僕は、もう一度この世界を楽園にする。
そもそも、人間は生きることが目的であり、生きることが最優先事項である。そのため、「生きていればそれで良い」のである。
何かをしなければならないわけでも、頑張ったり努力したり正しく生きたりする必要もない。
自分の生きたいように生きれば、それで良いのである。だから、ありのまま、自分の生きるように生きれば良い。そこに理由を求める必要はない。
政治家が考えるべきことは、経済発展でも、国としての勝利でもない。この地球をできるだけ長く存続させ、持続可能にしながら、みんなが生きられるようにすれば良い。
生きればそれでいい。それが、僕の根本的政治思想である。
昔の自分が何を言いたかったのかと言うと、道教のようなことを言いたかったのである。
道教では、「価値観はそれぞれ違う」といった相対論から、「自然への回帰」へと向かっていく。
それぞれの立場に立って、それぞれの見た視点になって、個別的・普遍的に考えていくと、それぞれの価値観や個性はそれぞれ違う、ということに行きつく。
価値観は、技術的な社会観から啓蒙的な社会観となり、「社会変革」を目指していく。
だが、その姿勢と挑戦は上手く行かず、ことごとく失敗していく。
それでも、自分の経験とスキルの向上から、少しずつできるようになっていく。
最終的には、価値観はアイデンティティとなって、「自分をたらしめる何か」を知り、それが全員にとって、社会にとって、歴史にとって同じであることに気付く。
そして、「ありのまま生きること」こそ、この世界の本当の自分らしさだと気づく。
最後に、相対論から生まれるのは「自然回帰」である。この地球という自然環境を守り、持続させ、民主主義でも社会主義でもない「自然との調和主義」こそ、正しいのだと気づく。
僕は、戦いと信仰の中で、そういう「道」すなわち「タオ」を書いていた。全ての道を書き続けることこそ、いつもの僕の文章である。
そう、僕はそうしたことを書いた。実際には誇張と嘘が多く、「全てのことを習得し、全ての社会を変えられるようになり、可能性を全て実現できる」かのようなことをいつも書いていた。
自分のことを信じていただけで、神のことなど信じていない。神と言っているのは、全て対話の上での「自分自身」である。
そういうわけで、いつもの僕は、「経験から発想せよ」とか「発想と可能性を実現手段として実現せよ」のようなことを言っていた。また、精神だけではなく社会についても道を書いていた。社会の段階・社会のレベルのようなことを全て記述していた。世界を個人主義・全体主義の消費・労働から、完全なる「新しい制度とルール」のあり方を書いていた。