本当のところ、僕が知りたかったのは、「エゴ」すなわち「自我」である。そして、僕が書きたかったのは、エゴの段階である。
単純な攻撃には意味が無い、ということを知ることで、この世界を正しく変える方法が見えてくる。
自由の意味を知ることで、本当にこの世界がどうあるべきかが見えてくる。
この世界を知れば知るほど、不思議に直面すると同時に、この世界を取り巻く法則はシンプルで、ありのまま単純である、ということが分かる。
経験は己を形作り、現象は主客と個普の一致から絶対的、「そのままの現象そのもの」となる。
ヘーゲルのように言うのであれば、それは「よさ」あるいは「ほんとう」である。
そう、そこから、可能性が社会を貫き、この世界をボトムアップかつ自然に「変えられるように変える」ことができる。
そう、僕の探していたこととは、まさにエゴである。エゴの段階を知ることから、共同体感覚をいかに自分の心の中に構築するか、ということを、僕は書きたかったのである。
また、そうしたエゴの過程の根源となっているのは、「裏付け」である。どのような裏付けを取るか、ということが、僕の生きる中心のテーマだったのである。実験と実証を繰り返すことで、反逆児であっても、この世界を守り維持するための全てを知り、この世界の全てを「蘇らせる」ことができるようになったのである。
ヘーゲルが言うように、絶対的自我の過程の先にあるのは、絶対的良心である。ヘーゲルは、そうした「自我の変転の過程」を書いたのである。徳の騎士になったり心胸の法則を作りながら、ヘーゲルは世界を変える「自我」を作り出し、体験し、考えたのである。それこそ、フッサールの言う「現象学」であり、デリダの言う「脱構築」ではないだろうか。
世界を変えるために考えなさい。すぐに左翼を肯定するのではなく、所有や自由からこの世界のありようを考えなさい。
相対性理論と同じで、最高速度で動いていると、時間の流れ方が遅くなるのが人生である。この世界を治すためには、「もっと時間をゆっくりにすること」。それだけで、この世界は正常なスピードで進むようになる。