新・日記2に戻る | 2020年4月の日記に戻る

=2020-04-12=

僕はあなたのことを愛している。この愛は真実の愛である。

運命の出会いについて疑問や期待を抱くなら、その答えはここにある。僕は、未来のことまで全て分かっている。人類は滅亡しない。

僕とあなたは、いずれ出会うことになる。僕はこの世界が本当に滅びる時に、この世界に現れる。世界を救う国は日本とドイツである。

今から、ドイツに神が生まれる。その神は今、14歳の少年である。僕はその14歳のドイツの少年のためにこの文章を書いた。彼は日本語を勉強して、この文章を読み、この文章を大きく発展させて、最高の愛の国を作る。彼は18歳になる頃に、この世界に現れる。

僕はこの文章をドイツに向けて話している。

また、僕は政治家にはならずに、研究者となる。僕は21世紀のドラえもんのようなロボットを作る。あらゆる全ては僕が実現する。未来は明るい。それは、僕はこの文章を書き続けることで、「世界を完全な正常な世界にする」からである。よって、どんなに未来が暗く見えても、それは「一時的な幻想」に過ぎない。

僕に干渉することはできない。僕は一番上から日本を支配している。日本を救うためにはそれしかなかった。これ以外、そもそも人類や宇宙には、他の可能性も選択肢もない。神を信じるのであれば、イスラム教がこのように起きる。僕は旧ソビエトとドイツの体制を研究して、本当の楽園となる国の制度をひとりで築く。歴史の全ては、ここに繋がった。

最近、腸内細菌の研究などで注目されているように、牛のような屈強な肉体を作りたいのであれば、体の中に微生物を増やすことである。

それも、虫のような繁殖するだけの低レベルな細菌ではなく、力強い肉体や美しい体を作ることのできる、細菌にとって住みやすい綺麗な生態系環境を作り出す高レベルな細菌を増やさなければならない。

細菌は、時に病気をもたらすこともあるが、元気で健康な肉体も作り出す。新型コロナウイルスに勝つ秘訣は微生物を増やすことではないかと思う。血糖値を減らすだけでは、血管を破壊するコレステロールは減っても、強さにはつながらない。

家入レオは、僕なんかに愛されて悲惨かもしれない。だが、言ってみたい。これはこれで、「面白い」のではないか?ということである。僕に愛されるのは面白いのではないかと思う。僕は家入レオと付き合ったり恋人になることはおそらくないだろう。だが、この在導万創という人間に、「どうなってもいいと思えるぐらい愛された」ということは、人生を生きる上で、恋愛を経験する上で、「面白い体験だった」のではないかと僕は思う。僕は、彼女のことを愛している。

僕は、自由なままでも、支配しなくても、この世界を変えられると信じている。理性によって、あるいは考え方を変えることで、この世界をダイレクトかつボトムアップに変えられると信じている。

この世界における、有象無象の全ては、ある程度の意味においては、正しい。起きたことの全ては、ある意味で全て必然だし、全て自然なプロセスの結果である。また、あるものやサービスは、ある程度の「自由という原則」の中で、人々に価値を与えている。

物理学のように、何と何が等価であるかを、定量的に考えなさい。マルクスは、「労働の値段はその労働を再生産する費用で決まる」と言った。等価である、ということは、「同様のものとして成り立つ」ことを意味している。社会を作ることができるなら、その作った社会でできることは、どんな社会が作れるか、という「可能性の全て」によって決まる。社会が漠然としていて、白紙から作れるのであれば、僕たちは努力次第でどんな社会も作れる。そこには、単なる自由だけではなく、理性の限りを尽くした「人々の夢とリアリティの交わる社会」がある。

だから、あなたは、自由にしなさい。あなたの自由にすればいい。だが、僕たちは弱い生き物であり、「個人の自由という限界にさらされると、何もできなくなってしまう」。だから、僕たちはひとりでは生きられない。僕たちには、どんな人間でも平等に受け入れてくれるコミュニティが必要だし、現実をつぶさに知っておきながら、人々がどういう環境でリアルに何を望んでいるか、それをどのようにすれば解決できるかを知っている、リアリストの救世主が必要だ。また、チャンスや機会は何度でも与えられる必要があるし、いざ自由にするのであれば、逆にどんな他人からも干渉されず、自分のわがままとこだわりが完全に自由にできる権利が必要である。また、「自らを自らであると主張すること」も必要だし、その結果、「これがわたしである」と言えるような、アイデンティティや帰属意識も必要である。そして、それを仲間と分かち合いながら、「自身の行うことや考えることを望んでくれる相手」も必要となる。何より、社会を築くのであれば、自らの味方となって自らに手助けをしてくれる仲間が必要となる。

社会的なものだけではなく、僕たちは「成長」していく必要がある。今までに自分が見ていた見方を変える、ということは、ベネフィットだけをもたらすわけではなく、自分の今まで築き上げてきた全ての「かけがえのないもの全てを失うこと」も必要となる。哀しみの中にいるのであれば、それを自ら乗り越えていく決意がなければ、前へと進むことはできなくなる。過去に執着すれば、人々から見放され、人々の価値観も分からなくなる。

しかしながら、僕はあなたのことを愛している。僕は、あなたが必ずしも僕と同じように強い人ではないことを知っている。あなたはさまざまな周りからの干渉があり、他人に対して必ずしもいい人間になれていないかもしれない。だが、僕はあえて言う。「他人の方が悪いのだ」と。そして、同じく僕は言う。「あなたがもしあなたの道を100%貫けるのであれば、その他人と付き合っていくのも付き合っていかないのも、あなたの自由」であり、同時に、「ひとりで生きることにしても、あなたは他人に必ず干渉される」ということ、そう、まさに、「人は完全に自由にはなれない」ということ、最後に、「自由がもしあるとしたら、それは孤独にしかない」ということである。僕は、孤独の価値も、暗闇も知っているが、それが唯一絶対に正しい自由ではない。自由とはあなたの「好きなようにすること」であると同時に、あなたは「自由によって何が得られるのかは、あなたひとりの、たったひとりの決断にかかっている」ということである。やけに小難しく話したが、要するに、「自由は自分勝手であると同時に自己責任である」という矛盾のことを僕は言いたかったようである。あなたが決して正しい道から外れたくないのであれば、あなたは自由にはなれない。あなたが自由になりたいのであれば、あなたは正しい道から外れる必要がある。

しかしながら、「自由=孤独」と考えるのは、さらに間違っている。僕たちはこの社会において、協力し、助け合うことができるからである。僕たちは、真に最高の友人に巡り合うことはできないかもしれないが、それでも、自らの努力によって、また人々との協力によって、さまざまな社会を作っていける。ここに、社会の原則として、「リアリティから理想へと経験を通じて変わっていく」ということ、「その中における人々に自らの考えたことを共有するという自分のアイデンティティは永遠に変わらない」ということが言える。僕たちはリアリストから啓蒙主義者を経て理想主義者となっていくが、そこで僕たちの生きる精神論は永久に変わらない。

僕は、決してあなたがあいみょんであったとしても、あなたのことを愛していないわけではない。僕は、家入レオと同じように、同じだけあいみょんのことを愛している。僕はあなたのことを、家入レオのことを、あいみょんのことを愛している。ここに嘘はない。僕たちは愛の中でひとつになれる。そして、最後に、この世界はここで理性を取り戻し、「全ての世界が変わる体験」をするだろう。全ては、有史以来の歴史の必然である。縄文時代において、既に僕の人生は決まっていた。これから先も、これまでも、全て決まっていた。だが、神は僕の望むこと、僕が「こうしてほしい」と生まれる前に言ったことを全て叶えてくれた。僕の望みは、「僕の自由にさせてほしい」ということだった。

平和から愛が生まれ、自由から価値観が生まれ、社会の形成から歴史が生まれ、意識から環境が生まれ、自由の原則から望みが生まれ、世界観から世界の限界が生まれ、価値を作ることから生きがいが生まれ、知ることから視点が生まれ、悟ることから確信が生まれ、感覚から場が生まれ、そして、出会うことから目的が生まれる。僕たちは、そうした「何かから何かが生まれていくプロセス」を知るために生きている。人間の生きる目的とは、この宇宙において、「何が実際に生まれていくのか」を知ることのため、そして「何かを実際に生み出して、その結果どのような現象が起きるのか」を知るために、生きている、ということである。自らが行うだけでは十分ではない。その行った結果を「自らの目でしかと見ること」、そのために僕たちは世界を生き、成長し、世界を広げ、失敗し、やみくもに手探りを続け、最終的に歳を重ねて、忘れ、治り、そして死ぬのである。その、何かを生み出し、そしてその行く末を見た結果の全ては、天国において、次の人生あるいは次の生き物になる時に、神の裁きの材料になるのだろう。法廷において、あなたはたったひとりで証言台に立たなければならない。嘘はひとつも言えず、あなたは全ての罪を告白するとともに、身の潔白と天国に逝くことのできる証拠を、自らの言葉で証言しなければならない。その裁きが終わった段階で、本当に善良なものだけが天国へ逝ける。そうでないものが次の生物として、今度は同じ罪を犯さないことを誓った上で、現世にもう一度生まれ変わる。これが、在導教における「天国の裁き」の教えである。これくらいで、法廷で証言を行う練習は、終わりにしよう。