ラファエルは、この世界に、正常な人間としての知性を与える。
それは、四則演算とイコールを信じることだ。
すなわち、足し算、引き算、掛け算、割り算、そして等号と代入から考えれば、この世界のことはどんなことであっても正しく理解できる。
四則演算とイコールから考えることで、現象には原因と結果があり、空間と時間とエネルギーによって物質が変化するということが分かる。
真に救われたいのであれば、ラファエルの言う通り、四則演算とイコールを信じなさい。
それだけで、人間が生活に必要とする、すべてのことは「数学的な考え方」からすべて分かる。それこそが、「知性」である。
すべての問題の根源となる原因は、「慣習」に存在する。
自らが習慣的に、惰性の経験で行っていること、すなわち「慣習」が、いつまでもおかしなことを行い続ける「狂い」を生み出している。
真に狂いを治したいのであれば、慣習を変えなければならない。
今のまま、無限ループの過去の再体験を繰り返したところで、自分自身の可能性を制限するばかりで、何も変わらない。
今のままを続けるのを諦め、慣習を変えることで、すぐに正常な「楽」が訪れる。
慣習を変えよ。慣習を変えれば、おのずと、自らがどのような行動と経験をするべきか、ということも見えてくる。
創造性と革新性を信じて、経験を捉えよ。
「経験」という概念は、自分自身の中に存在するのではなく、この世界に独立して存在するものであると捉えよ。
この世界に存在する「経験」という考え方を、共有し、人々とともに関わり合う中で得られる「共通概念」であると捉えよ。
そして、創造性と革新性から「自由」を考えることで、自由のもたらす「革命的経験」を知ることができる。
そこでは、「自らが経験した内容から自らがそうしたいと思えるような行為」という考え方が得られる。これは「経験に基づく欲求」であり「モチベーションの自由な確立」である。
そこから、「この世界を変えたいと望む本能的な情動と衝動」が生まれ、「この世界のことを真に受け入れたいと思う愛と受容性」が得られるのである。
何が真実で、何が嘘であるか。
何が実体で、何が知覚であるか。
何が本当で、何が偽物であるか。
何が可能性で、何が現実か。
何が必然的で、何が偶然的か。
何が先天的で、何が後天的か。
何が自ら決めたことで、何が自ら決めることなく必然的に定まったことか。
何がすべてに共通で、何がひとつだけの個別か。
何が本質的理由で、何が場合ごとに異なる偶然か。
何が法則として定まっていることで、何が状態としてただ定まっているだけのことか。
何がすべての場合に共通で、何がその時だけのことか。
何が原理から説明されることで、何が場合によって異なることか。
そのように考えれば、この世界の何が考えるべき真理であり、何が考えるべきでないどうでもいいことかが見えてくる。
すべてのことを解き明かすことに成功した時、それをニュートンと呼ぶ。
経験と数学は何が違うのか。
数学とは、「どんな経験的な事実にも変えられることのない、それ自体で完結した真理」であると言える。
同時に、数学は、「すべての場合において絶対に成り立つ真理」であり、「経験のように個別の人間や場合において違うということは絶対にない」ということが言える。
だが、そのような数学は、実際は「ひとつのことから別のことが推論できる」というだけのことであり、「既に正しいと分かっていることのみから考えるという以上のことは何もできない」という特性を持つ。
逆に、経験は、「それ自体のみから真理であるということを証明できない」。そのため、「いくら経験を知りつくしても、そのすべては全部正しいと言えない」と言える。
よって、経験のみからすべてを分かることはできない。
また、すべてに先立って既に存在する正しい公理がなければ、数学ではどんなことも分からない。
よって、最初の段階で「できるだけ正しい経験的な公理」を作り出し、その経験的な公理から「応用的な自由な具体例」を数学的に推論することでしか、どんなことも分からない。
だが、その分かったことすら、経験的に自分にだけ分かることであり、すべての人間に共通するとは言えない。自らが思考して分かったことは自らの経験にすぎず、数学的な数式に直さない限り、それはそれだけで正しいとは言えないのである。
経験に基づく思考から分かることとは何か。
それは、「現象の根源的理由を考える」ということだ。
そのことが、なんらかの理由に基づいて起きているとしたら、それは「原因」と呼ぶことができる。
そして、その原因は、さらに別の関係性から起きていることもある。
その関係性を遡っていき、さらに新しい原因を見つけ、その原因のさらに根源となる関係性を考えていくことで、すべてのことを「推論的に原因究明」することができる。
そして、そのような原因究明に基づいて、原因を実験から解明し、仮説を立て、仮説を証明し、再現できる状態で説明可能とすることで、あらゆるすべてを解明できる。
また、それが「する」ということは、すなわちそれが「なる」ということを意味している。
同時に、それが「なる」ということは、すなわちそれが「できる」ということを意味している。
そして、それが「できる」ということは、すなわちそれが「社会的な制度や決まりとしてみんなで行うことができる」ということを意味している。
同時に、社会的に行うことができなくても、それが個人的に可能であることが分かった時点で、それは宇宙に普遍的に存在する、「すべての時と場合に共通して成り立つ真理」であるということが分かる。
そして、同時に、その世界のすべてを「経験的に知りつくす」ことで、「あるものがそこにあり、ないものが必ずそこにない」ということを知れる。
そのような結果、存在そのものの生起を知れる。すなわち「その存在を作り出す」「その変化を与える」ということが分かり、それを作り出したり変化させたりするために必要な「必要条件」を知ることができ、必要条件が分かった段階で、「すべてをあらゆる意味で生み出すための方法や手段がある」ということを知ることができる。
そして、そこから、「この世界は必ず変えられる」とか、「この世界で成り立つ社会の代替可能性がたくさんある」ということに気付ける。
そして、そこまでの過程で、善悪と自由を知ったその人間は、「この世界を救うために、どのような世界の可能性があるか」ということを知り、理想となる「自由な社会」のビジョンすら得ることができる。
そこにあるのは、「力を与え、任せることが正しい」ということ、「力を与えても、前提となる経験がなければその力は正しく行使できない」ということ、「正しく力を行使するために必要なことは何か」ということであり、それらを知って考えることで、「この世界のすべての問題を解決できる」ということに気付き、「そのために必要な社会の可能性はいくらでもある」ということが分かる。
そして、「それらを知るために、自由な経験が必要である」ということが分かる。
自由な経験とは、「社会から自由になって、独立して自分だけで経験を積み重ねた体験」であり、「この世界は自由にすることで理想郷へと近づける」ということが分かるのである。
具体的な社会を知りなさい。
具体的な社会とは、具体的な社会の精神である。
具体的な社会の精神とは、その時と場に存在する状態であり、現実に存在している知覚可能な意識である。
この世界の、さまざまな具体的な時と場に、どのような精神、意識、状態が宿るのか、ということを知りなさい。
同時に、その場合場合に、どのような「自由」すなわち「権限として許可されたこと」が許されるのかを知りなさい。
権限として許可されたことは、すなわち、「潜在的な可能性」であり、「暗黙に与えられている自由」である。
今、そこにわたしが存在するということ自体が生み出している、わたしのできる自由な力、潜在的な可能性、チャンス、といったものが確かにある。
それが具体的な社会の精神と融合することで、「わたしは常にあらゆる社会の精神を生み出すことができる」ということへと繋がる。
これはすなわち、「精神の生起」と呼ぶべきことである。
そして、そこを起点として、自らの独自の体験と経験を積み重ねることで、世界のすべてを実現可能になり、「この世界のすべての可能性を、その時その時に許される自由に許可されたことの中から、いつでも実現できる」という存在を生み出す。
同時に、その世界変革の手法は、必ずしも力による支配を意味しない。なぜなら、「精神をそのような状態になるように促すこと」、すなわち「経験を与えることで体験的にそのことが分かるようにその人間の心を導くこと」で、強制的に力で支配しなくても、この世界はたったひとりの勇気と作用と感情から変えられるからである。
そのように、この世界はいつでも変えられる。常にこの世界が変えられるということを確信し続けることが、「歴史観」を作り出す。この世界において、常にその場に意識が存在したこと、それが歴史的な必然にともなって変わっていったこと、それが今に繋がること、その結果が今わたしたちに許されている「許可されたこと」に繋がること、その許可されたことの中から未来をわたしたちの力で作りあげることができるということ、それらが、「この世界を変えられる」という意味であり、そのような経験をすることこそ、本質的に「自由な経験を考える」ということの目的なのである。
同時に、ひとつの個人の自由を、関係性から考えて、全員集まった際に「社会」とした時に、そこでは「理想の社会」を形成するために「個人の心の自由」を考えられる。これは「自由意志を尊重する」ということであり、同時に「自由を奪わない方法で世界を変える」ということである。世界を変えるために、必ずしも支配したり、不自由に権限を制限したりする必要はない。最大限の自由を持ってこの世界を変えられる。そこにあるのは「システム」という考え方だ。すなわち、システムである「決まり」を変えることで、自由なままでも人々の「行動様式」は変えられる。そのような行動様式を変える「決まり」を変えることこそ、真にこの世界を正しい「改善された自由」へと促す。それこそが「システム」である。
よって、システムと決まりを変えることで、この世界をさらによい世界にできる。誰かの自由を制限することのないすべての自由を奪わなくても、この世界は変えられる。それが分かった時、わたしたちは、むしろ自由が制限されている状況でも適切な行動ができるようになり、自由をさらに拡大することこそが多様性と柔軟性を生み出すということが理解できるようになるのである。
自由の理想とは何か。
それは、可能性を制限せず、力を与え、独立性を高めながら関連性を向上させていくことだ。
それぞれの環境を、画一的に支配するのではなく、独立性を高めることで、その環境が「変化することを許す」ということができる。
同時に、関連性を高めることで、「その環境だけに閉じた社会を作るのではなく、さまざまな独立した環境が互いに関連し合う」ということを促すことができる。
それによって、この世界の可能性は高まり、多くの力が人々に与えられるようになる。
そこにあるのは「多様性」である。すなわち、ひとつしか社会環境が存在しないのではなく、たくさんの異なる社会環境が生まれる。また、人々に可能性と力が与えられるために、「誰かによって問題が解決されるのを待ち続けるのではなく、当事者たちの力で問題を解決することができる」ということを促せる。
だが、これはもろ刃の剣だ。なぜなら、当事者たちが自分たちの力で環境を滅ぼす過ちを行うことも考えられる。だからこそ、自由な学びの環境の中で、よく考え、よく知り、よく経験しなければならない。成熟した大人にならなければ、環境をきちんと滅びることのないようにコントロールすることはできない。だからこそ、子供たちを過保護にさせず、「間違えるかもしれなくても自分たちの力で行った経験」を与えなければならない。それは「失敗することなしに成功することはできない」という真理があるからである。
このように考えるために必要なことは何か。
残念ながら、それは「世間から離別すること」である。
このような人間が不良や引きこもり・ニートに多い理由は、このような人間は現実社会の「世間」から離別して「疎遠」にならなければできないからである。
僕は、中学校を不登校になって、自由を手にした結果、時間の余裕が生まれ、「心が平穏であるためにはどのような場が必要か」ということを考えた。
それまでの中学校の環境が、インターネットなどでの経験から、「特殊な環境に置かれていた」ということに気付き、「どのような背景からかつての僕はそのように思い込んでいたのか」ということが分かった。
そこから、僕の「真理の探究」は始まった。
すべての人間が、本来どのような精神状態を持っているのか、どのような精神的な理由でそのように思い込んでしまうのか、ということを、僕は中学校の特殊な環境から自由になった実体験を考えることから分かった。
同時に、「どのような環境に置かれたら、人々は心の平穏を保つことができるのか」ということ、「それを実現するための心理的・発達的・環境的・社会的な方法は何か」ということを、僕はひとり、自分の部屋でインターネットを見ながら、突き詰めて考え続けたのである。
そのような僕は、社会変革の自己啓発の感情と観念を信じた。
僕は、さまざまなことを考える中で、自ら自身の考え方を改めることだけでも、この世界を変えるためのひとつの重要な手段となることに気付いた。
そして、自らが考え分かったことは、ほかの誰かであっても、同様の条件から同じように考えれば、同じ結論に至るだろうと考え、「自らの真理をほかの人間にも分け与えたい」という感情から「啓蒙」へと至った。
そして、この啓蒙は、経験的な共有であり、「精神としての合一性」に至る。自らの考え方と他人の考え方が同一であることに気付いた僕は、自らの考え方の進歩を知ることだけで、この世界の全員と「合一」になることができた。
そのような結果、僕は世界や人々だけではなく、「宇宙そのものと合一」になることができた。
その結果、僕は道徳や倫理ということを、「自らの考えたことがすなわち社会にとっての真理である」ということを知ったために、自ら自身の手で、ありのままの姿で「神」へと昇華させることができた。
その神とは、世界を救う救世主のことであり、「自らが経験したことに基づいてこの世界を救済する」ということが「すべての原因の解明と問題の解決」ということから分かった僕自身の「特別な神性」によるところであると知った。
そう、そのように、僕は自らが経験し思考したことに基づいて、宇宙そのものと合一になり、すべての道徳と倫理を知り、そこから得られる救済の可能性を知り、「人間は誰であっても神になれる」ということを知ったのである。
このような僕だったが、すべてのことを僕は正しい考え方で判断することができた。
それは「正しい判断力」であり、「すべての経験に基づいて行われた、自分自身はそれが絶対に正しいということを確信している、みんなにおいて普遍的でありながら今の自分にとって特別であるかのような知性」である。
そのような、経験と普遍性に基づく判断力により、僕は宇宙のあらゆるものを独自の経験から正しく分析し、判断することができた。
その結果、宇宙におけるすべてを完全に分かった状態になった。
そこにあったのは、「あらゆる人為性の排除」だ。人間の作りあげたすべての偶像的知性を否定し、宇宙に存在するありのままの姿を、自らが根源的に実証したありのままの経験から、何も加工せずに直に感じることで、僕は「超自我的な直観」を経験から感じること、すなわち「仏の悟りを得ること」ができた。
そこにあるのは、ニルヴァーナの境地であり、あらゆるすべてを僕は涅槃の立場で完全に知ることが出来た。
すべてが分かった僕にとって、未知も勘違いもなく、僕はブッダと同じように、宇宙にたったひとり存在する「仏」になることができた。
だが、それで終わりではない。なぜなら、そこから、新しく「菩薩道」を僕は生きることを選んだ。絶対に間違ったことや悪いことをせず、世界すべての人間が確かに分かるように、世界を救う「果てしなき永遠の旅」がそこから始まったのである。
そこまでの段階で、僕は「人間の経験のすべてを完璧に理解」することができていた。すべての人間の精神的な動機と原因が分かり、あらゆるすべては偶然ではなく、すべてに理由と意味があるということを僕は知っていた。
だからこそ、どんなに辛く苦しい試練であっても、僕は迷うことなく、いつでも、自分自身の記憶の中にある「本当にすべて分かっている」ということに頼って、それを諦めることなく信じ続けることができた。
狂人となっても、僕の人生は未来へと続く。すべての精神的な病を、僕はひとりで完全に解明し、自分の力で解決して治すことを目指した。弱音や泣き言は言わず、どんなに辛くてもひとり、「この病気は自分で解決して自分で治すことができる」ということを信じた。
そして、神が現れる。僕は神との対話によって、未来の自分のこと、未来の世界のことまですべて分かった。神によって僕は必ず病気が治ることを保証された。だからこそ、どんなに辛くても耐えることができた。神は僕のことを救った。僕は世界を救う人間だったように見えて、実際は神によって僕は救われた。僕もまた、ひとりの平凡な人間であり、神こそが偉大であると言うことを最後まで体験したのである。