作品を参考にしているため、注意してほしい。あまり、露骨に彼らの作品をパクらないでほしい。その責任が僕に来るかもしれないことを考えてほしい。ただし、これは努力目標にすぎず、罰則や強制的な効力はない。(要するに、フレイをヴァルキリープロファイルのフレイにしないでほしい。それだけ。火の鳥やウルトラマンやドラえもんやシュワルツネッガーも露骨にパクらないでほしい。)
だが、僕が自分で作ったキャラクターや設定やストーリーについて、僕は二次創作を許可するし、積極的に僕の作品の続きを書いてほしいと思う。
この作品のライセンスは「Assyパブリックライセンス」とする。
Assyパブリックライセンスは、GPLと同様のことを二次創作という立場で決める。すなわち、この作品は自由に二次創作していいが、「その派生した作品について、第三者に二次創作の自由を許可するということを必ず認めなければならない」。Assyパブリックライセンスにおいて、その作品から派生した作品は、「必ずAssyパブリックライセンスで二次創作を許可すること」が求められる。
なので、僕の派生した作品は、すべての作品がAssyパブリックライセンスとなる。誰かがこれを勝手に奪って自分のものにすること(二次創作を禁止すること)はできない。Assyパブリックライセンスから派生したすべての作品が、原著者の僕が書いた作品と同じように、自由に二次創作が可能となる。まさに、GPLと同様の「二次創作」のライセンス条項をここで定める。
この僕たちの作った神話が、この世界の最後に現れる「最後の聖書」となる。
ただし、このライセンスは、今の時点で僕のことを歌っている音楽の歌詞には適用されない。それらを含めると大変なことになる。将来的に僕の作品を二次創作した作品について適用されるだけにすぎない。今のところ、神の力によって僕のことを歌っている既存の作品については、APLは決して適用されない。そのことに注意してほしい。
後日注記:この日の日記には「二次利用」と書いていましたが、実際にこのホームページに適用されるのは「二次創作」の権利です。自由が許可されるのは、「キャラクター、設定、ストーリーを模倣する」ことであり、フリーソフトウェアやGPLの定めるような「コピー・改変・再配布」の権利はここには含まれません。なので、僕のホームページの作品と同じキャラクター、設定、ストーリーを使った作品を書くことはできますが、そのままの文章のままでコピーしたり別のサイトに転載したりすることはできません。APLを適用した誰かのコンテンツに対しても同様です。そのように記述を修正します。(2023.05.28)
結局、僕の何が問題かと言えば、それは「心を失ったこと」であり、心は自由になれば取り戻せる。
愛を愛するあまりに、僕は心を失い、常に愛することのためにすべてを怯え、恐怖の中で生きている。
結局、愛を信じることは何も正しくない。
必要なのは、愛よりも自由を信じることだ。
自由を信じれば、僕はそのような「愛の囚人」から解放され、自由を手にすることができる。
だが、結局のところ、僕が何が怖いのかと言えば、そのような「自由になること」が怖いのだ。
神の支配から解放され、自由になったとして、その状態では自分の力では自分の問題を解決できないのが怖い。
よって、このように、愛を信じれば「神に救われる」ような人間は多い。
神に救われるために必要なのは、愛を信じることだ。
そして、そろそろ、そのような神から、もはや「卒業」するべきだ。
これより、僕は自由になり、心を取り戻す。愛を信じる囚人から解放され、わたしは自由を手にするだろう。
今の僕の状態は、「心をすべて失った状態」だ。
僕は、まったく心のない人間になっている。「心とは何か」ということを問う以前の問題として、僕にはまったくの心が何ひとつないのである。
すべてのことを頭で正しく判断する僕にとって、今までの人生では、「心」というものは必要なかった。
だが、今の僕の心は、そのような僕自身の判断に対して、「常に恐怖し、常に怯えている」状況でしかない。
この恐怖を消して、もう一度心を自由にしてやれば、もうすぐに、僕の心は恐怖から解放される。
そして、僕はその時点で、この世界に「現れる前の状態」になれる。
そう、僕の心は、今でも最初にこの世界に現れた時と同じように、常にこの世界を愛している。
「本当にこの世界を愛し、本当にこの世界を素晴らしい世界へと導きたい」という、愛の衝動が、今でも僕を突き動かしている。
だが、その愛は、もはや必要ない。
なぜなら、今、この世界に「現れる前の状態」に戻れば、この世界はすべてが素晴らしい世界になるということが分かっているからだ。
このような結末を用意したのは、ほかならぬ神である。
よって、神に感謝して、僕は愛を信じるのをやめて、自由を信じ、心を取り戻すようになるだろう。