新・日記2に戻る | 2020年3月の日記に戻る

=2020-03-21=

ここから、世界は平和になる。

ITやプログラミングについて、知りたいことや学びたいことは、もう全部知った。

新しい分野を何か学びたい。

今日も英会話教室に行ってきた。今日習ったのは、「それがあるかどうかは不確定だけども、念のために準備しておこう」といったフレーズ。We should not need it, but I'll take one, just in case.というフレーズだった。

僕は、みんなのことを愛している。あなたのことも、あなた以外の誰のことも、無条件で見返りを求めずに、タイムリミットもなく永遠に、僕はみんなのことを愛している。

僕のことは好きに愛してくれて構わない。だが、僕に見返りを求めないでほしい。特別にあなたのことだけを愛することは僕にはできないからである。

僕のことは、初音ミクのようなアニメの電脳少女だと思えばいい。実際の僕は全然イケメンでも美女でもないが、仮想世界においては僕は可愛い少女のミクである。それで、きっと愛せると思う。

また、僕のアニメキャラを作りたい人がもし居れば、歓迎する。どんどん作ってほしい。

僕は、最後に、この世界を「本当に自由」にする。

僕のすることは、「絶対的決まりを作らない」ということである。これは、何にも決まりを作らないということではない。「それぞれが自分たちで決まりや取り決めを自由に作ることができる」ということである。

一律で同じ決まりを採用することを、僕はしない。それぞれがそれぞれのやり方で、小さな単位でも大きな単位でも、どんな場合にも柔軟に、臨機応変に対応できるように、「やり方の違いを認める」ということである。

また、これは全体主義的な支配だけを意味していない。それぞれが、自分に自由にそれぞれの望みの組織に参加し、離脱し、「どんな環境でも自分たちで選び、作れる」ということを行う。

これにより、学校は自分の自由な好きなスクールに通うことができる。スクールでの人間関係が嫌になったら、そのスクールを離脱し、別のスクールに通うことも自由になる。

僕たちは、それぞれの単位を、どのような形態で行うことも自由にする。ひとりが支配しても良いし、それぞれがそれぞれの「固定されない自由な階層」を作り出すのも良いし、全員平等にするのも良い。

権力構造の維持が生まれる背景には、「自分で社会を作れない」という理由がある。自分で独自の社会を作れないから、強いものが独裁的な不自由体制を強いるようになる。自分で独自に社会環境を作れる社会であれば、不当な拘束も支配も生まれないし、戦争も争いも生まれない。どちらかの社会が嫌になれば、別の社会に属したり、自分で自由に社会を築けるようにすれば、支配された上で犠牲を強いる「人殺しの戦争や争い」は無くなる。僕は、これを「自由による平和」と呼ぶ。

そう、自由こそ平和である。この宣言を僕は、愛の国ガンダーラの宣言として掲げる。「自由こそ平和である」。

人々が成熟していく過程において、低レベルの範囲では、争いや暴力が多くなるが、高レベルの範囲では、むしろコミュニケーションと創造が多くなる。それぞれがコミュニケーションをきちんとすれば、「自然に暴力的な解決には効果がない」ということに気付き、「暴力的解決を行わなくても、コミュニケーションによって解決できる」ということが多いことを知る。そこでは、「社会を強制的支配にするよりも、相手を自由にした方が結果的に全体が強くなる」ということを知る。社会の可能性を増やすことで、土壌とプラットフォームが盛んになり、「可能性豊かな生態系」が生まれるからである。また、組織がたくさん生まれる方が、強いひとつの組織を作るよりも、結果的に強くなるのである。

しかしながら、僕は権力者や指導者によって世界が支配することを否定するものではない。強力で聡明な支配者が、この世界全てを作り変えることができる、という「究極の星の可能性」も僕は知っているからである。ひとりの専制君主が全力で世界を解決するのは、悪いことではない。しかしながら、「専制君主がひとりしかいない」ということは、とても苦しく辛い状況を生み出す。専制君主は必ずしも、全ての人間の今の状況を把握していない。専制君主に対して、意見や提言ができる人間が居ないのであれば、専制君主に意味はない。自分と対等のアドバイザーが居ること、世界の「現在の状況を知る」ことができる環境があること、それ以外の全てにおいて「干渉されず自由にできること」、「情報と透明性」があることは、多くの場合健全性と妥当性を生み出し、世界を幸福にする。

しかしながら、多くの場合において、専制君主が全てを独裁的に支配する必要はない。王のすべきことは、「社会を自由化し、可能性を高めること」に過ぎない。それぞれの社会を自由にする、マイクロカーネルの役割だけを王はすればいい。他の全ての役割を、国民が自由に行えばいい。国民をユーザーランドのアプリケーションプログラムだとしよう。だが、これだけでは、「単に自由にしろ」というだけで、必要な行政や司法の役割はないが、ここで行政や司法は自由の論理とは矛盾しないことを確認しておく必要がある。彼らはサーバープログラムであり、純粋に「国民をもっと自由にする」という意味において、さまざまなサービスを国民に提供するのである。

また、必要なのは、自由と可能性を追求することだけではなく、「社会全体を常に再設計する」必要がある。必要のない制度は消していくこと、共有されるべきサービスやシステムは共有していくこと、矛盾する構造が生まれた時は再設計することが必要であり、自由という意味に含まれているのは「再設計しやすい制度設計を行う」ことである。ここに、「シンプル・イズ・ベスト」の考え方が適用できる。シンプルな制度は再設計しやすい。複雑になればなるほど、全体は停滞し、間違った社会が生まれていく。よって、「自由な社会はシンプルでなければすぐに破綻する」。そのため、この社会においては、可能性を高めると同時に「シンプルに保つ」という考え方が絶対に必要になる。

また、シンプルに関連する考え方として、「分かりやすさ」が必要である。誰にも分からない制度設計を行うと、誰もそれを保守・管理できなくなってしまう。また、たとえば、法律による支配という考え方はシンプルで分かりやすい。守るべきことと罰則や予算が決められており、それをそのまま守れば良いからである。僕は、原則「分かりやすい法律」を取りまとめる努力をせよと言う。そして、分かりづらくなってきたら、その法律の寿命が来ている。常に分かりやすく、「全員が法律について熟知している状況を作り出せるような単純で理解しやすい法律」でなければ、法の支配も法治国家としての体制も、優れたものにはならない。

また、単に法律を分かりやすくするだけではなく、その行政による行いも、立法による法律を作るプロセスも、司法における逮捕や裁判も、同じように透明性のある理解しやすいプロセスで決められるべきだと僕は考える。全ての法律が単純で分かりやすいことと、その法律が単純で分かりやすいプロセスで決められることは、どちらも大切である。そして、「民衆の多くが反対するような法律は裁定してはならない」と、僕は民主主義における原則もあえて重要であると言う。誰かがひとり勝手に法律を決めるのではなく、できるだけ多くの人の賛同を得た上で法律を決めなければ民主主義とは言えない。よって、僕はあえて、間接民主制ではなく、直接民主制を実現したい。それはインターネットの電子投票システムを用いて、「誰もが個々の法律に投票することができる」という範囲での、「直接立法制」を導入する。なぜなら、民主主義においても首相や与党の独断によって強行採決が行われることを防ぐためには、電子システムを用いた直接民主制にして、「悪い法律まで代表の政治家の力で定めてしまう」ことをできなくする必要があるからである。

これを、新しい自由論、「在導自由論」と名付けよう。

世界、復活します

今から、僕はこの世界を、滅亡から復活させる。

そもそも、「心理学で理解して治す」ということ自体が間違っている。いくら分かっても、分かり続けても、それは忘れ続けているだけであり、狂い続けているからである。

もう一度この世界を復活させるために必要なのは「行動」を中心に据えることであり、そして「行動のためにどんな前提条件があるか」を考えることである。

何かの判断を行う上で、判断の前提条件として考えられることがある。何かを信じ込んでしまう理由は、その環境や世界で当たり前で当然だと思っているものの中に含まれる。

僕たちは、「行動と判断」をもう一度中核に据えて、この世界を「本当に良い世界にするために行動する」ことが無ければならない。

早い話、行動してしまえば、後のことは後で考えればいい。色んなことを試し、行動し続ける中で見えてくることが人生においてもっとも多い。行動しなければ意味がない。行動する人間のことを、人は賢いと言う。

戸惑い迷うのであれば、しないよりする方を選べ。同時に、一度して間違っていることに気が付いたら、もう二度としないようにせよ。同時に、二度としないと決めたことであっても、再びしたくなるのであれば、その時のする方を選べ。そのように繰り返して継続していくことで、必ず天才的才能は身につく。こうした「行動のプロセス」をがむしゃらに行う期間を、人は青春と呼ぶ。そして、一度青春を大きく経験することができた人間は、「行動しなくても分かるようになる」。だからと言って、何もしなくていいわけではない。行動の必要がなくなったら、行動する必要があることだけをたくさん無駄なく行えば良いからである。

この世界は、今、狂った心理学的な融和の鎖を脱して、もう一度行動主義者の世界になる。ついていけないものは没落し、自らの判断で全てを理解できるものだけが、ニュータイプとしてこの世界を支配し、人々を従えるだろう。ここに、「日本」は完成を迎えるだろう。