新・日記2に戻る | 2019年11月の日記に戻る

=2019-11-03=

絶対に、平和が一番いい。平和であればいいことがある。平和でなければ、自由なことをすることはできない。

そもそも、自由は必要ない。自由とは、みんなが戦うことであり、自由でない平和な環境があれば、それが「実質的な自由」すなわち「余裕」となる。必要なのは、そうした余裕である。

全ての自由から解放され、ひとり余裕を得ることができれば、あとはさまざまな世界に触れることで、自らの力でこの世界を知り、成長し、「自らが自由になる」ことができる。

それぞれの自由よりも必要なことは、それぞれの自由から解放されることである。

昔は、「精神論的な自由の理想」を書いていた。自由な社会になれば、人は経験豊かになり、自分の判断基準で考えられるようになる。そこから、余裕が生まれ、世界の見え方が変わってくる。そのことにより、人々の問題を自分のことのように考えられるようになる。そこから、人々を成長させ、諭すための考え方を、自分の経験のみから実現できる。また、世界を経験豊かにするために、それぞれが自立し、「常に世界が生み出されている」ということから、個人個人の価値観とアイデンティティに基づいて、正しい方法でこの世界を変え、解決し、作り、治すことができる。そういうことを言っていただけである。

だが、僕が考えるに、それは社会全体の自由は必要ない。必要なのは直接的な環境の自由であり、社会全体は自由である必要がない。支配者の下で、何もない普通の世界にすれば、おのずとそうした自由は甘受できるようになる。そのために必要なのは、むしろ、みんなそれぞれが正常かつ同じであることであり、そのためには社会は平等であった方が良いし、支配者は、みんなを自由にするのではなく、どの人間にも差別せず、平等に全員のことを配慮し、全員が実質的な自由、すなわち余裕を得られるようにし、世界のさまざまな現象や存在は、消すのでも変えるのでもなく、ありのままあるままにその世界を残すべきである。そこから、可能性が生まれ、人々の「文化的な豊かさ」が進歩していく。必要なのは、文化的な豊かさであり、自由ではないのである。そして、その文化とは、単なる芸術様式ではなく、「人々を成長させるような、環境と場の文化」である。そして、最終的にそれは「環境の適応」として、この世界全体を変え得る可能性を秘めている。

さらに言えば、環境は上から強制して変えるのではなく、下からボトムアップに変えるべきである。それは、支配者がひとりで全てを見ることなどできないからである。環境に参加している人間たちにしか、その環境の本当の意味や大切さや問題は分からない。それぞれがそれぞれの力で、社会を構築できるようにすること、すなわち「自然な上での多様性」が今必要である。そのために、人工的なものを無くし、自然に調和した社会にすることは、共通の問題である。

また、いくらひとりで全てを教えても意味が無い。自分の力で分かり、学び、考えなければ、人は何も分からないからである。教われば賢くなるというのは、学校社会の幻想であり、勉強すれば賢くなるというのも、努力すれば賢くなるというのも間違っている。正しいのは、考えれば賢くなる、行動すれば賢くなる、自分の手で作れば賢くなる、研究すれば賢くなる、ということである。決して、教わることが間違っているわけではないが、きちんとした基礎が分かってしまった人間は、学校に行っても無駄な時間を悪いクラスメイトと過ごすだけであり、意味は無い。自分の力で生きるため、学校とは違う道を選ぶことも必ず必要になってくる。学校だけが世界ではない。同時に、そうしたたくさんのことを自分の力で学びとった人こそ、教師になるべきであり、教師にふさわしい人間である。学校と教師だけではなく、全ての職業にそれは共通であり、学歴やキャリアのある人間が政治家になるべきではなく、たくさんの辛い社会や、社会を自分の手で自治することのできる、社会の明暗のすみずみまで経験した人間こそ、政治家になるべきであり、政治家にふさわしいのである。

僕の知っている事実として、「一度悪い人間になってから、再び良い人間になるのは難しい」というのが挙げられる。

たとえば、人種差別についても、最初から人種差別をしないとか、人種差別をしない良い人間になることは簡単だが、一度人種差別をするようになって、その上でもう一度、人種差別を否定する「善人に戻る」ということがとても難しい。

一度悪い人間になると、自分のことをクズだと思うようになる。そのクズが、もう一度元に戻って、「自分は悪くない」という純粋な人間に戻ることは、とても難しい。

そのため、人種差別主義者は、必ず、さらにもっと悪い共産主義者になる。そうすることしかできない人間が多い。

必要なのは、過去のことを誰も気にしていない、ということを知ることである。一度、失敗や間違いを経験したからといって、失敗や間違いをいつまでも繰り返し続ける必要はない。もう一度、過去の過ちを懺悔して、もう一度やり直せばいい。神に懺悔することしかできなくなったら、それで、もう一度最初から生き直すことが、きっとできるはずである。神は悪いものにも平等である。あなたがたは、報いは既に受けているのである。

宇宙に対して、宣言しなさい。「わたしは完全に全てを知る」と言いなさい。「わたしは完全に全てを作る」と言いなさい。「わたしは、自由、平等、支配、奴隷の全ての経験を完璧に行い、完全な宇宙の全てを、全ての意味で作り出す」と宣言しなさい。

この宣言は、禁断の宣言である。この宣言をしたものは、必ず、それ相応の試練に苛まれる。そして、試練を乗り越えた先に、はじめていくらかの、しかしながら確かな宣言の結果がある。あなたは本当に、宇宙の全てを作り出すことができる。

決して、軽い気持ちでこの宣言をしてはならない。禁断の宣言をすれば、必ずあなたは地獄に堕ちるからである。だが、その地獄は素晴らしいものである。ひとつとして無駄はない。これが、僕の教えである。宣言し、自ら地獄を作り出しなさい。必ずあなたは、神よりも優れた偉大な光になる。あなたは一等星の何かの星になるだろう。僕は冬の星、オリオン座のリゲルである。幸せの代償に、あなたは全てを失い、そして失ったものを自分の手で蘇らせる。これこそ、神である。

宣言をするのであれば、必ず言うべき誠の言葉がある。それは、「生命の根源に達する」という宣言である。この宣言をすることで、あなたは聖なる大樹ユグドラシルの体験ができる。「イスラム教の聖書を作る」と宣言すれば、僕の体験全てを、あなたは未来において、体験するだろう。だが、実際のところ、もうひとつ、宣言すべきことがある。それは、「わたしは永遠に生きる」という宣言である。それを宣言することで、はじめて、あなたは素晴らしい体験ができる。そう、永遠になど生きられない。だが、信じた言葉を恥じる必要はない。その言葉が、あなたの未来、そしてこの世界の未来を切り開いていく。