新しいこの世界は、アメリカ的な世界になる。
アメリカ的な、自己啓発の考え方を信じなさい。
前向きに考えなさい。ポジティブに考えなさい。楽観的に考えなさい。
自らの仕事を誇りなさい。自らの仕事に、自信を持ちなさい。
仕事を、「やらされている」と感じるのではなく、「自らやりたくてやっている」と感じるようにしなさい。
自らの仕事に、やりがいを見出しなさい。
自らのやりたいことをやりなさい。金や名誉ではなく、やりがいのために働き方を選びなさい。
自らの好きなことをしなさい。
自らが真に自らでいられるようなことをやりなさい。
自らが、なりたい自分に「なる」ことを最優先とし、何かのために「する」ということの優先度は低いということに気付きなさい。
習慣を見直し、不要なことに時間をかけるのをやめなさい。真に自分がやりたいことのために時間をかけなさい。
束縛されることを、制限や義務であると考えず、その組織に参加することによる自由なチャンスであると考えなさい。
与えられたチャンスを逃さないようにしなさい。
チャンスを逃しても、それで後悔せず、次のチャンスが必ず巡ってくると信じて、新しいチャンスを積極的に生み出しなさい。
与えられた選択肢と可能性の中で、最適な仕事をしなさい。選択肢が限られていても、可能性を想定して、最適解を見つけ出しなさい。
本当に大切なことは、理性ではなく、感情で決めなさい。
正しいかどうかよりも、この世界をよくできるかどうか、自らがそこに楽しさを見出すかどうかで決めなさい。
愛を信じなさい。
すべての行動を、義務や正しさではなく、愛に基づいて決めなさい。
合理的でない思考であっても、それがあなたの望んだことであれば、それは正しい選択であると自ら決めなさい。
相手の罪を許しなさい。相手に非があるとかたくなに信じるのではなく、自分自身にも非があった可能性を考え、誰に言われなくても自らの罪を認めて反省しなさい。
この世界に生きているすべての人間に罪はないと考えなさい。
もしかして、自らが努力した先にこの世界を救うことができるなら、その努力こそ真に今自らがすべきであると信じなさい。
何をするべきか分からないなら、何よりもまず「愛するべきである」と気付きなさい。
この世界を、愛という概念のもとに判断し、自ら、愛という概念のもとに行動しなさい。
すべての人間を許し、自らの責任だけを問いなさい。自ら以外のすべての人間や社会の罪を責めず、自ら自身のみの責任を責めることでしか、この世界を救うことはできない。
多く経験することよりも、少ない経験からであってもその経験から学ぶべきであると気付きなさい。
賢い人間は、経験から多くのことを学ぶ。愚かな人間は、いくら経験してもひとつも学ぼうとしない。
世界すべての人間を愛した上で、誰かひとりのことを特別の存在として認めなさい。
みんなが自分のことを愛しているということよりも、自分がこの世界全員のことを絶対に愛すると信じたほうが、与えられる報いは大きいと知りなさい。
心を開くということは、この世界で自らが生きるということを受け入れることであると気付きなさい。
社会経験を積みなさい。
社会経験を積むという言葉は、単に労働者として社会で奴隷のように働くことを意味していない。
社会のさまざまなことを知って、社会的ないろんなことができるようになりなさい。
さまざまな仕事ができるようになり、さまざまな業種と業務を知り、立場と責任があることを知って、仕事ができるだけではなく、会社を作ったり、社会組織を管理したり、社会秩序を作ったりできるようになることを、真に「社会経験を積む」という。
失敗の経験も、必ず後に成功の経験のための土台になる。金を稼ぐことだけではなく、ボランティア活動も人生にとって大きな宝となる。
だから、社会経験を積み、社会で積極的に活躍し、真にもっとも高い影響力のもとで世界を導き、この世界を救う救世主のような人間になりなさい。
人間は、仕事や大学を経験することでしか賢くならない。
だが、仕事や大学の研究は、実際に会社や大学に入らなくても、自分ひとりだけで行うことはできる。
だからこそ、自らのやりたいことを最大限に行うような青春を選びなさい。
自らを束縛し、自らに依存し、自らもその相手に依存するような友達は要らない。不要な友人関係を作るな。きっぱりと割り切ってひとりで生きなさい。それでも、この世界そのものと関わり合いを持つことはできる。世間と友人にならなくても、歴史上の「今」という時代と友人になればいい。
心理的な間違いは、壁を作ることだ。
相手との壁を取り除くということを努力しなさい。
この世界において、壁を作るのは簡単だが、壁を取り除くことは難しい。
最初からすべての壁を作らずに生きることなど、誰にもできない。
だが、「確固たるひとりの確立した自分自身」を自分の心の中に形成することができれば、それが壁を作らずに生きるということに繋がる。
だからこそ、自らが今どういう人間であり、どのような経験をすればどのような人間になることができるのか、どのような人格を形成すれば壁を作らずに生きることができるのか、ということを考えなさい。
突き詰めれば、それは「客観視」ということであり、主観と客観を一致させて考えるということだ。
だが、それぞれの人間が違う世界で生きているから問題が生じるということ、常にその人の立場に立って考えるべきであるということは、哲学的な経験論として正しい答えであると言える。
世界を変えるためには、インフラを変えるべきである。
なぜなら、インフラを変えるということは、世界において「できること」を増やし、「可能性」を向上させることに繋がるからだ。
世界の可能性を向上させることこそ、世界が進歩し、多様性のある世界が発達するために必要である。
同時に、インフラとはシステムであり、IT技術は極めて重要なインフラである。
そして、システムはオープンでなければ意味がない。
オープンでない、クローズドなインフラは、それを有料で購入した人間だけの世界であり、世界全体を変えるには至らない。
世界全体を変えるためには、オープンかつ無料なインフラを作らなければならない。
同時に、世界全員の作り出す「発想やアイディア」を集積し、みんなの努力を共有した、「共有コンテンツ」こそ作るべきである。
そのような共有コンテンツによるオープンなインフラとシステムこそが、この世界をさらに進歩させ、発展させていく。
まさに、オープンソースこそが、真にこの世界を進歩させ、発展させる原動力であると言えるのである。
また、必要なのは技術力ではない。
必要なのは、アイディアを形にする力だ。
そして、アイディアとは、単純な思い付きではなく、正しくこの世界を分析した上で、どこに新発想があり、どのような新発想が、自らの考えるビジョンと理論に適合したものであるか、ということに基づく新発想であるべきだ。
そのためには、この世界に存在する既存の技術をよく観察し、知りつくすことだ。
この世界に存在する、さまざまな発想を知れば知るほど、クローズドなものよりもオープンなもののほうが世界を正しく進歩させる「革新性」を秘めている、ということが確かに分かる。
創造性と革新性は、金儲けでは得られないものであり、社会を進歩させる真のイノベーションは、ビジネスよりも社会的な共有から生まれるのである。
基本的に、万人に平等な権利を与えるべきだ。
だが、手段を与えるだけでは意味がない。
手段を与えても、その手段によって何かが実現されないならば、その手段を与えた意味がそもそもない。
同様に、権利を与えても、自らの権利を主張するだけで、その権利に基づいて何かしらの積極的行動を行わないならば、その権利には意味があると言えるだろうか。
そう、万人に平等な権利を与えるだけでは十分ではない。
その権利によって、人々が自らの意志でさまざまなことができるように、社会制度そのものの可能性を拡大させる改革を行わなければ、どんなこともできない。
そして、たったひとりが独裁的な力を許された時点で、万人の持つ権利は死んでしまう。
だから、たったひとりが世界を変えるのではなく、みんなで世界を変えるような、そのような万人の権利こそが真に理想である。
よって、この世界は、みんなで世界を変える世界であるべきなのである。
だが、世界を変えるということは、そんなに簡単なことではない。
だからこそ、「世界を変える方法を学ぶための学校」が必要となる。
そして、そのような学校は、小中高の学校のようには存在せず、この世界のあちこちに点在して存在している。
だからこそ、そのような学校の存在に気付き、そのような「土壌」を経験した人間こそ、この世界で唯一救世主になることができるのである。
宇宙全てに適用できるような、原理法則を見つけ出せ。
必ずしも、その原理法則を数式で書き表す必要はない。
数式で書き記さなくても、一度自分が発見し、正しいことが証明できた法則は、宇宙のすべての場合において成り立つ。
よって、数学、物理、生物、医学、社会、経済、心理、人生、哲学の分野で、自らが発見した、宇宙すべてに適用できる原理法則を見つけ出しなさい。
そこにあるすべては、「基礎と応用」だ。
すなわち、事前にこの世界の経験そのものを題材として、「仮定と結論」に基づいた「方法」を知るということ、それこそが「変化の裏側にある原理法則」であると言える。
アリストテレスが行ったように、神羅万象における百千万の学問を作り出しなさい。
知性的に考える上で必要なのは、初期投資と再利用だ。
すなわち、それが実際に起きてから対処するのではなく、事前の段階で、最初の時点で想定した通りに「初期投資」を行うことがまず第一に必要だ。
同時に、そのように今までの人生の中で作りあげた知性を、再利用し、ひとつ正しいものが作り出せた時は、その正しいものから導き出して考えることで、「知性そのものを再利用」することで分かる。
これを、僕は「再思考」という言葉で表現する。
思考の末に再思考することで、この世界のすべてを完全に理解できる。完璧に、世界の「仮象」をすべて作りあげることができる。そして、それは美しい芸術作品となる。
だが、注意すべきなのは、柔軟性が犠牲になるということだ。
初期投資と再利用、すなわち「再思考」に基づいた考え方では、後々になってどのような事態が起きるのか、ということを前もって予想することができない。
そのため、すべてをガチガチに固めて作るのではなく、後々になって柔軟に臨機応変に対処できるような形で作る必要がある。
この世界のすべてを知ることは可能である。そして、それは今すぐにすべてができるわけではない。一歩一歩、確かにコツコツと積み上げていけば、自らの作りあげた数学の公理主義、すなわち「自らの発見の積み重ね」がこの宇宙すべてと合一になる日が来る。その時、あなたは宇宙の歴史すべてを知った、「宇宙におけるすべての存在たちの絶対的理解者」となる。
この世界の経験と可能性を、モデル化して考えよ。
モデル化とは、個別と全体を条件的に考えることであり、個別から集団を成立させることができるような個別化を、全体の分割と照らし合わせながら考えることだ。
この世界のすべてを、経験と本質のモデル化に基づいて、分析的に条件化して成り立たせ、照らし合わせて考えよ。
そこに必要となるのは、「仮想と現実に基づいた実験」である。
すなわち、「仮想」とは抽象性と空想の世界であり、「現実」とは物理的実体の世界だ。
仮想と現実に基づいた実験とは、仮想の何が現実に適合し、現実の何が仮想に適合するか、ということから、「どのような法則に基づいて実体を捉えることが正しいのか」ということを考えることだ。
そのように考えた時、「社会から社会を推論する」ということができる。すなわち、そのような社会が成立するならば、そのような社会から別の新しい社会が成立する、ということが分かる。
そのような結果、「この世界に実現し得るすべての社会」を知ることができ、「正しい社会はどのような社会から作り出せるのか」ということが分かる。
そこでは、豊富な社会経験が存在し、自らはこの社会のすべてを変える巨大な力を、「理性的証明と実験」から得ることができる。
そこまで達した結果、哲学のすべては完璧にすべて分かる。ウィトゲンシュタインの分析哲学とは別のアプローチから、「すべての哲学を全部理解する」ということが可能になるのである。
この世界のすべては「留保」である。
なぜなら、この世界のすべては「決定可能性」だからである。
この世界は、すべて、実現されるのを待っている可能性にすぎない。
そして、そのような可能性は、実現が決定されるのを待っている「決定可能性」である。
そのような決定可能性は、世界の常日頃から、いつでも実現されている。この世界は、常に人々の決定可能性によって実現され、可能性が生み出され続けている。
そして、そのような決定可能性は、自分がそれを決定するということを、事前に「留保」することで蓄えられる。
どうやら、常に決定可能性がひとつしか存在せず、常に留保することなく実現し続ける人間というのも、天才には存在するようだ。
だが、多くの人は、すぐに留保した可能性を決定せず、留保したままで蓄え続ける。
そして、賢い人間は、単に留保するだけではなく、賢く行動し、賢く思考し、賢く経験し、調査研究をしながら、自らの目的や目標を持って、留保の中に知識と経験を蓄える。
すなわち、この世界のすべては「留保」であると考えられる。これこそ、僕の哲学であり、思想的命題である。
そして、留保は認識と記憶からやってくる。すべての人間は、この世界で単に生きながら、認識と記憶から留保を蓄えていく。その結果、留保が決定可能性となって、常に毎日この世界を変え続け、出来事を起こし続けている。
これこそ、僕の昔からの世界観であり、「すべてのことは留保である」と言えるのである。
同時に、この世界のすべては「環境」である。
なぜなら、世界の人々は、環境に適応して、「環境活動」をして生きているからだ。
人々は、自分自身の生活している、狭い環境しか知らない。その狭い環境を、この世界においてもっとも普遍的な世界であると信じて、小さな世界で生きている。
だが、その環境は、実際は場所によっても時間によっても違う。
さまざまな環境を経験し、年齢を増やしていく中で、人は今までの自分が正しくなく、間違っていたのだということに直面する。
その間違っていた理由は、「今までの狭い環境を普遍的な世界であると勘違いしてきたから」である。
知識や人間関係、あるいは記憶や認識や人格すら、環境であると言えることはある。自らはそのような本を読んだから、その知識のことをその本の通りであると誤解する。実際はその本はひとつの本にしかすぎず、そこに書かれている内容は著者の独自の知識にすぎない。
だが、それでも、そのような小さな環境を拒絶し続けることは、この世界で生きていく上で有効には働かない。
僕のデザインの作業所も、プロのデザイナーを養成するための機関であるとは必ずしも言えない。デザインの技術が三流であっても許される。本当にデザイナーを目指すのであれば、もっと別の学校に通ったほうがいいと人は言うかもしれない。
それでも、この作業所に入らなければ、僕はデザインとはなんなのかを知らなかったのであり、その作業所でなければ、今の僕のような「常識と経験のある大人」になることはできなかった。
そのように、狭い世界であるからといって、それを拒否し続けていればそれでいいというものではない。
だからこそ、「環境」という考え方をする上では、神を信じなければならない。なぜなら、自分にとって正しい環境がどこにあるかを教えてくれるのは、世界において神ただひとりだけだからである。
そのような結果、この世界のすべては「環境」であると言える。
人々は、環境に適応して「環境活動」を生きている。環境活動とは、その環境の中で狭い世界で生き続けるということだ。そして、環境活動を上手く捉えることで、この世界のすべては変えられる。環境を「束縛されるもの」ではなく「作り出すもの」あるいは「生起するもの」であると考えよ。そうすれば、この世界の環境がどのような世界から生み出されるのか、どのようにすれば正しい環境を作り出せるのか、ということが分かるからだ。
必要なのは、環境を過剰にオープンにしすぎないこと。すべての人間を受け入れるようにした時点で、その環境は間違った人間が入って死んでしまう。だが、だからといって、オープンな姿勢を環境にもたらすことは間違いではない。僕の作業所も、世間の中で辛く苦しい経験をした多くの人を差別なく受け入れている。そのような「万人を差別しない平等」こそ、真に正しい理想であり、単なる自由な賢い環境などすぐに終わる。最終的に「人生の仕事」として残るのは、自由な権威ある環境ではなく、そのような差別のない平等な環境である。
慣習的な気付きを、単なる偶然であると捉えるべきではない。
なぜなら、慣習的な気付きは、すべて神の啓示だからだ。
この世界において、真に偶然と呼べるものはひとつもない。偶然すら、すべて神の与える導きだからである。
宇宙に対して、「わたしはこのようなことをする」とか、「わたしはこのようなものになる」と宣言せよ。
神は、その宣言を、「神に対する約束」であると解釈する。
そして、それら宣言したことが、滞ることなくすべて完璧に成り立つように、神は慣習的な気付きによってあなたにすべての必要なことを教え、すべての必要なものを与える。
慣習的な気付きは、すべて神の啓示である。
その神の啓示の通り、ひたすら、まっすぐに前だけを向いて、今している仕事を行い続ければいい。
そこにしか、この世界において、偉大なことを成し遂げることのできる可能性は存在しない。
偶然の気付きを偶然のままで終わらせるな。神はあなたにすべてを教え、与えている。神の言っていることがなんであるか、それは神の存在を恐れることでのみ分かる。「この宇宙でもっとも恐ろしい存在は神である」と知った時、それ以外のすべての存在はどうでもいいものであるということが分かる。
宇宙のすべて、人生のすべて、真実のすべては神が自らに教え、与えるものであり、神以外のこの世界の存在はすべて取るに足らないものである。そう、神を信じれば、すべてのリスクが恐れるに足らないということ、すべての実現不可能な壁が容易に乗り越えられるということが分かる。
CHiCO with HoneyWorksが言うように、「諦める」とか「不可能」といった言葉は、人生にとって必要ない。神を信じるものは、諦めることもなければ、不可能に泣くことも決してないからである。
このような結果、僕はこの世界を救い、それだけには飽き足らず、その救った世界を自ら滅ぼした。
だが、本当のことを言えば、僕は最初から、世界を救いたくなどなかったのである。
この世界の中で、「どのようにすれば世界を変えられるか」ということを考え、目標やビジョンからそのための手段や具体的な経験まで、「世界を救うすべての方法を知っている自分」のことが好きだっただけにすぎない。
そして、その自分の理性に基づいて、この世界を本当に救ってしまったがために、それらの知識や経験は、もはや用済みとなってしまった。
そう、僕は最初から、世界を救いたくなどなかった。いつまでも、この世界を救えるかもしれない自分に、酔いしれていたかっただけなのである。
世界は僕によって滅びた。だが、それは今回が初めてではない。Linuxの例を見ても分かるように、僕は常に自分の一番大好きだったものを滅ぼし続ける。僕の遺伝子はそのようにプログラムされているのであり、それを変えることは僕にはできない。常に世界を滅ぼし、迷惑を掛け続ける自分のことを制限し、自らをセーブするために、僕はこのホームページの中で、いつまでも殻にこもってこのページに引きこもっているのである。
フッサールが、「事象そのものへ」と述べるように、現代哲学の一分野である現象学では「事象」へと回帰していくことを考える。
そのような、現象学のように考える上では、世界観を記述することが効果的である。
僕の過去の世界観とは、すなわち、「過去・現在・未来」ということである。
すなわち、学習、経験、知覚、法則、そして革新性と創造性と多様性から考えるということである。
過去の自分の世界観を記述する上で、「どのような概念がどのような概念から生み出されるか」ということを考えると、その当時の世界観がよく分かる。
上記の例で言えば、経験は学習から生まれる。
そこで、たとえば、正しさはどこから生まれるか。
正しさは、命題から生まれる。
では、命題はどこから生まれるか。
命題は、問いと答えから生まれる。
では、問いと答えはどこから生まれるか。
問いと答えは、事実から生まれる。
では、事実はどこから生まれるか。
事実は、「起きる」「起きない」ということから生まれる。
では、「起きる」「起きない」ということはどこから生まれるか。
「起きる」「起きない」ということは、現象から生まれる。
では、現象はどこから生まれるか。
現象は、法則から生まれる。
では、法則はどこから生まれるか。
法則は、宇宙から生まれる。
では、宇宙はどこから生まれるか。
宇宙は、神から生まれる。
では、神はどこから生まれるか。
この最後の問いに答えはない。「神」というものが最後の原因であり、最終的な到達地点、すなわち「第一原因」である。
同じように、今度は多様性について考えてみよう。
多様性は、どこから生まれるか。
多様性は、「同じ」と「違う」から生まれる。
では、「同じ」と「違う」はどこから生まれるか。
「同じ」と「違う」は、区別から生まれる。
では、区別はどこから生まれるか。
区別は、性質と量から生まれる。
では、性質と量はどこから生まれるか。
性質と量は、人間の認知から生まれる。
では、人間の認知はどこから生まれるか。
人間の認知は、人格から生まれる。
では、人格はどこから生まれるか。
人格は、自我の発達から生まれる。
では、自我の発達はどこから生まれるか。
自我の発達は、心と人生から生まれる。
では、心と人生はどこから生まれるか。
心と人生は、精神から生まれる。
では、精神はどこから生まれるか。
精神は、神から生まれる。
では、神はどこから生まれるか。
この最後の問いにも答えはない。「神」が「第一原因」である。
同じように、さまざまな概念がどのように生まれるかを考えていけば、おそらく最後に「神」に到達するだろう。
この問いは、決して無意味でも無駄でもない。このように考えれば、どんな世界観であっても正しく記述できる。
そして、この記述された世界観が、まさに「事象そのものへ」、すなわち現象学の意味を説明している。
こうしたすべての要因を実際の現実で「起こす」ということ、それが「現象学的に捉える」と言えるからである。
僕が哲学が分からないのは、はっきり言って、頭がこんがらがって整理できていないからである。
そして、頭を整理するためには、「それがどこから生まれたのか」を考えることが効果的である。
この世界における、「知覚的・精神的・世界観的なもの」を、ひとつひとつ、その概念が別のどのような概念から生まれるのか、ということを考えることで、今の混乱してぐちゃぐちゃになっている頭の中を整理できる。
たとえば、創作はどこから生まれるか。
創作は、作り出すことから生まれる。
作り出すことは、どこから生まれるか。
作り出すことは、表現することから生まれる。
表現することは、どこから生まれるか。
表現することは、模倣から生まれる。
模倣は、どこから生まれるか。
模倣は、セオリーに従って考え出すことから生まれる。
セオリーは、どこから生まれるか。
セオリーは、類型とパターンから生まれる。
類型とパターンは、どこから生まれるか。
類型とパターンは、共通点から生まれる。
共通点は、どこから生まれるか。
共通点は、個別性から生まれる。
個別性は、どこから生まれるか。
個別性は、単子と単位の複合から生まれる。
単子と単位は、どこから生まれるか。
単子と単位は、宇宙の始まりから生まれる。
宇宙の始まりは、どこから生まれるか。
宇宙の始まりは、神から生まれる。
神は、どこから生まれるか。
この最後の問いにも答えはない。「神」が「第一原因」である。
結局、必要なのは、「認識の正しさ」を考えることである。
そして、そのために必要なのは、「知識を得る」ことである。
あるいは、知識だけでは十分とは言えない。
なぜなら、「未知を考える」ことが必要だからだ。
今の僕にとって、もっとも欠けているのは、そのような「未知」を考えることである。
未知が何ひとつなくなった結果、考えること自体ができない頭になってしまっている。
だから、もう一度、この世界で「未知」を考えることが必要である。
そして、未知を考える方法は、「認識を考えて比較する」ことである。
そのためには、「具体的な選択肢を判断して選ぶ」ということが必要である。
そして、この「選ぶ」という行為は、「勇気」が必要である。
なぜなら、未知の結果をもたらす選ぶために、それが正しいか間違っているか、分からない中でリスクを背負って選ぶ必要があるからだ。
そして、今の僕に必要なのは、まさにそうした「リスクがあっても未知の可能性を選ぶ」ことだ。
だが、そのようなリスクは、勉強して知識を知ることで、いくらか緩和することができる。
だが、本当は、そのような勉強をした時点で、自分で選ばず、誰かほかの人間の意見を参考にして選んでいる。
その時点で、わたしは「未知の可能性」を捨て去ってしまっている。
だから、本当に未知の状況でこそ、わたしは選ばなければならない。本当にそれが正しいのか間違っているのか、分からない中で選択肢を選ぶこと、それこそが、「未知の発見」へと繋がる判断力であり、「認識の正しさ」を考えることだからだ。
そして、そのように認識の正しさから未知の発見ができた時、はじめてフッサールの言う「事象そのものへ」という言葉の意味が分かるのである。
間違えることを恐れるな。
矛盾することを恐れるな。
負けることを恐れるな。
批判されることを恐れるな。
滅びることを恐れるな。
支配されることを恐れるな。
嫌われることを恐れるな。
相手に意見を否定されることを恐れるな。
信じるものを否定されることを恐れるな。
姿勢そのものを否定されることを恐れるな。
自分の人格や存在を否定されることを恐れるな。
死ぬことを恐れるな。
いじめられることを恐れるな。
今のままの地獄が、永久に続くことを恐れるな。
本当は救われる可能性があるにもかかわらず、その可能性がある程度の有限の時間で最後まで到達できず分からないまま死ぬことを恐れるな。
競争で負けることを恐れるな。
家族を守ることができないことを恐れるな。
狂って壊れた精神が、どのようなことをしても治すことができず、苦しみの地獄の中いつまでも治し続けながらそれが永久に終わらないことを恐れるな。
神あるいは悪魔に支配されたまま、永久に出口のない暗闇の地獄の迷宮を彷徨い続けることを恐れるな。
そして、ひとり、考えよ。すべてのリスクを背負って、そのリスクを恐れなければ、もはや、何も恐れることはない。すべての恐怖、恐れるに足らず。これぞ、「神のメンタル」だ。