新・日記2に戻る | 2020年1月の日記に戻る

=2020-01-28=

在導万創のブログより

自分らしさ

今の子供たちというのは、「自分らしさ」というものが、

間違った考え方の下に構築されてしまっている。

実際は、誰もが自分らしく生きたいのに、

社会が与える「子供らしさ」のようなものを押し付けられ、

「子供らしく純粋に生きること」のようなことを与えられる。

実際はそうした枠組みから外れるしかないような子供でも

そうした「社会や学校の強要する自分らしさ・子供らしさ」の中で

生きることを強制されているのである。

「子供なんだからこうあるべき」などということは

本来存在しない。

むしろ、強く賢く生きたいと望む子供にとっては

学校の「子供らしさ」というのは、百害あって一利なしである。

それは「自分らしさの裏側にあるさまざまなこと」を知らないためである。

また、子供たちは、学校や教育によって、

「疑うことがそれ以上できないところまで疑うべき」であるという

誤った考え方を信じ込まされている。

これによって、「絶対的に信じること」ができなくなっている。

これもこれで、問題である。

そうした理由で、子供たちは、

「教育によって自ら生きる力を奪われている」のである。

子供らしさといじめ

漠然とした「子供らしさ」から外れることを恐れるあまり、

子供たちは少しでも外れたものをみんなで排除しようとする。

学校の与える子供らしさの通り生きること、

それが「正しい子供」であると勘違いしているために、

少しでも自分たちの生き方と外れたものを見つけると、

いじめが起きてしまう。

今の学校環境というのは、

そうしたみんなの中で共有される普遍的価値観から、

外れたものを排除し、いじめることが普通になっている。

この問題は、子供たちにのしかかる、

子供らしさを社会全体が強要していることにある。

正しい生き方をしなくてもいい

「正しい生き方をしなさい」と大人が教えること、

それ自体が間違っている。

このように生きなさいとか、信じなさいとか、

それらすべてが、子供たちにとっては

「強要される自分らしさ」となってしまう。

必要なのは、道から外れることも同時に受け入れること。

どんな子供であっても、その生き方を受け入れてほしいと

子供たちは最後の反抗を行っているのである。

正しい生き方をせず、強要される子供らしさに逆らっても

子供たちが生きられるようにしていくことが、

社会における僕たち大人の使命である。

これからの僕の方向性

僕は、これからの僕の方向性に悩んでいる。

もう、すべての意味を終えた。

31歳にして、もう、やることが何もない。

SpotifyでAimerを聴いている。

どうしたものかと考えながら、

何も考えない自由を今、手にしたところである。

これ以上、強迫観念に従って何かを行い続ける必要はない。

とりあえず、休息と安心を十分感じたら

これからのことを少し予想しながら

もっと音楽を聴きたいと思う。

本も読みたいが、すぐに一冊読破はできない。

現実を見てそこから何かを得る

実際のところ、ネットには何もない。

もっと、現実を見て、この現実社会から、

何かを見出すような、そんな経験をすればいいのだと思う。

この世界を見つめながら、その上でこの世界から何かを得る。

ピアノやパソコンやデザインからは分からないようなことが、

この世界には必ずある。

ないはずがない。

なかったとしても、自分で作ればいい。

ただ、実際のところ、この世界を知るための手段としては、

マスコミか、書籍か、あるいは友人しかない。

そして、僕はマスコミを見たくない。

テレビを見ていると、最悪の感情になって、恐怖を覚えるからである。

書籍から知るのは、修行のようなもので、

僕は本や書籍から積極的に情報を得たいとは思わない。

やはり、ネットに頼らざるを得ない。

ただ、僕は最近のSNS中心のネットが嫌いである。

Twitterを見る気がまったくしない。

要するに、本当に今の日本社会はおかしいのである。

馬鹿なものが大量に増えて、素晴らしいものすべてが消え去ったような、

僕はそんな印象を受ける。

昔は良かったレベルだ。

やはり、自分ひとり研究し続けるしかない。

大学はつらい。

大学の勉強は、覚えこむために何でもかんでも指示通りしなければならない。

僕はそうした発想が苦手である。

自分が本当にやりたくないことは、どんなにそれが正しくても、したくない。

自分を変えるために

自分を変えるために何ができるだろうか。

僕は、宣言することで運命を切り開いてきた。

ここで、もう一度、本当に一番大切な宣言をしよう。

だが、一番大切な宣言だから、よく考えて宣言しなければいけない。

なので、今すぐに宣言はしない。

だが、今よりも賢い人間になる、ということだけは、重要である。

また、悪いことをこれ以上しないようにしたい。

日本のために

できることなら、日本のために何かをしたい。

日本人のために、たくさんの日本国民のためになることをしたい。

これ以上、日本がおかしくなるような、

そういう事態を起こすのではなく、

日本人たちが本当に幸福になるようなことをしたい。

愛のために

僕は、愛のために生きる。

日本人のことを愛している。

地球の全ての人間たちのことを、日本から愛している。

世界人類全員に伝えるような、

そうした愛の言葉のために生きたい。

平和のために

僕は、平和のために生きる。

この世界で、戦いも、争いも、

犠牲も、虐殺も、差別も、滅亡も、

あらゆる全ての「負の出来事」を

僕は決して起こさない。

僕は絶対にそうしたことを行動に移さないし、

これ以上そうしたことを発言しない。

僕は善良な人間となって、

人々を思いやり、

責任と覚悟を持ってリスクと戦い、

国民の声に向き合い、

そして世界の全ての負の要素に対して、

負けず、なおかつ、それらを汲み取る。

正義と平等のために

また、僕は「正義と平等の両立」を信じている。

僕は正義と平等は、両立するものであり、

どちらも成り立たなければ意味のない考え方であると思っている。

自分が自分であるために

また、僕は自分が自分であることがなければ、

どんな善も、あるいは悪であったとしても、

「それらすべては意味がない」と思っている。

自分が自分でなければ、善悪には何の意味もない。

だから、僕は自分が自分であるために、

これ以上、変わろうと思わない。

僕は今の自分を保ち続け、守り続ける。

僕は最高の善人となった上で、

その善人の自分を維持し続ける。

どんなに時が止まっても、

どんなに世界に批判されても、

どんなに誰かが敵対しても、

僕は善良さと正義と平等の理想を信じ続ける。

自分が自分でなければ、

いくら神のように賢くても、

いくら天使のように優しくても、

それらは嘘である。

自分が自分でなければ、

いくら魔王のように悪の限りをしても、

いくら責任を持った支配者をしても、

それらは無意味であり、

この世界にとって、今までの僕は意味をなさないのだ。

自分が自分であることは、

子供が成長する上でも大切な概念であり、

自分の「自我と意志」のない人間がもし居たとしたら、

それは赤ん坊である。

だが、すべてが無意味だったわけではない。

逆に、今までの知識や技術は、

今からの人生を生きる上で、大きな助けとなる。

僕は博士のようにすべてを知っていて、英雄のように経験がある。

僕は支配者のようにすべてができて、天才のような才能を持っている。

僕は必ず、素晴らしい偉大な人間になる。

偉大になろうとしなければ、偉大にはなれないと、ド・ゴールが言っている。

たったひとりでも書くことはできる

僕が思うに、たったひとりでもできることはある。

それは、書くことである。

世界に対して自分の意見を表明することは、

たったひとりでも、

どんなにスキルや経験がなくてもできる。

僕はこの世界に、永遠に意見を発信し続ける。

等身大の思い

鈴木愛理が言うように、

等身大の思いでなければ意味がない。

自分よりもはるかに賢い人間を書いても、

自分よりもはるかに愚かな人間を書いても、

それは自分ではない。

自分を書かなければ意味がない。

Perfume

Spotifyを聴いていると、

けっこうPerfumeが良いということが分かった。

Perfumeは歌詞が面白いし、音楽もかっこいい。

ただ、SpotifyではMusic Videoが見れないため、

ダンスを見ることができない。