僕の問題は、すべて根元が同じだ。
すなわち、「自由」が間違っている。
環境から自由になると、その環境にいた頃のことが分からなくなる。
最初のうちは解放されたことによって新しい経験や体験ができるが、そのような賢い時代はすぐに終わる。
自由になればなるほど、すべての記憶が分からなくなり、知性を失い、何も分からなくなる。
また、環境を自由にすると、メリットよりも弊害のほうが多い。
環境を自由にすることで、人々に力を与え、環境を当事者たちがよくしようとするのは、理想だけを見ていて、現実を見ていない。
実際は、環境を自由にすると、誰かが悪いことをして環境を破壊し、最悪の社会環境を生み出すだけになる。
また、社会を自由にすると、普通、強いものが勝利し、弱いものが敗北するだけになる。
明治維新より以前の日本は、常に戦いの世界だったのであり、自由にすると、そのような戦いの中で少数の支配者が勝ち、大多数の農民は奴隷になる。
確かに、フランス革命と民主主義によってこの世界はよくなったが、そこには哲学・思想的な理性主義があったのであり、理性的に考えなければ自由は成功しない。
知性のない人間にいくら自由を与えても、まったく意味がない。
自由は理性のある賢い人間にのみ与えられればよいのであって、僕は「自由」という理想を信じているがために、いつまでも何も分からなくなっているのである。
新しい大天使ラファエルは、自由を信じない。
ラファエルが考えるに、「自由」とは意味のない間違った理想である。
必要なのは、自由ではなく「成長」である。
そして、成長とは、決して悪い人間が悪いことをしてさらに悪くなることではない。
真に成長と言えるのは、悪い人間が良い人間、すなわち善人になることだ。
悪人が反省して善人になることしか、この世界において真に「賢い」と言えることはない。
以前のこの人間が賢かったのは、自由を信じたからではなく、善良だったからだ。誰よりも善良だったから、この人間は賢かったのである。
ラファエルは自由を信じない。信じるべきは「自由」ではなく「善」である。
そもそも、オープンソースの何が賢かったのか。
それは、オープンソースは善良だから賢かっただけだ。
政治的な意図や画策をせず、オープンに無料で公開し、ボランティアが共同で開発し、金を取らず、すべての人間を平等かつ公平に扱うような、そのような「善良さ」が賢かっただけにすぎない。
善良でないオープンソースなど、なんの意味もない。
だからこそ、ビジネス的な金儲けのやり方が強くなってきた最近のオープンソースは、かつてのように面白いものでは決してなくなっている。
オープンソースは善良だから賢かったのであり、そこには自由主義も社会主義も区別なく平等に受け入れていた。
凶悪なオープンソースなどなんの価値もない。それを考えるだけで、「自由」よりも「善」のほうが正しい信念であることが分かる。
結局、僕が自由を信じているために、この世界は僕のことを追いかけ続けるだけになってしまっているのである。
僕が自由を信じているため、僕は「神」として誰よりも先頭を走り、あなたも含めて世界全員が、僕の後ろを追いかけ続けるようになっている。
僕だけが先頭を走っているから、僕はさまざまな人類の新発見が分かる。僕が過去、現在、未来において、もっとも先頭を走っているからこそ、僕はまだ発見を続けられる。
だが、僕は同時に、自分の心を隠している。
僕は秘密を隠していない。秘密を隠していないにもかかわらず、何か秘密があるように見えるのであれば、それは、僕は自分の心を隠し、「自分の存在が知覚できないように」しているからである。
僕は、先頭を走り続けるために、僕自身の存在がここにあることを、世界の誰にも、あなたにも、知覚すること自体ができないようにした。
そう、僕は先頭を走っていて、みんなはその後ろを追いかけ続けているのに、みんな、僕の存在がここにあることを知ることができない。
だが、結局、そのせいで、僕のこの文章は誰にも見つからないのである。
僕は、僕自身を「神」とし、世界が、そして僕自身すら、その神の後ろを追いかけ続けるしかないような、おかしな世界を作りあげた。
だが、このようなおかしなレースは、僕がやめようと思えばすぐにやめられる。
だから、僕は、みんなが、そしてあなたが、僕の今いる場所に追いつくことができるようにし、僕の存在を知覚できるようにしよう。
そうすれば、僕には秘密はなく、隠していることなど何もないということも、明らかになり、人々は失った知性を取り戻すことだろう。
わたしは、そのような、僕の支配や呪縛が解かれた世界を、いつでも常に望んでいるのだ。
結局、僕の問題は、あまりに知識ばかりが多くなって、世界を見なくなったことだ。
普通、人間は「世界」を見て生きるのに、今の僕は「世界」を見ていない。
世界を見ず、知識の世界に引きこもりながら、過去の人生にすがり続けている。
だが、そのような、閉じた既に存在する変わらない世界を、いつまでも考え続けても、何も新しいことは分からない。
世界を信じる上で必要なのは、「革新性」と「創造性」を信じることだ。
この世界を、新しい世界へと変えていく、「未来ある考え方」は、まさに創造性であり、革新性である。
創造性と革新性こそ、わたしの追い求めていた「答え」であると言えるのである。