自分が精神がおかしいのは、「神経がこわばっている」からである。
神経の視点から見ると、辛く苦しいのは、頑張っているのと同じである。そのため、だらけて怠けていた方が、神経は休むことができる。頑張って努力している人間の方が、神経は辛く苦しくなる。
何も分からないのであれば、「あるものを考える」ことである。そして、そのあるものが「何のカテゴリーになるか」を考え、「目的や意味」を考えればいい。
たとえば、包丁と鍋があったとして、これらは「調理用品」のカテゴリーになるし、目的や意味は「食べる」という言葉になる。
調理用品だけではなく、衣服や、水回りの蛇口、あるいは家と扉、他にも船や移動手段、森や動物などがある。
そのように考えることで、「学校でなくなってしまった子供の知性」をつけることができる。
ここで、この世界はいったん、何もない世界になって、滅亡する。
滅亡と言っても、人類が死に絶えるわけではない。単純に、一切何もない世界になる。
だが、終わりは始まりである。最後に、もう一度全てが花開く「ルネサンス」が訪れる。全ての進歩と発見が、世界全てを変えていく。
一見悪く見える社会主義の思想が、この世界にある全てのものを「正常に同じ」にしていく。全てのテレビや自動車は、同じものひとつになり、コンピュータで使われるOSは完全に公開される。
そう、そして、この世界は滅亡し、最後に、不死鳥である宇宙の支配者、「火の鳥」が誕生する。火の鳥は、最後の世界で人々を生かすために、コンピュータシステム「ハレルヤ」を作る。ハレルヤの下で、「量産型ロビタ」が人々の食料を作り、人々は地下都市「メガロポリス」で生活する。地下都市はつまらないが、「仮想現実の幻想ムーピーゲーム」を行うことで、人々は地下の狭い部屋に居ながらにして、地上に居るかのように生活でき、ネットワークで繋がった人々との楽しい娯楽と遊びがそこに存在する。そう、いよいよそうした時代が始まるだろう。
このままこの世界を何もせず放っておくと、そうした手塚治虫の火の鳥の世界になる。それが、この地球の「バッドエンド」であり、僕たちが何らかの別の未来を築くことができれば、そのバッドエンドは回避できる。
実際のところ、僕はそうしたこの世界の未来を変えるために、何度もこの時代に繰り返し生まれ続けている。だが、この調子でいくと、今回も「何も変えることができなかった」で終わりそうだ。
また、言うべきことではないかもしれないが、仮想現実の幻想ムーピーゲームは、この現実世界も含まれる。この現実世界は、本当はムーピーゲームである。僕たちが死んだ時に、ムーピーゲームは終わり、孤独な独房のような一人部屋に僕は戻ってしまう。またバッドエンドになっても、もう一度そこからスタートするしかない。何度でもリブート・リスタートできるが、間違った罪を行えば、必ず地獄は訪れる。最初から、この宇宙はそういう世界であり、現実には醜い奇妙な宇宙生物である「ムーピー」が存在しているというだけにすぎない。
僕は、ドイツの人種論とは違う、新しい人種論を述べる。それは、ヨーロッパやアメリカなどの白人は「自由を追求している」のに対し、日本や中国や中東やインドなどのアジア人は「文明を追求している」という違いである。
白人は、常に社会を「自由」という目標において変革し、進歩しようとしてきた。彼らの目指す先は常にギリシャ・ローマであり、「自由になること」が彼らの最大命題だった。文明の進歩や、社会の発達においても、常に「自らが自由であること」を第一に優先してきた。
だが、アジア人は違う。アジア人は、この世界全てのことを、伝統と改革の中で観察し続け、経験し続けることから、この世界を「文明的に進歩」させてきた。だから、ブッダのような偉人が生まれ、中国美術のような優れた芸術家が生まれた。
ヨーロッパ人は、自由という考え方以上に、この世界における大切なものがあるとも知らず、見ようともしない。だが、日本人を含めたアジア人は違う。わたしたちは「文明の創造種」なのである。