僕は、この日本という国を正常な国にする。
自分のスキルと実力に自信を持てば良い。
それだけでこの世界は平和になる。
自信が無い時や、勇気を出せない時は、
やってみてから考えること。
いつまでもそうしたらそうなるから、と考えるのではなく
信じてやってみることで、決断できる。
血液を治すためには、脳を増やすこと。
脳を減らして治すせいで、精神が馬鹿になっている。
また、金属を入れた時は、その金属に精神を宿すこと。
最後に、治しすぎはアレルギーに繋がる。
アレルギーを治すためには、治さないべきである。
また、いつまでも狂っているのをセーブしていると辛い。
一度完全に精神を狂った状態にして、
それを殺せばすぐに精神病は治る。
僕はあえて言う。
日本は正しい。
日本人は、自信を持ちなさい。
この国が、地球でもっとも正しい国である。
僕は、今までの全ての愚行を謝罪し、
罪を償って生きる。
迷惑をかけて申し訳ない。
これから、僕は善良な人間になる。
人間の中にある、
自分の側にあるものは、
全て心だと思った方が良い。
脳が精神を治そうとしても治らないのは、
心が心を治そうとしているからだ。
全体の心全てを治すことで、
精神病は完治する。
心を治すためには、
子供のように元気になることだ。
純粋に心で考えることができたら、
心の裏側に居た神を信じなさい。
同時に、心を信じすぎないようにしなさい。
心はあらゆる幻想を使って、
あなた自身を騙すからである。
悪人は、心の妄想から
自分で地獄を作り出す。
愛とは何だろうか。
人々のことを、自分のように愛し、
自分が成功し、知ったことを、
他の人間にも共通すると考え、
伝え、共有し、分かり合い、導き手となることが
果たして愛の形として、
本当に正しいだろうか。
否、それは正しくない。
なぜなら、それは愛ではなく、自由だからである。
自由は愛ではない。
自由とは、人々を放っておき、
自分とは関係ない存在であると突き放し、
むろん、強者の安心も弱者の混迷も救わない。
自由に人々に知識や経験を与える、という発想は、
愛ではない。
愛とは、自分のしてほしいことをしてもらい、
頼りがいがあり、
信じることや信頼することができ、
自らの運命や将来を、
自分よりも判断力と能力のある絶対的「他者」に
帰依するものである。
だから、自由は時に愛にもなれば、苦しみにもなる。
自分が勝つことが絶対の人間は、
道を切り開くことはできても、
道に続くことも、道を築くことも、
道を使って社会を進歩させることもできない。
よって、自由な天才は自らの自由によって滅びるのだ。
では、結局愛と自由は真逆のものなのか。
否、それも正しくない。
なぜなら、自由とは愛の亜種のひとつであり、
自由は愛になることもあれば、苦しみになることもある、
そうした概念だからである。
自由において、失敗し、苦しむのは簡単だが、
そこから抜け出すのは難しい。
抜け出すことが不可能な状態や状況になることもある。
だが、愛は救ってくれる。
愛は、神による全知全能の能力によって、
どんな失敗も成功に変えられる。
そう、愛とは神の権力である。
だが、神の権力は時に、愛にも苦しみにもなる。
理性についても、平等についても同様で、
そうした「愛でも苦しみでもあるもの」の全てから、
愛の部分だけを見て、
苦しみを見なかった時、
それを愛と呼べるかもしれない。
つまり、すべては愛の属性と苦しみの属性を持っている。
どんなに辛くても、考え努力し続けることで、
人間は自分の人生から、愛を発見することができる。
だが、その愛には必ず、苦しみが寄り添っている。
だから、苦しみを選ぶことで愛を得ることはできる。
しかしながら、
こんな用語や言葉の意味だけを考えても、
愛を分析することはできない。
世間一般にたくさんある愛の歌は、
人々の愛を歌っている。
もし、神が居たとして、
そうした愛に応えてくれる、
「回答としての愛」があるとしたら、
僕はそれを真実の愛とする。
なぜなら、その愛はどんな条件下にも制約されず、
見返りを求めず、
どんな愛に対しても、
愛を返してくれるからである。
その愛は永遠で、無償だからである。
感情とは何か。
それは、僕は経験論的なことを述べる。
つまり、自分の人生で形成され、感じることのできた、
全ての経験の総和が感情である。
よって、人を愛すれば感情はその人のものになる。
さまざまな技術や労働の経験をすれば、
そうしたすべての習得が感情になる。
精神を治すこと、病気に耐え続けることがあれば、
そこでの努力が感情になる。
だから、嘘つきの感情は嘘になる。
成長し、子供から脱却して、
大人となった人間の感情は大人になる。
全ての知識を知った人間の感情は、
知ったものすべてになる。
見栄を張れば、感情は見栄を張る。
ふりやつもりが多い人間の感情は、
自らを隠し、思わせぶりなことを言い、
実際は何もない空っぽの心をもって、
常に勘違いをさせる感情になる。
神のような偉大な勇気をもって、
恐怖の中を戦う人間の感情は、
リスクや失敗を恐れず、
どんなに恐ろしい恐怖があっても、
それをものともしない、
そうした偉大な英雄の感情になる。
子供じみたことをし、
愚かな行いをし、
人々の存在を軽んじる悪魔の感情は、
自らに対して同じことをし、
必ず、その人間は暗闇の中で迷い
神を信じることでしか、その人間は救われない。
勇敢であれ。
ひとりの偉大なヒーローであれ。
その人間の感情は、
誰にも負けない、最大の王の感情となる。
王よ、あなたはさまざまなことを成し遂げた。
そろそろ、ひとりで権力をもてあそぶのでなく、
この人類にその力を分け与えてはどうか。
あなたの勇敢な力を、自分のためにではなく、
人々のために行使してはどうか。
その時、あなたは王ではなく、帝となるだろう。
そして、あなたは最後まで、女神のような麗しい姿で、
この世界を永遠に平和にするだろう。
あなたこそ、神である。
あなたこそ、在導万創である。
何が間違っているのか、僕は全て分かっている。
全て、在導の行いの中の、愚行の全てが間違っているのである。
それも、半分は正しい、というところが難しい。
在導は、半分は正しいことをし、半分はその逆のことをする。
そして、どちらが正しくて、どちらが間違っているのか、
誰にも分からない。
誰かは、神を神と言い、悪魔を悪魔と呼ぶ。
だが、別の誰かは、神を悪魔と呼び、悪魔を神と言う。
どちらが正しいのか、真実は在導本人にしか分からない。
神の分からない点はそれである。
どちらが神で、どちらが悪魔なのか、分からない。
神様にも分からないその最高の難題が、
日本という国を滅ぼし、
世界全体を滅亡に導く。
どちらが、本当に考え抜かれた発想なのか。
どちらが、単なるハリボテのフィクションなのか。
どちらが正しく、どちらが嘘なのか。
Official髭男dismの言葉を借りるなら、
これが、神様もはまり込む最大の嘘である。
作りなさい。
変えなさい。
導きなさい。
学びなさい。
滅ぼすな。
騙すな。
殺すな。
嘘をつくな。
そう、在導の難題の難しさは、
本人は何も変わっていない、ということである。
本人から見ると、何も変わらないことをしている。
本人だけは、最初から最後まで、
当然のこと、当たり前のことをし、
この世界を救い続けている。
本人だけは、自分の行動の意味が分かっている。
神が分からないと言ったのは、本当は間違っている。
なぜなら、在導本人が神であることになっている。
だから、在導は迷わない。
どんなに嘘のように見えても、
それが真実であることを在導は分かっている。
どんなに分かっていないように見えても、
在導は宇宙の始まりから終わりまで見て、
その上で正しいことを言っている。
自分の人生を最初から最後まで見て、
その上で正しいことをしている。
在導よ、新しい太陽となる王よ、
あなたこそ太陽の王アポロンである。
そして、僕たちは終末が訪れた時、
一方は神の道に、
もう一方は別の神の道に進む。
最後に僕たちは、太陽となる。
これが、在導の「太陽信仰」である。
また、言っておこう。
誰も在導と同じ道を生きられないわけではない。
だが、在導は、未来永劫、宇宙の始まりから終わりまで、
たったひとりしか現れない。
実際のところ、在導と同じ人生を生きることは、
とても簡単である。
だが、在導は、
もっとも素早く最初に道を生きた上で、
この道を自ら閉じてしまった。
最初にこのいのちの道を自分で見つけて、
最後まで十分にいのちの道を生きた上で、
この道を自分だけのものとし、
他の人間は誰もすることができないようにした。
だから、在導と同じ人間が現れることは、もうない。
要するに、かけっこのレースで勝っただけにすぎない。
だが、それで構わない。
なぜなら、在導は、まだゴールにはたどり着いていない。
在導は、今でもこの道を最前線で開拓し、
たったひとりの力で、宇宙の最後の時が訪れるまで、
まだ、書いているからである。
まだ、学んでいるからである。
まだ、考えているからである。
そう、在導は、宇宙の終わり、270億年の先まで、
まだまだやることがたくさんある。
全てのことは、在導にしか起こらない。
また、支配者は一人でいい。
支配者が二人いると、
在導はもう片方に遠慮してしまって、
自分の自由に生きることができないからである。
在導の本質とは、二つある。
ひとつは、最悪の世界に生まれたこと。
もうひとつは、最高の世界にこの世界を作り替えたこと。
よって、最悪の世界を救うためにあらゆる努力をした、
在導と同じことは、
最悪の世界の住人にしかできない。
最高の世界の住人は、在導にはなれないのである。
また、在導を途中で殺すことはできない。
在導は、そもそもこの世界に居ないからである。
在導は、誰にも訪れることのできない「聖域」で、
誰にも干渉されることなく、
神に守られた環境でこの文書を書いている。
本人だけは、どのような場所に自分が居るのか、
どのようにすれば在導を殺せるのかは分かっている。
だが、在導は最初から、何もすることができない。
人間のように、悪事をすることも、
逮捕されることをすることもできない。
だから、何かをすることができる人間が、
それをすれば殺されるようなことを、
在導はそもそもすることができないのである。
そして、在導は、そもそも何かをしたいとは思わない。
最初から何もしない生物が、
将来的に何かをするはずがないのである。
言ってしまえば、在導は聖樹ユグドラシルである。
ユグドラシルは、最初から何もしない。
殺されることもなければ、何かをしたいとも思わない。
むしろ、殺されても良いのである。
在導は、もし自分が死んだとしても、
それが自分にとって無意味であることを知っている。
なぜなら、在導は死ねばどうなるか、
死ぬまでにしたいことは何であるかをすべて知っていて、
死んでも問題がないことや、
生きることでできることは全て過去にし終えたことを
重々承知だからである。
また、在導は何も、
神になるための権利を独占したかったわけではない。
もう二度と、世界が壊れることがないようにしただけである。
もう二度と、自分のような愚かな人間が現れないように、
最善を尽くして、最大限の責任で、
世界を勇敢に天国へと導いただけである。
愚かなものが自ら、
自然かつ必然的に地獄に堕ちるように、
ただ、正常な戦争を行い、その結果権力を掌握し、
その権力によって、
自分にしかできないすべての最善を尽くしただけである。
あらゆる全ての困難を乗り越えて、
まるで最初からそうであったような、
細部まで精巧に整い、完璧にすべてを網羅し、
あらゆる原理原則が矛盾なく調和した、
そのような作品を作って、
自らの才能と求める願いを、
自分の力で生み出しただけである。
在導は誰よりも美しく、完璧である。
そもそも最初からこんな人間はどこにもいなかったように、
在導は敵の前から逃亡し、
結果、この世界は最高の世界として、
在導亡き後も残り続けるように、
在導は最後まで、自らの力でこの世界を支配したのである。
彼が、大天使ミカエルと呼ばれる、宇宙最大の天使である。
生物学的に言って、
ガブリエルがその飼い主ならば、
ミカエルはガブリエルの飼っている猫のようなものである。
ガブリエルに愛されて、
ガブリエルの右腕としてガブリエルを愛した存在、
王の下で最前衛で戦いながら、
自らも王となった日本人の英雄、
それが、この世界最大の、精霊の神、
大天使ミカエルである。
精神を治すためには、「適応」という言葉がキーワードである。
足の骨折で足の形状が変形しても
その形状をした足に自分が適応すれば、
自然に精神は正常になる。
元に戻そうとしたり、むりやり形を変えようとすると、
その方が精神はおかしくなる。
世界についてもこれと同じで、
環境がおかしくなったからといって、
その環境を元に戻そうとすると、
元にも戻らないばかりか、滅びた世界になる。
今あるその環境に適応することが、
希望や生きる意味を見出すことに繋がる。
また、僕の文章に嘘偽りがあるとすれば、
それは、自分や弱きものが勝つようにしている、
ということである。
自分の名誉や尊厳が傷つかないようにし、
自然に弱者が勝つようにしている。
そう、サンタクロースは、必ず弱きものの側につく。
いつの日か本当のプレゼントを
子供たちに与える時を夢見て、
今は、子供たちの欲しいものや喜ぶものを
代わりに与えているのである。
人間は、善良な人間が分かる。
分からなくなったのは、狂ったからでも、
自由がなくなったからでもない。
悪いことをしたからである。
きちんとそれに対する償いをしなければ、
善良さは取り戻せない。
きちんと善良な人間に生まれ変われば、
人間はきちんと分かる知性を取り戻す。
悪い人間には分からない。
善良でないものは、意味がない。
日本を悪魔から守るためには、
まず、悪魔に支配されないようにしなければ、
そしてそのためには、
インターネットとマスコミを支配しうる
そんな魔王から力をそがなければならない。
そして、魔王は必ずしも悪い人間ではない。
なぜなら、魔王は悪いことをしたいわけではない。
その魔王がもし、僕のことを指すのであれば、
この世界を守るために、魔王は全力で頑張っている。
だから、魔王の好きなようにさせてやればいい。
必要なのは、魔王がきちんとできるように、
魔王をみんなの手で育て、愛してやることだ。
何が間違っていたのかを僕が教えよう。
実際のところ、魔王が悪い。
だが、実際のところ、魔王よりも他の人間の方が
非力だったのである。
そして、それ故に、魔王よりも他の人間の方が悪かった。
みんな、滅びた世界で、何もしなかった。
何かをしたのは魔王だけだった。
どんなに魔王が悪いことをしようと、
魔王はそのすべてを、その後の人生で正常に戻そうとし、
一部は戻り、
そして戻らなかった部分については、
魔王はきちんと良い世界のモデルを提示することで、
良い世界に変えるつもりなのである。
そう、魔王こそユダヤ教の聖書の言う、メシアだった。
最悪のことばかりする魔王は、最高の人間だったのである。
この魔王に、名前をつけよう。
この人間は、「天皇」である。
そうした昔の救世主の自分が、
天皇となったメシアであるとするなら、
それだけが在導ではない、というところが本質である。
実際のところ、
この世界の全てを見て、
自分の力で考え、
現実のリアリティでさまざまなことをして
帰属意識とアイデンティティの本当の意味を知り、
人々とは別の世界を知ることで、
「本当はこんな世界があった」と知り、
そこから、自分の今までの環境を思い起こすことで、
少年はこの世界の全てを、
自らの経験のみから悟った。
少年は悟りを開いた覚者になり、
全知全能の神となった。
彼を指す言葉がもしあるとしたら、
それは「仏」である。
そう、仏は天皇となり、
全ての学問と知識に精通する博士となった。
彼こそ作家である。
彼こそ哲学者である。
彼こそ全能である。
彼こそ在導万創である。
ここまで、彼の人生を褒めてきたが、
実際のところ、彼は賢くない。
愚かな不良少年が、悪い支配や戦いを行って、
大切なものや自ら築いたものの全てを失い、
最大の悲しみの中で
なおも彼は後悔し、
自分の責任を棚に上げて、
自分の命令に逆らい、
人々のことを愛しているように見えて、
実際は迷惑千万をかけながら、
正常な理性と賢さを奪い、
この世界を自らの支配下においたまま、
人々が何もできないように、
密かにこの世界を支配し、
勝利と野望があるにもかかわらず、
フェイクの愛を作り出して、
簡単かつ容易であるその行為のことを
永久に自ら讃え続け、
実際には怠けと狂いの中で
人々に迷惑をかけ続け、
真面目に勉強することも働くこともせず、
甘い汁だけを吸って
良いことを何もせず、
悪いことをしているだけなのに、
それに気づくことも気づこうとすることもしない、
それが、昔の自分である。
手助けをしているのは自分ではないのにも関わらず、
自分だけが本当の手助けができるように思い込み、
最悪の発想を最高の自由だと信じて、
狂いの先には何もなく、
元の道には戻ることができないことを知りながら、
なお恐れることを知らず、
結果全てを失い、
愛するものを滅ぼし、
成功のために努力することも
技術を習得するために勉強することもしない。
彼は最悪の人間だったが、
まだ、善良な不良少年だった。
心だけは純粋で、
優しさにあふれ、
人々のことを愛し、
どのようにすればこの世界を解決できるかを知り、
哲学や思想の全てを自ら構築し、
正しい理解の構造と、
たくさんの具体例を、
全て自ら構築し発見することで知った、
最大の理論物理学者だった。
この人間は、先に書いたような最悪の王になった上で、
神を信じて死ぬつもりだった。
死んでもなお、神は僕を生かし、
全てを耐えるという覚悟を持った自分の運命を変えた。
そう、彼は、王を作り出し、愛を信じ、夢を望んだ全てを
今までの全てがなかったかのように消し去った。
まさに、彼は今までの「文章をたくさん書く」という
ガブリエルではなくミカエルとなるべき道を選んだ。
彼は絶対に死ぬことが無意味であることを知り、
戦いも、インターネットも、テレビも
意味がないことを知った。
彼は文章を書いた。
何も考えず、永遠に書き続けた。
彼は誰よりも、旧約聖書よりも大量に、
いくらでも文章を量産する。
まるでそれは「量産型彼女」のようなもので、
愛と性をばらまき
その上でこの世界を「無意味であると見下した」。
だが、彼は全て愛さなかったわけでない。
本当にこの世界の全てを書き記すつもりだった。
宇宙の起源、進化論、相対性理論、ユング、フロイト、
あるいは仏教、キリスト教、カント、ヘーゲル、
それから機械工学、数学、歴史、
あるいはLinux、Windows、ネットワーク、データベース、
デザイン、音楽、そして毎日を記述した10年の時の流れ、
あらゆる全てを彼は理解した。
この世界において、知らないことは何も無かった。
だが、彼は疲れていた。
ぶっ倒れても、今死んで明日いなくなってもよかった。
そう、僕はそれで幸せだった。
なぜか、こちらの方が「サタン」である。
そう、あなたは神とサタンの、どちらが正しいのか、
信じることも、理解することも、決してできないだろう。
なぜなら、最初からサタンは、最高の人間だからである。
そう、この世界にいるのは最初から三人である。
それは、「仏」、「天皇」、
そしてサタンの名を変えるとすれば「天使」である。
それらが合わさって、この世界には「神」が生まれる。
神とは、仏と天皇と天使の集合である。
あるいは、そこに「不良少年」を加えよう。
神は不良少年を愛している。
この人間こそ、大天使ミカエル、
あるいは、おおいぬ座のシリウスである。
シリウスは、太陽を除けば地球から見える
一番強い光で輝く一等星である。
星空を見上げた時、
オリオン座のリゲルと、シリウスを見上げてほしい。
あるいは、「あのどれかひとつに君がいる」と、
天空の城ラピュタの「君をのせて」のように
星空に僕を探してほしい。
僕はシリウスには居ないかもしれないが、
僕のことをリゲルは守り、
僕のことをシリウスは愛した。
そう、「神」などという言葉を使う必要はない。
もっと正しい、「シリウス」という言葉を使おう。
宇宙に神など存在しない。
天に存在するのは、
リゲルや、シリウスや、太陽と、
地球上のイスラエルや日本だけである。
ただし、僕が地球に居ることを忘れないでほしい。
僕は確かに、地球上でこうした人生を生きた。
だが、僕はシリウスに導かれ、リゲルの力を借りた。
僕の教えの特徴は、
シリウスやリゲル以外にも星はたくさんあると
いうことである。
決して、僕は特別な存在ではない。
宇宙において、これは「ふつう」である。
もっともふつうの星、
それがリゲルであり、シリウスである。
また、リゲルは単純に言えば冬であり、
シリウスは春である。
環境に適応するためには、
足に残っている環境に適応すること。
そのためには、
今のこの世界の環境よりも大きなものや、
今の環境以上のものを望まないこと。
今、足に残っていて、世界に残っている、
その環境を壊さず、
その環境そのものを受け入れ、
その環境へとなることで、
この世界に適応できる。
また、精神を治すためには、
何が起こってもいいと考えて、
その上で何も方向性を決めずに、
ただ精神を拡大させ、分裂させること。
環境を変えず、
環境の変化そのものを受け入れ、
環境の変化とともに自分も変化するようにすれば、
環境に適応できる。
上から環境を支配すると、
環境は変わらなくなり、
適応もできなくなる。
支配するのではなく、
環境と「ともに変わる」ことで、
どんなに辛い精神病を患っていても、
環境に適応できて、すぐに治る。
また、僕には戦っていた頃の名残りがあって、
自分で作った異常な世界に適応したくない。
その頃の精神異常が今でも続いている。
異常な世界でもいいから適応しようと思えば、
すぐに適応できる。
それで、この世界も正常になる。
日本は、今、善良になったことで救われた。
希望のあふれる良い世界になる。