新・日記2に戻る | 2019年11月の日記に戻る

=2019-11-24=

本当に日本を救うために必要なこと、それは「現状を知る」ことである。

現状がどんなに辛くても、抑圧されていても、その現状から逃げないこと。自分の目で、日本社会の現状をしかと見ること。

そこから、人々が何で苦しんでいるか、ということを知る、「共感能力」を作ることができる。

共感能力は、そのまま「共同体感覚」となる。そこから、積極的な正しい大人として、子供は成長する。社会を担い、「自分の手で変えられる」ような人間になる。

愛によってこの世界は救われる。僕はここに居る。あなたはひとりじゃない。僕はあなたについている。

必要なのは、「信じられる希望」である。そして、それはここにある。僕は希望を創造し、人々に勇気を与えた。これが、夏に僕が与えた「愛」よりも正しい「運命」である。宇宙において、運命は、こうした人間に訪れる。

考えるのであれば、経験を考えなさい。僕の経験ではなく、あなたの経験を考えなさい。そして、神を信じるのであれば、ユダヤ人の神を信じるのではなく、あなたの神を作り出しなさい。あなたの神と対話し、あなたに話した神の言葉を信じなさい。その段階で、死後の世界にあなたは理想の人間になれる。だが、あなたはそれでも死なない。最高の偉大な人間になりなさい。

矛盾するように見えるかもしれないが、本当に日本を救うのであれば、目の前の現実と戦うよりも、その現実から離れて、社会全体を見つめた方が良いこともある。自分がそのコミュニティに勝利することよりも、この世界のありのままの社会を見て、その社会から「自分で変えられるようになる」ことが、社会全てを救うことにつながる。

そう、日本には「制限やしがらみ」が多すぎる。そうしたしがらみから自由になるとともに、この世界全てのしがらみがどのようなものであるかを自分の目で見つめなさい。そこから、社会を自分で作ることは生まれる。人々とふれあい、新しい社会を知り、積極的に行動し、世界を変える全ての努力から、価値観や帰属意識が見えてくる。そこから、「正しいアイデンティティ」が見えてくる。それが、「この世界の全員は悪くない」という救いの愛を知れる。悪いことをするのは、本当は悪くない。悪いことをしているのは、その人から見て、そのことしかできないからそのことをしているだけである。それを変えるためには、一段上のレベルから視野を広げて見ると同時に、愚かで間違った考え方を改めるために教え、周りから助けてやること、その人の実体験からその人が学べるように自由な導き手として導いてやることである。全てはそれによって、「促されるままに」人々を変えられる。指導者になる必要はない。指導者になると、逆にしがらみから何もできなくなる。僕のような引き篭もりが、インターネットを通じてボトムアップでその場の機会ときっかけ、チャンスから変えていくので十分である。それでこの世界は必ず変えられるからである。

また、この世界を変え終えた時は、この世界にありのままで登場しよう。どんなにこの世界を滅ぼしても、未来においてそれは正しい宝に変貌する。下積みだと思って文章を書き、この世界を支配しなさい。どれだけ悪を行っても良い。それが、王だからである。神とともに、前世の自分と対話しなさい。その前世の自分は、未来の自分だからである。過去を研究するものは未来も研究できる。過去生を知り、考えることで、あなたは「未来の全てを知った人間」になる。それこそ、まさに、神だ。

そう、言ってしまえば、「人類にそんなに悪いことをさせた神が悪い」のであり、同時に「神はいない」。誰かが悪いように見えて、誰も悪くない。それで、しがらみから何もできなくなっているのであれば、それは自分が変えるしかない。自分が知り、考え、考え方を作り、経験しながら、この世界を自由にするしかないのである。そのために必要なのは「社会を作り変える方法を知ること」であり、そこで生まれるのは「世界全てを作りかえるビジョン」である。そして、それは漠然としたものではなく、現実と理想を照らし合わせながら、思弁哲学者として思考・思索・思惟した内容から、「自分の中に浮かび上がるように現れるもの」である。

僕の望みは、今、たったひとつになった。それは、「大人の男になりたい」ということ。これ以上、若くて美しい子供の女になる必要はない。もっと、優れた、哲学者のように分析し、思考することのできる、大人の頼れる男になりたい。嘘をつくだけでも、間違いや失敗を繰り返すだけでもなく、正しく生きられるような、大人の男になりたい。そして、ドイツ人にはもうならない。僕はれっきとした日本人だ。

また、一通りパソコンや大学の知識の勉強も終わったし、デザインやピアノもできるようになったので、ここからはもう一度哲学のことをやりたい。カントやヘーゲルの哲学的叙述や論理や概念をもっと知りたい。彼らが何を言ったのか、それを隅から隅まで分かりたい。大人の男になりたいと言ったのは、彼らを分かるためには男になる必要がある。大人になりたいなら、何も治さなければ良い。老化を治すと子供になるが、老化は放っておけば大人になる。精神はそれで治るだろう。また、僕がもっとも興味がある哲学者は、ブッダである。仏教を学びたい。また、僕はアドラー心理学にも興味がある。哲学や仏教や心理学を学ぶことで、「精神的な昇華と悟りの過程」を知りたい。もう一度、そういうことを知るために、僕は大人の男になる。

そもそも、僕は歴史上の人物の考えたことや、時代の移り変わりの中での共通概念が好きである。だから、ソクラテスからデリダまで、僕は哲学者の名前と重要な思想は知っている。そうしたことを、もっと極めたい。僕は、哲学だけはできると思っている。それは、いつも哲学者について知った時に、過去の自分の経験からそれを誰よりも理解していたからである。哲学者の言っていることが、僕は誰よりも理解できる。それは僕の青春が、そうした哲学者の言っていることそのものだったからである。ヘーゲルだけを学ぼうとは思わない。あらゆる哲学者、あらゆる考え方、あらゆる理想、あらゆる思想、あらゆる原理を分かりたい。真理を探究するため、善を生きるため、世界を変えるための全ての原理原則を知りたい。それが哲学ではないとしても、その原理原則を知るという目的に適ったものであれば、全ての思想を知りたい。それがマルクスであろうと、あるいはフリードマンであろうと構わない。この世界に生きた全員の考え方と理性の結実の結果を、僕は知りたいのだ。

ただし、僕が思うに、哲学をするために必要なのは、知識や勉強ではない。世界を知り、自らこの世界に降り立って、この世界で自分が何をするのか、何をすべきなのか、何をしたのか、何をしたかったのかを知り、そこから反省して、ひとり原理原則を考えて、自問自答しながら、世界とふれあい、人とふれあい、そこから確かな世界観を得て、結果、この世界がどのように生まれ、ありのままどのように現象が起きているのか、経験とは何なのか、理性とは何なのか、そして正しい方法とは何なのか、その方法は何に基づくのか、何をもたらすのか、何を解決するのか、そして何をどのように解決すべきなのか、心とは何なのか、そうしたことを「解明するために生きる」ことこそ、哲学のために必要である。ウィトゲンシュタインも、哲学者の仕事とは「解明」することであると言った。僕はそうした解明の結果、精神的な昇華が起きることを知っている。自分だけが、もっとも高い地点からこの世界を見渡すことができることを知っている。そこに、実存主義的な人生の段階を見出すことができることを僕は知っている。人々が何をしているのか、何をし得るのか、そして可能性をどのように構築できるのか、この世界にどんな潜在的な可能性が眠っているのか、そして世界がその潜在的可能性に目覚めるためにどのような絶対的考え方が集結するのかを僕は知っているのだ。そこにはただ、平等と、自由と、愛がある。そう、これこそ、最高のフランス現代哲学である。そして、この哲学の基本的な概念は、「子供たちへの愛」である。そしてそれが意味するのは、「祖国日本に対する愛」なのである。

僕が思うに、サルトルが良いと思う。なぜなら、彼は人生を考えている。人が「本質」を得るよりも先に「実存」という「自由の刑」に晒されていると彼は言った。そう、そういう考え方が僕には欠けているのである。何もかも、単純に言い表しても、それだけでは経験の持つ意味を説明できない。本質、実存、そして自由の刑という意味で、留保や客体化や集団となる自由を彼は考える。そう、そういう考え方が、僕は好きなのである。サルトルに次いで正しいのは、僕はヘーゲルではないかと思う。ヘーゲルのような人生が、まさに考え続け、信じ続け、疑い続け、そして経験し続け、知り続ける人間の理想であると、僕は思うのである。可能性の全てについて実現法を考えていけば、誰もがヘーゲルと同じ人生になると、僕は知っているのである。