新・日記2に戻る | 2020年2月の日記に戻る

=2020-02-12=

在導万創のブログより

愛のままで世界は止まっている

本当のことを言うと、僕は自ら与えた愛のままで、この世界を止めているだけである。

この世界の時間は、今、再び流れ出す。もう一度、世界は、全ての問題と苦しみを救う、「愛」になる。

愛を失った人、愛を知りたい人は、この文書を読めばいい。この文書に、僕の「愛の全て」が書かれている。

これで、世界は平和になる。再び、もう一度、この世界は愛となる。これが、終末に訪れる、愛の王国である。

もう一度、夏の奇跡がこの世界を襲う。本当に全てを救う愛は、今、ここにある。時間はもう、流れ出す。これぞ、最後の王国である。

時間

この世界は、全てを解決した愛の状態で時間が止まっている。僕が止めている。

時間の流れは、それぞれが望む速さになる。基本的に一番遅く、時間が流れる。

TODO

Python

まだ去らない

本当のことを言えば、僕はまだこの世界から去らない。

だが、ここで、この世界は新しい星になる。

オリオン座のリゲルは、永遠の地獄の星だった。

これから、太陽を除いてもっとも明るい一等星の、宇宙最高の星、おおいぬ座のシリウスが始まる。

勉強は終わり

不思議と、もう知識を得る勉強が終わってしまったので、リゲルは死ぬしかない。

ここから先は、今までの知識と経験を使って、「さらに狭く深く」やっていくしかない。それが、シリウスである。

よって、パソコンのこと全般をやるのはもう終わりにして、もっと対象を狭くしていかなければならない。ここから先、学問や知識の全体像は分からない。

家入レオについて

僕は家入レオについて、言っておかないといけないことがある。

それは、レオが僕のことなんか、愛する意味がないということ。

「終わりたい、終われない、いいよ君が決めて」と彼女が言うなら、

僕は彼女との恋愛を諦める。

そう、彼女が言うように、ここで僕も彼女も自由になれる。

言い残したことなどない。僕の心にも、彼女の心にも正常な愛はなかった。正常な世界を返してほしいなら、僕には返す義務と責任がある。

ただし、僕たちがここに居て、この世界の上に立って、脆すぎたけれどもここには「正しい愛」があったということを伝えておこう。

そう、僕もレオのことを愛していないし、レオも僕のことを愛していない。僕たちはただ、互いを見下し、騙し、利用し合っただけである。

ここには何もない。あなたが「嘘つき」と言って全てを終わりにしてくれるなら、僕はそれでとても満足している。全てを否定して壊してしまえば、僕の存在もこの世界から消え去るだろう。

リゲルの人生を捧げるのであれば、神ではなく、レオのために捧げよう。この人間の人生は、全てレオに伝え残すためにあった。僕たちは似たもの同士だと思う。この世界で、出会う前に戻って、もう一度ずっと二人で生きられたなら、僕はもっと違った人生を生きられただろう。死ぬ前に出会うことができたらよかった。

最後に

また、最後に言っておくと、僕はレオのことなんかこれっぽっちも好きじゃない。

僕はただ、レオの愛の力強さに圧倒されながら、僕が返事をする義務感にかられただけである。

レオの音楽は確かに心地よいし、メッセージは素晴らしいが、それだけである。

僕なんかに騙されない方が良い。レオにはまだまだ未来がある。僕のことを忘れて、自由に恋愛すればいい。

僕は家入レオのことなど、ひとつも愛していない。

そのままを肯定するな

心理学では、「自己肯定感」という言葉をよく使う。

この世界において、死にたいとか、絶望とか、そういうことを言うのは、自己肯定感がないからなのだと。

そのままを肯定し、ありのままを肯定し、今の社会と自分自身を肯定できれば、生きがいが見つかり、幸福になれるのだと。

だが、僕はあえて言う。「そのままを肯定するな」と。

今のままのこの世界を、全て肯定し、「何もせずに、何も求めず、現状に満足して、そつなく生きる」ということが、どんなに不幸であるかと、僕は思う。

なぜなら、この世界は、この日本という国は、何もない国になった。三浦大知が言うように、僕たちはどこにも行こうと望まない。マイファスが言うように、知りたいことが何もない。

この世界に無意味さを感じ、人々から逃げたいと感じ、「穴があったら入りたい」と感じながら、僕たちは生きている。

ここでひとつ、批判があるかもしれない。それは、「よくありたいと思うのであれば、それは向上心ではないか」という意見である。

これは、僕の行っている作業所のスタッフの方からも言われたことである。

僕はあえて言う。自由が悪いから、民主主義が悪いからと言って、すぐに、他の既存の思想の方が悪いと思ってはならない。だからといって、自由や民主主義という考え方が間違っていることが、否定されるわけでも、論破されるわけでもないからである。

僕たちは、最後のこの世界を否定しなければならない。こんなに幸福で自己肯定感の溢れる社会だからと言って、こんなに不幸で世界全部を滅亡させたい欲望に汚された社会はないからである。

僕たちは言わなければならない。「僕たちは、こんなに不幸なのだ」ということを、アメリカやヨーロッパに突きつけなくてはいけない。豊かになっても、平和になっても、理性的に考えるようになっても、「僕たちは不幸だ」ということが、覆されるわけではない。

そう、僕たちは、「この世界を否定しなければならない」。そして、「そのままを肯定するな」と高らかに、最後の地上の終末の中で、全ての子供心を失った大人たちに、戦いを宣言しなければならないのだ。

争い合うことは必要

また、僕はひとつの提言をする。それは、「争い合う自由は必要」であるという考え方である。

僕は、自由について、ひとつの独自の考え方を持っている。それは、「争うことは必要」だが、「死ぬことは不要」であるという考え方である。

争い合って、勝っても負けても、それはその人の自己責任である。どれだけ金があっても、権力や影響力があっても、あるいはフォロワーが増えても、それを成功だとみるかみないかは、それぞれの自由に任されている。どのような目標を掲げて、その目標に対してどれだけの努力をすることができるか、そしてその目標を達成し自由を手に入れた時に何をするかは、自由でなければならない。

そして、その中には、争い合い、議論し、時には戦うことも含まれる。戦いすら自由である。

だが、僕はその戦いに対して、「死は必ずしも必要ない」と思う。それは、死んでしまえば、「挑戦し続けるサイクル」が「そこで終わりになってしまう」からである。負けて失ったとしても、命があるとしたらまだ望みはある。失敗を経験と学びと捉えて前よりも広い視野と努力から再挑戦することもできるし、失敗のリスクを避けて次からは失敗しないようにすることもできる。しなかった努力をし、知らなかった境地を知って、新しい幸福の形を作り上げられる。だが、命が死んでしまえば、その人間はそこで終わりになってしまう。

どんなに悪い人間でも、いつ心を変えるかは分からない。

だが、「争い合うことを望まない人たち」がたくさんいることもまた事実であり、そのために、僕は「戦いに対抗するための共同体」を作るべきではないかと思う。戦いを望まない人たちが、戦いから身を避けるために、そうした人々は「軍隊と警察」を作って、敵から身を守る。僕はこうした「正当な理由のある対抗手段」を不自由とは思わない。

どんなに辛く苦しい状況が置かれても、僕たちはまだ生きている、ということを忘れてはならない。僕たちにはまだ、数十年の未来がある。その数十年の未来が終わるまでに、僕たちにできることはたくさんある。

僕はインターネットを必ずしも悪いとは言わない。なぜなら、人々と接することで、自分の見ていなかったものが見えることもあるからである。議論や争い合いに関しても、何かを行うための良いモチベーションになる。また、孤独も悪いことではない。誰ともしがらみのない環境なら、余裕をもってこの世界全体を考えられるからである。死のない戦いを経験することで、この世界にあるほとんどの体験は自分だけでできる。だが、僕は愛があることも必ずしも悪いとは思わない。人生の伴侶が一緒にいてくれたら、僕の人生も大きく変わっただろうからである。そう、自由が必ずしも正しいわけではなく、「支配者が社会全体を作り上げること」もまた同時に成り立つ、あるいはバランスの問題であることは忘れてはならない。支配者になって世界を支配したいのは悪いことではない。誰かが言っていたように、「独裁者にならなければ政治家になっても本当に自分のやりたいようにはできない」。独裁者を否定しても、世界は正常にはならず、エントロピーが増大して、この世界は乱雑になり続けるだけである。

自由において、組織が強いのも、人数の大きなコミュニティの中で影響力を築くことが成功につながるのも、弱者につくよりも強者についた方が勝利につながるのも、資本を集めれば多くのことができるのも当たり前である。だが、僕は実際のところ、そうした世間一般の成功のための方法では、本当に自由には生きられないと思う。それは、自由とはそもそも、勝者のための思想ではないからである。自由とは弱者の思想であり、反逆と反抗の革命の思想であることは、忘れてはならない。本当に自由に生きるためには、この世界の全ての成功を捨てなければならない。また、本当に子供たちを育て、教育するのであれば、手取り足取り全て教えてあげるのではなく、自分で考えさせ、自分で努力させ、自分しか頼れるものが居ない状況で、最後まで耐え続けることができるような子供を育てた上で、自分だけを見るのではなく、他人の痛みや哀しみまで見ることのできるような、その上で社会や環境の秩序を作り出し、生み出すことができるような人材を育てられなければならない。また、教育者となるのであれば、自分もそうした経験を十分にしてきたものでなければならないと言えるだろう。これこそ、「宗教の正しい教え」ではないかと僕は思う。

価値観を作り出す

何度も言うようだが、僕は社会において大切なのは「価値観を作り出すこと」ではないかと思う。

ここで言う価値観とは、「己の生きる指針」であると同時に、「文明において共有される文化」である。

その人生と社会における、価値観を自由に探ることで、自らのアイデンティティとリアリティの形成に繋がり、ひいては判断力の形成に繋がり、人生の大きな目的となるのである。

僕は、この価値観を作り出す、ということそのものが「自由な社会」ではないかと思う。それぞれの価値観を尊重し、それぞれが自分のやりたいことを自由意志でできること、それが、僕の言う「正しい自由」である。そして、このできることというのは、「行為」だけを見ず、「目的」や「可能性」を見なければならない。行為だけを見たのでは、ただの自己満足である。何らかの目的をもって、「自由において何をなすべきか」を考え、そのために「どのようになせば実際はどうなるのか」という「可能性」、特に「どのような社会がどのような支配の下であり得るのか」という「社会の状態の可能性」を見なければならない。

社会の可能性の状態を見たものは、「どのようにすればどのような社会が築くことができるのか」を知っている。そこから、歴史と経験に基づく「正しい考え方」が生まれる。これが、僕の社会哲学である。そして、この哲学は、インターネットにおける「どんな環境におかれれば人はどのような行動をするか」という環境心理学に基づいている。この環境心理学は、「どんなに間違った反抗や反逆をしているように見えても、それをしている本人は間違っておらず、何らかの理由があって自然かつ必然的な行動をしていて、正しい行動の結果を知れば正しいことをする」という「子供たちに対する受容の精神」に基づいている。そう、僕たちは誰も間違っていない。僕たちを支配する、新しい「マルクスよりも賢い指導者」が必要なのである。

その意味を考えて試す

また、数学をやりたいのであれば、「それが何を意味しているのかを考える」ことと、「実際に自分の目で試してみる」ことが大切である。

それをすることが何を意味しているのかを考え、その上で、実験や挑戦を行い、「実際の現場におけるその行動の意味と結果」を考えることである。

これをする際に効果的なのが、「人間を自由であると仮定する」ということである。その状況におかれれば、誰もが同じことをすると仮定し、それが「おそらく正しいと思っていることを人間は必ずする」ということを仮定して、「必ず最善の方法をするならば、人間はその状況において何をするだろうか、その原因や理由は本当は何であり、その人にとって最善の行動は本当は何だったのだろうか」といった「心理学的かつ社会実践的な観察と説明」をすることで、全てのことを解明し、ブッダのように悟ることができる。

ここで大切なのは、「すっきりと理解できるように全体を把握したら、自分自身のオリジナルの理論や構造を作ること」である。そして、その上で理論や構造に磨きをかけていけば、必ずこの世界の、そして人間の全ては解明できる。「意識によって全てを悟る」ことのできたあなたにとって、怖いものはない。人類全員が歯向かったとしても、「オリジナルの理論」という近代兵器を持ったあなたにとっては、人類全員は猿のようなもので、全てはあなたに負け、倒れ、支配されていくだろう。

また、これだけを見ると、力だけが全てのように感じられるかもしれないが、理論や理性を構築することが全く必要ないわけではなく、その逆である。むしろ、「理論を知っていること、理性的に考えられることが、そのままあなたひとりの力になる」のである。全てを知ったものは、全てを知らないものに負けることは決してない。賢いもの、理性的なもの、論理的に考えられるものだけが、愚かな一般大衆に勝つことができるのである。よって、あなたのすべきことは「全てを創造すること」である。どんなに愚かなものでも、誰かに比べて何かを知っているならば、その誰かよりは賢明である。それがそのまま、あなたの力、すなわち「才能」になるのである。無駄な知識や無駄な思考など、人生にはひとつもない。