実際のところ、僕はパソコンのせいで「分かる=できる」と勘違いをしている。
本当は、分かるとできるは逆である。分かるとできなくなるし、分からないとできるようになる。
だから、分かるのよりも、できるようになりなさい。
大学や書籍の知識は賢くない。僕は、パソコンの本ばかり偏って買いすぎた。もっと、作家活動について自分のことを助けてくれるような書籍を読めばいい。今僕が読んでいるドストエフスキーのように、きちんとした「知るべきこと」が書いてある本を読みながら、今僕の行っている作業所のような、作家の手助けをしてくれるような場所に行けばいい。
本当のことを言えば、そんなに自分のことを時間で縛る必要はない。もっと、作家の活動ができるように、工夫すればいい。
大学は賢くない。僕は、大学を知らずに進歩しない中学生として分かったせいで、「大学がないから賢い人間」になっているから、本当は分かる必要はない。だが、簡単に書いてしまうと、数学は何の役に立つのかわからないだけであり、理科はフラスコやビーカーで実験するだけである。歴史は出来事の起きた年を語呂合わせで覚えるだけである。また、心理学はアドラーのように、子供のような性格の悪い未熟な人間を考えるだけであり、哲学はプラグマティズムのようなことを考えて学校に反抗して分かるだけである。政治経済は社会制度の正当性を覚えこまされるだけである。
ただし、学校のすべてが間違っているわけではない。それは「覚えることは賢い」からである。よって、もっと現実の中で実用的なことや方法を覚えればいい。DIYのようなことを覚えれば、生活の足しになる。
僕は、むしろ、Linuxで良いと思う。僕が好きなのは明らかにLinuxだけだからである。仕事はデザインの仕事をやっていればそれでいい。今の仕事が一番楽しい。英会話にもピアノにも行っているのは、僕の人生を充実したものにしてくれている。これらに加えて、作家の活動を続ければそれでいい。休憩したい時は家入レオやYouTubeの音楽を聴く。僕はとても幸せである。神のご加護があなたにもありますように。こうした僕の幸福は、全て神が与えてくれた。
そして、間違ったことはたくさんしたが、その全てがよかったのが分かる。全ては今のためにあった。星を作り変えた結果、才能が身についた。僕はとても幸福で、オンリーワンの人生を生きた。宇宙と人生のすべてがここに確かに分かった。
僕は、むしろもう、これ以上本は買わない。ドストエフスキーを読もうと思う。彼の作品を読んでいると、「文学がなぜ人々に愛されるのか」がよくわかる。人生において分かるべきことのようなことが書いてある。そうした小説が多いため、文学は馬鹿ではない。むしろ、僕はもう専門知識を知りたいと思わないし、パソコンのことも知りたいと思わない。知識の書いてある本はもう買わない。分かることよりも、できることを目指す。