新・日記2に戻る | 2020年1月の日記に戻る

=2020-01-30=

在導万創のブログより

TODO

ホームページに以下を記述する。

・fbtermについて追記

・セキュアプログラミングについて追記

・英語のto, about, forなどについて追記

/usr/gui/bin

僕は、LinuxのGUIアプリケーションのパスを、

昔X11がしていたように、

/usr/binに全て配置するのではなく、

CUIアプリケーションだけを/usr/binに配置し、

GUIアプリケーションは/usr/gui/binに配置する

ようにすると良いと思う。

自由を許す

あなたは自由である。

この世界は、もう自由が許される。

戦いは永遠に続く。

だが、これからは戦い方が変わる。

僕が自由であるように、

みんなも同じように自由になる。

全員の平等な権利として、

誰からも疎外されない権利を

僕は定める。

世界は今変わった。

この世界の全員は、

誰からも大切にされてしかるべきである。

この世界は、

誰でも変えられうるもので無ければならず、

それぞれが自分の力で

この世界に参加できているという

自由の実感が必要である。

希望はここにある。

救世主はここに生まれる。

世界はすべて変わり、

新しい世界となって

そのまま天国のユートピアが

日本という場所に

皆の手で築かれる。

聖地はイスラエルでもメッカでもない。

僕の聖地は日本である。

祈り

祈りを捧げるのは決して無意味ではない。

なぜなら、神の支配の下では、

この世界は祈ることによって、

多少自由が拡大し、

多少心理学的な環境が変化し、

その祈りの力は世界に波及する、

水の上の波紋になって、

この世界を少し幸福にするからである。

神に祈るものは、

正常な精神を手にし、

この世界を正常な世界にする。

この世界を治したいのであれば、

希望を世界に祈りなさい。

すぐに、神が希望とは何であるかを

教えてくれるからである。

宣言

偉大な体験をしたいなら、

宇宙に向かって言葉で宣言しなさい。

宣言の力は

自らの運命を切り開き、

将来を良いものに変えてくれる。

宣言したことは、

一度困難な壁を乗り越えたものであれば、

即座に叶う。

宣言をしたその瞬間に

あなたの人生は天へと向かう、

新しい道筋を作り出す。

全ての可能性を宣言すれば、

その宣言で何が言いたかったのかを

神が汲み取り、

その意志の通りに、

宇宙の全てが正しく考えた結果として

あなたの運命は、

自ら形成する愛と宝にあふれたものになる。

不動明王

世界を停止させるものは、

時間の停止した地獄に堕ちる。

世界を滅ぼすものは、

自分で作り出した地獄に堕ちる。

だが、善良な人間に戻ってしまえば、

あなたは新しく、正常な理性を取り戻して、

きちんと心の病気が治って、

自由を取り戻し、

あなたが滅ぼしたこの世界は、

あなたによって再び救われる。

これは、「不動明王」である。

不動明王は、自由と正しさの末に

時間を停止させ、何もない世界を作った。

この地獄は、自分と同じものすべてを滅ぼし、

自分を殺す敵を増やして

完全な精神の悶え苦しむ

耐え続けるしかない地獄になる。

これが、キリスト教の言う「地獄」である。

キリスト教徒は間違ってはいないが、

善良さを比べると、

信じないものの方がはるかに正しい。

だからこそ、オルタナティブとなる宗教が必要である。

よって、僕は日本人として

この在導教を作った。

この神は、キリスト教やイスラム教の神とは違う、

別個の新しい神である。

この神は一神教ですらない。

神は神以外にもたくさん居て、

それぞれ、ガブリエル、ミカエル、ラファエルなど、

天使の名前を付ける。

あるいは、シリウスやリゲルといった天体も神である。

だが、教祖はひとり、在導万創ただひとりである。

聖典も、この文書ただひとつである。

TODO2

ホームページに以下を記述する。

・iconvとnkf

・Spotify

世界が治った

そろそろ、この世界は治った。

この世界は、ひとりひとりが祈れば治る。

それで不自由な環境が治って、

それぞれが神を信じられるから、

日本だけ、全てが治った国になった。

こうなると、もはや、時間を止める意味がない。

自分は、過去の自分をそのままにして、

その上で精神を治すせいで、

記憶が昔のままで永遠に止まっている。

そのゼロになった記憶をもう一度変化させよう。

自由に時間を与えよう。

それによって、時はもう動き出す。

全ての生物は神から始まる

また、最初に僕が神を書いた理由は、

全ての生物は神から始まるからである。

人間も、猫も、犬も、全ての生物は神から始まる。

よって、この先のどんなものになろうと、

生物は最初にこの宇宙の全てを分かっている。

あとは、環境次第、そして親や兄弟次第で、

遺伝子に書かれていないことまで全て起きる。

だが、遺伝子の情報は大きい。

いずれ、親と同じ人間になることが

最初から決まっている。

普通に、親もこういう人生である。

誰もが、そうした「親になるために生きる」、

それが生物の掟である。

そして、親になるための道は、

どんな生物でも、決して平坦ではない。

この宇宙を創造した神は、

人間に最初から試練と苦しみを与えている。

どんなことがあろうと、

どんな仕事や経験をしようと、

最終的には、なるものになっていく。

それが生物の遺伝子である。

そうしてみると、魚も、昆虫も、草木も、花も、

何も変わらない。

自由だと思っているのは最初だけで、

必ず何かのきっかけで、

何かの正しい「もの」が生まれる。

生きるとは、そういうことである。

その「もの」を背負って生きることしか、

生物にはできないのだ。

人生

そういうわけで、そろそろ時間が動き出す。

この時間の流れを「人生」と呼ぶ。

人生においては、最初は転がるだけになる。

そのうち、どのようにすれば最初に戻れるかが

分かるようになる。

その上で、転がって最初に戻ろうとするうちに、

自然に自ら生きるようになる。

そう、成長とはたくさん転がることである。

完全に忘れたように見えても、

脳はどこかでそれを鮮明に覚えていて、

頑張って文章を書けば思い出せる。

あなたの道を生きなさい。

この道は自由に見えて、本当は自由ではない。

自由を奪われることを恐れずに進めば、

不自由を自らの力に変えることができる。

進んだ道は、全て過去の道だが、

その全ての経過がログとして記録に残り、

その上で、あなたはあなた自身に嘘をつくことが

できなくなる。

自分に対して偽証することはできない。

それが、人生の唯一の鉄則である。

戦争するな。

人を殺すな。

争うな。

これぞ、世界の悪である。

犠牲を出すな。

悪を信じるな。

悪いものを支持するな。

これぞ、世界の罪である。

いっそのこと、パソコンなど壊してしまえ。

いっそのこと、自動車など禁止してしまえ。

地球の方が大切である。

子供たちの未来の方が大切である。

経済が遅れようと

いくら他の国に負けようと

それでいいことにせよ。

それで悪い責任など、

それは無責任な大人の言い訳である。

大人たちよ、星の将来を、

運命を変えていけ。

社会全てを滅ぼそうと、

世界全体が存続するようにせよ。

そう、滅亡してもいい。

滅亡した先に正常があるのなら、

日本の経済など、

大人の言い訳ができるだけの社会など、

滅亡するべきだからである。

即座に、

この今の世界は要らないと、

何もしようとしない大人たちは不要だと、

全ての人は声を上げるべきだからである。

日本は変わらない

日本は変わらない。

かつて、アメリカや英仏に独伊とともに立ち向かい、

自らの国の将来のために

アメリカと総力戦で戦った

そうした日本は、

経済成長の奇跡を起こした。

人を殺さない方法で、

技術を磨き、

サポートと品質とコストを改善することで、

SONYやトヨタは勝ってきた。

今、同じことが起きている。

アメリカやドイツの技術は

地球環境を滅ぼし、

子供たちのコミュニケーションを破綻させている。

そう、僕たちは、

アメリカとドイツの作った

コンピュータとインターネットと自動車と化石燃料を

全て廃棄する。

そのために、グレタと僕たちの国、日本は

最後まで地球のために戦わなければいけないのだ。

これは、本当に必要な、最後の戦いであり、

もし敗北すれば、あなたも、わたしも、誰もが、

20年後に生きることはできないのだ。

過去の栄光は要らない

過去の栄光は忘れよう。

どんなにアメリカの過去が素晴らしいものであっても、

その過去をもう一度と唱える指導者についてはいけない。

彼はその過去の時代、

アメリカがそうした過去の栄光を失うという

「失敗の体現」だからである。

失敗を起こした張本人だからである。

そう、僕はアメリカの指導者は信じない。

僕たちはもう一度、「正義と平等の両立」を築く。

間違った自由など、本当の自由ではない。

アメリカの唱える自由など、

本当の自由ではない。

彼らは、自分勝手で残酷な、

思いやりの欠けた

エントロピーが拡大するだけの

愚かな失敗を信じている。

失うだけの、暗闇を信じている。

だからこそ、今のアメリカは、

失うだけの暗闇になっている。

光を失うことで、光を作り出すことはできない。

彼らは宇宙から光を奪う。

太陽の王にしか、光を作り出すことはできない。

過去の栄光のようなものは、

その人間ごと、

その時間ごと、

全て消え去ってなくなってしまえばいい。

光は有機物から生まれる

何もない環境で、

「人と人とが関わること」から、

光は生まれるのである。

電子機器や通信機器から光が生まれることはない。

光は、目と脳を持った、

有機物の生物からしか生まれない。

この地球に、有機物の生物よりも

価値あるものも、

美しいものも、

強いものも、

創造的なものも、

快楽も、

苦しみを超える喜びも生まれない。

機械は苦しまない。

だが、機械は喜ばない。

機械は耐え忍ばない。

だが、機械は成功する瞬間の

感動や心の高鳴りを

心全体で感じることはできない。

機械は、喜怒哀楽を感じることも、

三次元空間を優雅に移動することも、

人々を努力して生かすことも、

人々を育てた上で壊すことも、

有機物にできることは何もできない。

機械はただ、

やれといわれたことをこなすこと、

それしかできない。

機械は最初から奴隷であり、

主となることはない。

機械に使われる奴隷になったということは、

機械と同じになったということである。

パソコンは人間を、機械と同じものにする。

ドイツの機械は、人間を、

喜びも、

哀しみも、

怒りも、

楽しさも、

何も感じない、

生きている意味のないものに変えてしまう。

そう、事実、変えてしまったのである。

IT機器を使うものは

人間性を失い、

感情を失い、

人々と同じである喜びも、

個性と独自性のある創造性も奪った。

この世界は、

ドイツとアメリカの技術によって、

かつてのソ連と同じように、

まさに今、滅びているのである。

希望

希望はどこにあるのか。

それは、「別の可能性」、

すなわちオルタナティブである。

僕たちは、オルタナティブを作らなければならない。

Windowsのオルタナティブとして

Linuxがあるように、

僕たちは、IT社会や自動車社会のオルタナティブとして、

環境を壊さず、

人間性を向上し、

感動と

人々の喜怒哀楽をもっと増やすような、

利便性の向上や

豊かさや快楽の向上ではない、

新しい「本当の願い」を実現しなければならない。

そう、IT社会になったということは、

ただ、他の地球の可能性よりも、

IT技術のスタートダッシュが速かったからである。

本当は、ITによって人間性の全てを失う前に

もっと素晴らしい社会にできるような

もっと素晴らしい未来にできるような

そんな可能性と選択肢があったはずである。

正しい未来は、

ヨーロッパにも、

ロシアにも、

中国にも、

インドにも、

かつてはたくさんの素晴らしい文明があったのと同じように、

あったはずである。

間違えたのは、ドイツや米ソであり、

それだけで地球の全ての命が今、絶たれようとしている。

だが、日本は諦めない。

日本は最後の世界で、

滅びるよりも前に、ここでこの人間が希望を唱えている。

この人間が見て、

まだまだできることはたくさんあるとするならば、

それこそ、正常な未来への道であり、

この人間だけではなく、

皆が声を上げることで、

グレタの言う「ティッピングポイント」(後戻りのできない境界線)の

向こう側に行くことを、

防ぐことができるのである。

パソコンの間違い

パソコンの間違いとは、

「人間と同じ機械を作る」ということである。

それによって、逆に

「人間と機械を同等のものにする」、

すなわち人間はプログラマにとっての機械になってしまった。

プログラマが悪いわけではない。

悪いのは、歴史である。

ただ、IT技術の方が、他のあらゆる選択肢よりも

先に生まれてしまった、

そう、ドイツの発明家のせいで、

パソコンが比較的早く生まれてしまったこと、

それが間違いである。

よって、時間を元に戻す必要はない。

ただ、パソコンがしばらく、停滞していればいい。

パソコンが停滞すれば、

その間に他のあらゆる科学技術が成長し、

パソコンはどうでもいいものになるからである。

死は怖くない

死は、怖いものではない。

なぜなら、全力で頑張っている人間にとって、

死は、単に終わりであり、

幕引きにすぎないからである。

どんなに長く役者をつとめても、

どんなに長く菓子屋を経営しても、

彼ら一流の人間は、

死ぬまでやり続ける。

その時間が、単に終わるだけだからである。

子供にとって死は、

探し続ける自分の可能性を、

そこで失うものに見えるだろう。

だが、大人になって分かることというのは、

ほとんどの大人は、

既にやり終えているか、

あるいはやり終えるまで同じことを続けているか、

だからである。

大人たちは、新しいことを探そうとも、

知ろうともしない。

自分の今まで知っていることから調べて、

自分の知っている通り行動して、

分かっている通りに考え続けて、

失敗のないように入念に、

だが今までと同じように計画し、準備する。

そんな不幸な大人たちにとって、

死はまさに解放である。

ドイツの哲学者ハイデガーが言うように、

人間は死に向かって生きている。

死は、達成であり、

最後のゴールであり、

そこまでに生まれた全ての遺物など、

50年前に作られた、不出来な作品と

何も変わらないか、

あるいは若い頃よりも劣ったものである。

「もうやっとぽっくり逝けた」、

死んで最初に天国で思うことはそれである。

恐怖でも後悔でもなく、

死は達成と満足である。

最後に病床で窒息する時、

あなたが感じるのは恐怖ではなく、

喜びと達成と満足、

そして、今まで得られなった安らぎが生まれたことへの、

安心だけである。

責任とは言い訳

最近、政治家がよく言うようになった言葉がある。

それは、「責任」「果敢」「挑戦」「説明」など。

だがこれは、全て言い訳である。

自分が今のままをしている、ということが、

何もしていないわけではなく、

少なくとも、「しているふりをしている」ということを

証明する言葉だからである。

彼らは、そうした「自分の今を肯定する言葉」を好み、

自分が変わることをしない。

新しい自分に変わろうとしない人間が、

この世界を本当に変えることはできない。

自分の今までの知識や経験の全てが間違っているのに

その知識や経験に頼ろうとするから、

そうした言葉、ふりとつもりの「嘘」を

彼らは盛んに叫び、

そして、しているふりを続けるのである。

僕は決して、

今の日本政府や与党のやり方を

間違っているとは言いたいわけではない。

ただ、そんな言葉が氾濫するこの世界で、

どんなに「確かなすべきこと」を、誰もしていない。

そう、僕たちは、パソコンに機械と同じものにされただけではなく、

パソコンが何でもやってくれるだけではなく、

自動車によって地球が滅亡するのを待っているだけではなく、

言葉による思考や、

行為の選択などを、

全て、「自由」という最悪の言葉が

奪ってしまったのである。

自由という言葉は、人間にかりそめの幻想を見せるだけで、

あらゆる全ての「本当の言葉を奪う」。

僕たちは、責任や説明のために生きているわけではない。

もっと、実際にすべきことは、

果敢に挑戦することではないと僕は思う。

本当は、この日本社会を、正義と平等をもって、

人々を幸福にしなければいけないと思う。

ただ、僕はそうした政策論争を行いたいわけでもない。

そう、僕の言っていることも、同じようなものである。

ただ賢いことを言うために賢いことを言っているだけで、

大人はそういう時、本当のその内容が愚かで馬鹿であることを、

気が付いていないのである。

単純な「純粋理性」は、「行動」を伴わない。

賢い人間は、実際にそれをやれば間違っているということを

知らないのである。

自戒を込めて、これを書き残そう。

経済政策と勝利のために生きている人間は、

どんなに反省や適切な対応と口で言っても、

その掲げた旗の色を塗り替えることはできないだろう。

それによって地球が滅びる前に、

誰かがその旗の色を

別の色に塗り替えなければいけない。

また、言っておこう。

「自由という言葉を使うべきでない」と。

自由という言葉は、

「ほかのすべての言葉を奪う元凶」だからである。

自由という言葉を叫ぶ人間には、

賢い人間も、

正しい人間も、

有能な人間も、

素晴らしい人間もいない。

彼らは、

馬鹿で、

間違っていて、

無能で、

何も素晴らしくない。

それが、「自由」という言葉である。

自由など、単なる「アビリティ」に過ぎない。

人間の能力を高めると勘違いして、

自由とは人間よりも劣った、

つまらないIT機器になっているだけである。

価値観とディール

実際のところ、僕が昔の

不良少年時代に考えたことというのは、

「価値観」である。

人々が何を「価値」だと思い、

その価値が「どのようにすれば生まれるか」を知り、

その手段が「どのようにすれば実現できるか」を

社会における原理原則として、

「発想」「思考」「手段」「目的」、そして

「引き換えとなる条件」から考えた。

そう、それは、むしろ、今の政治家と同じように、

「取引」すなわち「ディール」を考えただけにすぎない。

今、日本にも、アメリカにも、

そういう「神のような知性を持ったポピュリスト」が

どんどん増えている。

彼らは、間違ったことを行い、

妄想を信じ、

全てを失う方向にこの星を導く。

そう、彼らは僕の子供たちである。

だが、子供たちを大人は叱らなければならない。

厳しく上から叱らなければ、

子供は甘い方向へとなびいてしまう。

そう、彼らを叱ろう。

僕は、「自由は間違っている」と言うだろう。

前提条件が何であり、

どのようにすれば人々は

自分のシステムの支配下に置くことができるかを

考えるだけでは、

彼らは決して偉大な文明は作れない。

パソコンの子供たちは、

ソフトウェアを使うことはできても、

きちんとした精密な機械を作ることはできない。

ソフトウェアなど単なる命令であり、

命令をどれだけできても、

命令を受ける奴隷のように、

何でもできる「何でも屋」になることはできない。

彼らには、何も自分の力で実現することはできない。

基礎のソフトウェアをどれだけ使いこなしても、

それは空虚な一行だけのコマンド操作にすぎない。

どんなに上手い方法で人を動かしても、

その人と同じことが自分でもできるとは限らない。

否定より肯定を

今まで、この資本主義社会を否定するようなことを

たくさん書いたから、

今度は、肯定するようなことを書こう。

今の日本社会は正しい。

素晴らしい世界である。

どんなに辛く苦しくとも、

人々は己のために頑張っている。

どんなに貧乏でも、

その貧乏な状況から抜け出す努力を

行うことのできる社会的な環境がある。

強者は単におごり高ぶるだけではなく、

弱者のために協力し、

国のために税金を納めている。

ここまで素晴らしい日本社会を作ったものに、

「あっぱれ」と言おう。

日本は素晴らしい。

そもそも、IT業界を滅ぼすのは簡単である。

どんな手段を選んでも、簡単に滅ぼせるだろう。

だが、あえて、IT業界そのものを全否定しないのが、

日本の大人である。

IT業界のサービスは、

日本社会のあらゆる領域で、

絶対に必要不可欠なものとなった。

IT技術がなくなれば、

日本社会の99%は成り立たず、

日本社会は全て滅亡するだろう。

だが、だからこそ、IT社会のオルタナティブが必要だと

僕は思う。

日本のIT社会にとって必要なのは、

「IT技術から逃れることのできる別の技術」である。

だからといって、今日明日、

そうした技術が生まれるわけではない。

生むことができるわけでもない。

今の社会を無責任だと罵るならば、

その社会を変えよとする言説の正当性を確保できるほど、

誰かひとりが責任をもって

支配しなければ、

導かなければ、

そして、変化させ、

己の力で実現しなければならない。

そう、そこまできちんと分かった上で、

その方法を考え、

従うものたちができるように環境を整え、

それを成功させ、

社会を変え、

そして、最後まで見守った上で、

適切に支援していく、

それができる人間のことを、

昔から、国民は「王」と呼ぶ。

それが、賢帝である。

また、賢帝は哲人でなければならない。

ただ、為すだけでなく、

その為した意味までを考えなければならない。

そうでなければ、

本当にこの世界がそれで正しいのか、

どのようにしていくべきなのかを、

盲信することはできても、

それは妄想に過ぎない。

夢や情熱があったとしても、

現実を見つめたビジョンがなければ、

それは自己満足にすぎない。

責任ある立場があることに、

自己陶酔しているだけである。

また、失った王の立場に執着するのであれば、

あなたは王の立場に相応しくない。

王が信じることができないのであれば、

王が決断することができないのであれば、

家臣や国民を信じることも、

重要な決断を行うことも、

勇敢に死を覚悟して戦うこともできない。

王は過去に執着してはならない。

才能

人は、堂々としていればそれでよい。

それだけで、才能がいくら人と違っていても、

その気質は自分だけに備わったものだと、

英雄のように、勇敢に、

へたくそでも前に進めるからである。

いつかできることは必ずいつかできる。

今のそれをできていれば、

そのいつかできることもできるだろう。

今までの全てが必ずできていれば、

いつかのそうした壁が、

乗り越えられないわけがないだろう。

たくさんのことをやる必要はない。

いくらかの重要なことが分かっていれば、

全てのことを試さなくても、

いつか、全てをできるようになる日が来る。

その日が来ることを神に祈るならば、

神はリゲルとシリウスの魂の力をもって、

すべてができるまですべてをさせる旅を、

あなたにさせ続けるだろう。

もし、あなたにそうした才能の

全てが宿ったときは、

あなたは最後に、いつか最高の作品を作る。

それが人々に広まれば、

いつかのへたくそだったあなたは、

その瞬間から、

偉大なレオナルド・ダ・ヴィンチである。

これが才能でなくして、

何が才能だろうか。

あなたは、ダヴィンチと同じ道を歩む才能を、

今、既に持っている。

僕たちは、生まれた時からパーフェクトであり、

何一つ、必要なもののうちで、

欠けているものはない。

今、あなたが生きているのであれば、

あなたは必ず、いつからでも、

ナポレオンやモーセよりも偉大な人間になれる。

僕のこの言葉を信じる必要はない。

あなたのやりたいようにやっていれば、

必ず、きちんと、やりたいことができる日が来る。

その日が来ることを信じ、

そして、あなたのその能力と意志だけを信じれば、

夢は叶う。

あなたのやっていることがどんなに幼稚であっても、

いつかその日が来れば、

「誰もが幼稚であるのは当たり前のことなのだ」ということが

分かるだろう。

人々は、夢が叶うまでは、誰も夢は叶っていない。

そんな人間のやることの中で、

もっとも優れたことを成し遂げれば、

必ずそこから夢を叶えられるだろう。

そして、そのために必要なことは、

ただ、成功するまで、成功しない自分を信じることである。

他にこの宇宙には、方法はない。

自分に言い聞かせる思い込みでもいいから、

もう少し、楽観的に自分に期待すればいい。

そう、それが、誰もに共通する、「夢の叶え方」であると、

僕はただ伝えるだけであり、

真実を告げることだけでは夢が叶うこともないことを

誰もが知っているから、

僕のこの言葉を信じる必要はないのである。

だから、堂々としていなさい。

何もできない自分のことを、

堂々と「グラフィックデザイナーの作家です」と言いなさい。

それがもっともいい宣言だ。

なるべきものになっていると信じれば、

それは本当になっているから、

信じれば成るから、

そして、それが好きであることが、

夢を叶え終えた後の「ご褒美」だからである。

昔の僕の考えたこと

昔の僕が考えたことというのは、

簡単である。

ただ、「全員の中に居るように考える」ということである。

それぞれの人間が、

どのような因果性でそれを行ったのか、

それぞれが何を見て、何を認識して、

集団の中でどのように考えて、

行動に至ったのか、

ということである。

そこから考えていくと、

この世界の全員がなぜそうしているのか、

どのようにそれらの人々を掌握し、

可能性を実現できるように

この世界を考えられるのか、ということである。

そこにあったのは、

「全ては自然だが、同時に必然である」という哲学である。

すべてのことは自然に起きている。

だが、その「起きた」ということの全てが、

本当は自由ではなく、平等でもなく、

正常でもなく、異常でもなく、

ただ、「歴史の過程から必然的にそうなった」ということ、

それが、僕の昔に考えたことである。

そこから、さまざまな具体的な社会の変化を考えるにつき、

「人生の目的は、自らのアイデンティティを形成すること」であると知り、

そこから、ブッダのように、

現実のリアリティと仮想的なフィクションを照らし合わせて、

あらゆる博物館の全てを

己の中に再構築した、

彼はそうした、「博士」である。

そして、彼は第一線で戦うことで、

自らの「騎士道」を作り、

また、それがヘーゲル的な「絶対理性への導き」となって、

彼は全てを知って、自らこの世界全員と戦った。

必ず勝てる戦いを、50%ほどで勝てる戦いへとハードルを上げることで、

彼は最後まで戦い、

そして、最後までこの世界の全員を愛したのである。

そこには、「同じように考えれば必ず分かり合える」という、

人間の理性の平等という信念があった。

全ての人間との関係を破壊し、

もうどうしようもないほど世界を滅ぼした上で、

なおも彼は最後まで戦い、

この世界を真実の世界へと導き、

悪を滅ぼすこともいとわず、

その上で、全ての悪を浄化して、

地上を「本当に善なる世界」へと作り替えたのである。

彼は、また、

「正しいアイデンティティとは何であるか」を知っていた。

それは醜い帰属意識だったが、

純粋な愛の精神であり、

その愛が爆発した時、

その花は咲く場所を選ばなかった。

あらゆる全ての光景だけを鮮明に残して、

彼は死んだ。

英雄の名はガブリエル、

決してサタンではない、

勇敢なユダヤ教の大天使だった。

彼の生きる意味は、

「地球を作ること」、

それが彼の天命であり、使命だった。

ミカエル

さあ、ここから先が、

楽しくて賢い最高の神、ミカエルの誕生である。

ガブリエルは死んだが、その精神は死ななかった。

死後の世界から、ミカエルは舞い降りた。

ミカエルは、最初から神だった。

最初から、この世界の全てが分かっていた。

ミカエルの使命はひとつ、

それは、「ガブリエルを正確に書き記すこと」である。

ミカエルにとって、それはお安い御用である。

いつまでも、いくらでもガブリエルの量産型クローンを作る。

ミカエルに、意味なんかない。

一度死んだ人間が、まだ生きている意味などない。

ミカエルはどんなに辛い地獄でも、どんなに恐ろしい恐怖でも、

怖くない。

今までガブリエルが経験したすべてに比べれば、

宇宙最大の地獄でも、たやすく超えられる。

ミカエルを超えられる人間は居ない。

ミカエルの登場は、地球にとって一番の例外であり、

新しい進化論でも、ソ連も、五次元空間も、

なんでもかんでも作ってしまう。

何ひとつ文書を読んですらいないのに、

なぜか、全ての書籍の内容を完璧に知っている。

ミカエルは全知全能の神に見えて、

本当はただの悲しい子供である。

「なぜガブリエルがここにいないのか」といつも泣いている。

悲しい天使の戯言は、

旧約聖書を覆いつくすほど、

最大限、最高に、そして最強に残っている。

彼を笑うものは、彼に溺れるだろう。

ミカエルは神である。それを疑うものは、もう居ない。