はっきり言って、平和と共存がいい。
そもそも、戦いというのは、両者が互いに戦って、どちらか一方しか生き延びることができず、負けたほうは死ぬということだ。
だが、なぜ、そのように、どちらか一方だけが勝ち残る必要があるのか。
人間は優れているとか劣っているという言葉で比較するものでもなければ、優れたものがひとりだけ生き延びるべき存在であるわけでもない。
みんな共存して、みんな生き残って、戦いや争いそのものが起きないほうがいい。
だから、僕は平和と共存を好む。
僕の精神を治す方法として言えるのは、「世界に現れる前に戻ればいい」ということだ。
馬鹿なペルソナの仮面を被って世界に現れた、その前の段階に戻ってしまえばいい。
そうすれば、かつての賢かった、意識の高い状態に戻れる。
かつての僕が目指していたのは、「分かっていることを全部常に分かり続ける」ということだ。
日頃、忘れているようなことであっても、この世界には確かに存在しているような、物質や法則の特性がある。
その物質や法則の特性を、常に思い出し、常に分かり続けようとすることで、かつての僕は哲学的なことをすべて分かっていた。
たとえば、時間は時計の中にあるのではなく、宇宙自体に存在する。宇宙自体に「時間」というものがあるのであって、時計の中に時間があるわけではない。
そのように、普段忘れていることであっても、思い出せば常に分かるような「大切なこと」はたくさんある。
かつての僕は、そのように宇宙と人間の経験を分かっていたのである。
愛を信じるな。
愛を信じるのは間違っている。
愛よりも、自由を信じよ。
愛よりも、経験から来る気付きを信じよ。
この世界に、どのような経験があるのか、この世界でどのような経験ができるのか、ということを考えよ。
世界は常に変化する。世界は「常に新しく生み出されている」。単なる諸行無常という仏教の言葉を信じるのではなく、この世界が今躍動的に生成されているということを信じよ。
僕は、ここまで、この世界をひとり愛してきた。
だが、本当は、愛を信じるから辛くなっている。
愛を信じなければ、僕の精神は楽になり、自由になる。
愛を信じるな。自由を信じよ。愛よりも自由を信じる覚悟を持てば、どんな苦しみも楽になる。
すべての知性を残すのが間違っている。
僕は、ドイツ語がそうであるように、僕の言葉の知性をすべて残して分かっている。
だが、先日書いた参照カウントの話と同じで、すべての知性を残すと、参照が残ってしまい、参照カウントがゼロになって消えるべきものが消えなくなってしまう。
ドイツ語を話すと、そのように、知性のない人間になる。
だから、すべての知性を残すのは間違っている。ドイツ語は世界でもっとも間違った言語である。
世界にある、さまざまな存在の本質を理解せよ。
たとえば先ほどのドイツ語のように、この世界には「経験的な気付き」から理解できるような、さまざまな存在の本質が存在する。
そのような存在の本質を理解することで、ヘーゲル哲学のようなことがよく分かるようになる。
そのために効果的なのはオープンソースとLinuxだ。オープンソースとLinuxを考えると、さまざまな存在の本質がよく分かる。インターネットの仮想世界だとしても、自由な共有の世界が成り立つのだということが分かる。