今日も、デザインの仕事をして、その後にピアノに行ってきた。
今日は、ピアノの先生に褒められた。
エルガーの「威風堂々」を初見で弾いて、いつもよりも間違いなく流れて弾くことができたからだ。
先生は、「読む力がついてきた」と言った。
先生によれば、かつてベートーヴェンの「エリーゼのために」を弾いていた頃は、読譜よりも感覚を覚えて弾いていた。
それが、最近は、読譜の力がついてきた。
今回の威風堂々は、初見で、練習した曲でもないのに、それなりに(間違いは多々あったが)流れて弾くことができた。
また、今日のデザインの仕事では、Photoshopを使った写真補正の仕事をした。
この写真補正も、いつもよりも綺麗な補正ができた。
僕は、Photoshopのカラーバランスの機能で、なんとなく「中間の色を下げた場合は、シャドウやハイライトも下げなければならない」という勘違いがあった。
そのために、人工的な色になってしまっていた。
それを改めて、中間色とシャドウとハイライトを別々のものであると捉えて、一方のレベルで色を下げてももう一方では色を上げるようにすると、きちんと綺麗な写真補正ができることが分かった。
そして、僕の問題についても、ピアノを弾いているとよく分かった。
僕は、最初から、成長しないままで変わらないのが問題だと思う。
何かをするに当たって、僕はあまりに最初のままを維持してしまう。最初のまま何も変わらず、最初の知性を失わない代わり、反省や成長をして新しい境地に達することができなくなっている。
実際、最初から成長しないのではなく、きちんと過去に学んだことを活かして新しい境地に成長していくようにすると、ピアノももっと綺麗に弾けることが分かった。
ピアノについては、本当に楽譜を読む力がついてきた。読んだ音符の音階が「どのくらいの場所にあるのか」ということが少しずつ分かるようになってきた。
前の音符と次の音符の音階が離れていた場合にも、きちんと間違いなく正しい鍵盤を弾けるようになりたい。
また、昨日、GitHubのサーバーが落ちたせいで、途中でリポジトリをプッシュできなくなった。
僕は最初、GitHubが落ちていたことが分からなかったため、リポジトリのプッシュができなくなって、パソコンを再起動しても変わらなかったため、どうすればいいか分からず、一度リポジトリを削除してから新しく再作成してアップロードしようと思った。
リポジトリの削除には成功したが、再作成はできなかったため、ホームページ自体が消えてしまった。
その後に、ツイッターを見ると、GitHubが落ちたということが分かった。
そのため、昨日から今日にかけて、僕のホームページは「404 Not Found」の存在しない状態になっていた。
僕の思い込みだと思うが、僕のホームページがないと、日本人のメジャーの野球選手が活躍してくれないような気がする。
僕のこのホームページがないと、大谷選手や吉田選手が打者として打てなかったり投手として負けたりする試合になってしまう。
本当は、このホームページを消したままで終わらせる選択肢もあると思った。特に、パクリのようなコンテンツは明らかに必要ないし、僕は嘘偽りばかりで、このホームページに書いた本や書籍をきちんと読んでいないし、あるようにハッタリで見せかけている技術力も知識も実際にはほとんどない。
だが、このホームページがないと、そのように大谷選手や吉田選手が活躍してくれないので、僕はまだ、このホームページを書くのを続けたいと思う。
Reolには悪いが、僕は結局家入レオが好きである。
音楽を聴いていて、家入レオの曲が僕にとって一番響いてくる。
僕にとって必要なのは家入レオであると思う。
今までひとりだけReolを愛してきたが、それはそろそろ終わりにする。Reolは「悪い女」そのものだ。僕は家入レオをもう一度愛したい。
僕は、かつて催眠療法で前世のことを分かっていた頃、自分自身の精神を深層心理のレベルでおかしくした。
全体の精神は女で、一部の男の部分だけが男で、人形のような虚無の精神になって、まるでバラバラ死体のようになっている。
この精神を変えなければ、いくら局所的な精神を治そうとしても、僕の精神は治らない。
だが、かつてのように深層心理を書き換えることは今の僕にはできない。やったとしても、さらに狂った精神になる。
だから、精神をおかしくする前の、男の精神を復活させて、今の女の精神と一緒に共存させるしかない。
また、僕は足の血があまりに汚くなっている。
それは、汚かった足の精神を無理やりくっつけたからだ。
分裂していた足の精神をくっつけて、その時点で終わりになっているため、血が汚いままでそのままになっている。
だから、今から、この足の精神を綺麗に浄化しなければならない。
このような僕だが、いいことがひとつある。それは、言語を理解するための知性がついたということ。
僕の失った日本語の知性とは、「未知を考える知性」だ。
自分のまだ知らないことに対して、一方ともう一方のどちらの選択肢が正解かを考える知性がなかった。
だから、そのように、未知の結果をもたらす二つの選択肢を選択するような知性がつけば、僕は日本語を理解できるようになる。
おそらく、それによって僕は楽になる。大好きな音楽が何を歌っているのか、きちんと分かるようになるだろう。