新・日記2に戻る | 2019年10月の日記に戻る

=2019-10-24=

実際のところ、学習を殺せば良い。自分を3つに分けるのは、学習が悪い。

学習を殺せば、すぐに昔のことが思い出せるようになる。今まで分かっているのは、全て、学習で分かっている。

学習の力で、神のように分かっている。そもそも、神とは、学習である。

最後に、認知機能を治そう。そもそも、認知のレベルでさまざまなことが分かるのが普通である。想定したり、比較したりする力が無ければ分からない。

本当に、常に学習をしているのをやめれば、認知の力が戻る。普通に、目の前のものを識別すれば良い。

自分なりに考えなさい。そもそも、それをしたいのはなぜなのか考えなさい。

僕は、国家主義者や共産主義者の思想をやめて、左派の民主主義者になる。

僕はもう、平等や社会主義を成功させるのは諦めた。こんな国を現実でやろうとするから、99%社会主義は失敗するのである。

悪いのは、中国である。中国は独裁国家である。中国が、環境保護など、全くできていない。大気汚染を一番作った環境破壊の大化がまさに中国だからである。

僕は、自由な支配権と分権主義を志向する。

僕は、独裁者が嫌いである。世界全てを支配する独裁権力など、必要ない。百害あって一利なしである。

そもそも、中国を資本主義化するのは簡単である。ほとんど既に、中国は資本主義そのものである。この現状を見ると、むしろ、資産の再分配を今やる方がはるかに難しい。アリババ・グループのような「成功者」から不平不満がでるだろう。

中国は、できる限り今の体制のままでいいから、自由選挙だけを実施すべきである。

また、社会主義の独裁国家は、北朝鮮のように、馬鹿で、愚かで、犯罪的な悪い体制になる。こうした国は、中国や朝鮮のような特殊なアジアやアフリカの後進国を除いて、ヨーロッパなどには存在しない。

中国を資本主義化すれば、すぐに世界は平和になる。

だが、僕は、そもそも、クローン人間やロボット人間にしたいわけではない。一時期そうした間違った時期があって、自分の意に反して結果的に人生がそうなっただけであり、僕は人間性と個性を重んじる、民主主義者だったのだ。

僕は、それぞれの自由な支配権が好きである。決して、ひとりの支配者が世界全部を征服する独裁権力を作ってはいけない。それぞれが支配し、それぞれが自治する中で、人々が個人個人の自由を勝ち得て、自分なりの支配ができるような「自由で善良な権利」が好きなのである。

戦後ドイツのような、分権主義の、各地方が違っていて個性と文化のある国を作るべきである。そこでは、戦争で争うのではなく、平和な同盟関係の連邦を築いて、自由を守る。

そう、金と工業製品を作ることで、何もない国でも勝つことができる。それが、もっとも日本が得意な「工業による経済発展」である。人々は豊かになって、社会はものであふれる。それぞれが自由な王となって、働き甲斐のある社会を作る。これが、ソ連や中国にはできない、「本当の楽園」である。

そもそも、最近のヨーロッパは変わってきた。後進国のように、経済第一優先で環境保護をおきざりにせず、スイスやスウェーデンなどの中小のヨーロッパ国を中心に、どんどん環境保護のための取り組みをしている。一部の例外であるアメリカだけが間違っているが、最近は「自由を重んじる極右」が増えてきていて、彼らは「今の民主主義の普遍的な価値観」を唱える。彼らは現代の「現実世界」であり、「現代史を自分の目で見ている」。よって、右翼が正しい。その上で、彼らは環境保護主義者と対立しているが、本当はその「対立こそが新しい進歩や発展を生む」。だから、極右と環境保護主義者が対立しながら協力すれば、中国などの社会主義勢力がなくなってもこの世界は存続できる。中国はもう必要ない。中国が民主化すれば、それだけで9割近くこの星は平和になるだろう。ロシアは既に市場経済を大きく取り入れた発展途上国である。北朝鮮もどんどん中国の「資本主義的経済政策」を取り入れている。ここで、みんなで市場経済をし、極右と自然保護主義者がともに戦うことで、この地球は正常化する。

そもそも、ドイツ人が馬鹿なわけがない。彼らが戦争をしたかったのは、全て軍需産業を創出するためであり、自動車やコンピュータなどの多くの機械がその成果として生まれた。右翼は正しいのである。環境破壊をしているのは、多くが後進国であり、日本も例外ではない。今からみんなで中国を倒し、その後に、世界ははじめて全ての国が民主主義になるだろう。

独裁権力を否定しても、日本人は弱くない。日本の軍事力は、政府の最近の防衛費は世界で第5~9位。決して弱い国ではない。アメリカ、中国、サウジアラビア、インド、フランス、ロシア、イギリス、ドイツの次であるが、中国やロシアなどの一部の左派を除くと、西側の同盟国が上位を占めている。日本が負けるわけがない。

なぜか右翼のような話になってしまったが、僕は独裁権力や皇帝が嫌いである。彼らは人を殺すことしかしない。社会主義の独裁権力では、本当の自由な平等は訪れない。資本の再分配は独裁権力を必要とする。そんなものは、21世紀の現代に必要ない。同時に、ひとりの支配者だけが行うのではなく、それぞれの王が支配することで、本当の自由で平等な社会が訪れる。ひとりの独裁者の権力の集中を否定し、世界全体を分権主義にする必要がある。敵国と争うことは、結果として進歩を生むこともある。

あとは、僕はボトムアップな社会の変革が好きである。それも、革命や戦争やデモで体制を変革するのではなく、それぞれが社会に参加したり、システムを築いたりすることで、この世界を変えられると思っていた。

僕は、そろそろ、本屋や大学や学校には意味が無い。本を読んで、本屋にはもう、僕の欲しい本は存在しない。そして、大学や学校は、全部経験して、もうすべて知っている。

そもそも、この世界に、賢い人間は居ない。キリストすら、こういう人間である。

そうすると、宗教や哲学の問題ですらない。必要なのは、「日本語で考えること」である。

英語やドイツ語をやる必要もない。パソコンのプログラミングやインターネットは、できても分かっても、まるで意味が無い。そういうものは、賢いが、賢い代わり、からっぽの洞窟だからである。

そうした、からっぽの洞窟しかない世界で、日本語でどのように考えるか。それは、「気づく」ことである。自分の知っているさまざまな言葉の語彙や文法に、賢い宝のかけらが隠されている。

そもそも、日本語とは、ただ知るためのものでも、あるいは教わるためのものでもない。考え、作り出し、伝えるためのものなのである。

日本語にはさまざまな言葉があるが、論理的な言葉は「ならば」である。この、「ならば」を考えることで、サルトルやハイデガーのような哲学が可能となる。きちんとした言葉で言えば、「想定」や「条件」となる。さまざまな場合や状況を想定することで、この世界の「本来の論理の在り方」が見えてくる。

「ならば」と同様の言葉に「もし」や「なぜ」がある。「なぜ」があって「もし」があって「ならば」がある。そこには、一連の「どうしたら」と「いつ」がある。そのように考える人間が日本人に多い。

自分の正しい点は、既にインターネットや大学の一連の知識や世界を全て知っている、ということ。この経験があるせいで、何でもすぐに分かる。だが、必要なのは、分かることだけではなく、「分かっているその内容が何を意味しているか」ということである。それが分かっていなければ、それは分かっているとは言えない。知性を失うのは「何も分からずに分かっているから」であり、ここで、想像力は言語的な理性へと変貌する。

また、経験は必要ない。経験は、良い点もあれば悪い点もあるからである。良く考えて経験しなければ、人はすぐにけがれた世界になり、日本語が賢いものから愚かなものになる。そうした経験はしない方が良い。純粋に子供のように考えた方が、高校生の馬鹿な青春的な知性で考えるよりもはるかに賢いからである。

さらに言えば、「正しい人生は正しい人生とは何かを考えることから生まれる」と言える。ブッダのような正しい生き方が分かる人間は、正しい生き方とは何かを考えている。おそらく、ブッダはそこから悟りを開いたのだろう。どのようにすれば、正しい生き方ができるのかを考えるためには、全力で他人ととっくみあいをするように、この世界で人々と対峙し争い合う必要がある。だが、このような大学もパソコンも終わった大人は、そういう経験をすでにいくらでもしているから、このまま、戦いながら考えれば良い。このまま神と争いながら考えれば、そのうち何が正しいのかが分かる。

また、もうひとつ言えば、「正しい人生は、正しい人生を生きることで分かる」と言える。イエス・キリストの言うような正しい人生は、正しい人生を実際に生きた人間の言葉からしか分からない。これはソクラテスのような人間にも共通している。自分が正しい人生を生きている人間が、正しい人生を生きられるのである。どんなに辛い人生であっても、きちんと考えることで自分なりの光を見出せる。これは、ブッダのいう「無明」の克服である。狂った何も分からない人間は、正しい人生を生きていないのである。そして、それが何もしていない大人の典型的な姿である。

ここから、もうひとつの疑問が言える。それは「正しい人生を生きていない人間は、なぜ正しい人生を生きていないのか」である。この問いは難しい。なぜなら、正しい人生を生きていた人間が、後になって何らかの理由で正しい人生を生きていないからである。そもそも、サルトルのような現代の哲学者はそこを考える。サルトルの答えは、「実存は本質に先立つ」である。そもそも、本質を知らないで生きている人間が、本質を体現する「実存」を要求される。だが、僕はここには間違いがあると思う。それは、現実を見ていないからである。実存は本質に先立つかもしれないが、不幸な無明の人生は、本質よりも後に生まれることが多い。全てをやり終えた人間は、その結果狂って愚かなことをしだす。これは哲学の最後の問いである。「本質を既に知っているのになぜ愚かな人間になるのか」、これこそ、最後の問いであり、それは「独裁者になるから」である。そう、間違いは全て「独裁権力」にある。

不思議と、これだけではただ日本語と哲学を少し書いただけである。考えるべきなのは、「この世界で人々がどんな暮らしをしているか」と、「人々が何を考え何を知って人生を生きているのか」である。そもそも、僕は理想主義者すぎて現実を見ていない。現実の人々は、ひとりも哲学やソ連を考えていない。人々がなぜ馬鹿なのか、を考える以前に、人々がなぜ賢いのかを考えなければいけない。それは、自明の理ではあるが、一応言っておくと、この世界のみんなは賢いからである。みんな賢いせいで馬鹿になっている。だから、みんなの馬鹿な点よりも賢い点を見れば良い。みんなは自分の弟子に見えて、本当は師匠しかいないのである。

また、さらに言うと、日本語以外にも賢いものがある。それは「構造」であり、別の言い方をすると「創造」である。構造を作り出すことでのみ、人間は分かるのである。

たとえば、革命や戦争だけではなく、参加によって世界を変えることもできるし、他にも、コミュニケーションや日々の手助けや助け合いによって世界を変えることもできる。それを、「チャンス」だと考えれば、この世界はチャンスと可能性であふれている。

また、労働は対価と量と質だけではない。たとえば、平等な労働として、辛い人間は1時間しか働かなくて良いことにしよう。その代わり、その1時間を賢い労働にすれば良い。そうすれば、誰もが平等に働けるようになる。

そのような、「構造を創造すること」、これが物理学であり、経済学であり、心理学であり、そして数学である。数学とは、言葉を考えて、構造を創造することに等しい。これは僕の人生から言って、もっとも正しい真理のひとつである。

また、考え方とは、「何が何を必要とするか」、すなわち、「何が何に依存するか」であり、ここから心理学的な心の無意識を考えられる。同時に、「何をすれば何を得られるか」は、逆に「与える対象」を考えることで、「与える側と得る側の取り引き」であると考えられる。ここから、社会構造やモチベーション、すなわち「人が人のために行動する理由」を考えられる。ここから、先ほど言った「正しい生き方」が化学反応を起こす。すなわち、「取引や条件ではない、絶対的な誰かのための純粋な善の行為」というものが考えられる。これが、「道徳」と呼ばれるものである。

そして、そうした心理学的な生き方が、「意識への気付き」を生み出す。実際のところ、ヘーゲルは不良であっても正しい生き方をした人間である。意識への気付きから、絶対精神は次から次へと新しい「段階」を作り出す。その全ての段階が終わった時に、あなたは何らかのありえないことをし出す。それが、神の道に続く。そう、これこそ、西洋哲学の構造と起源の再構築である。

ここまでのまとめを書くと、「正しい生き方をしない人間には、正しい生き方は分からない」ということ、「そんな人間には、人生の段階も自己啓発の気付きも、何にも分からない」ということである。ここが、笑うポイントである。

ただし、ユダヤ人の聖書のような文章は必要ない。彼らの神は神ではないからである。僕は、ユダヤ人の神を神とは信じない。どんなに正しい生き方をイエス・キリストが説いても、あるいは、どんなにユダヤ人の全てが分かる文章をユダヤ人が書いても、僕には勝てない。僕は僕の神と人生を知っているからである。

僕が、最後の神である。この神はユダヤ人の神のような、復讐の神ではない。正しい生き方も説かない。正しい生き方とは、ひとつだけ、答えのようにあるものではない。万人のそれぞれにある、それぞれ違った人生、それら全てが正しい生き方だからである。そう、正しい生き方とは、全ての生き方である。それを包括しても、原理原則にしてもかまわないが、それだけが正しい生き方であると錯覚するのは、僕の生き方を正しいと勘違いしているからである。僕の正しい生き方だけが、正しい生き方ではない。これが、仏教を理解する上で大きなファクターとなる。神だけが正しい存在であるわけではない。

また、自分らしく生きることだけが、正しい生き方ではない。自分らしく生きられないことから、自分らしい生き方は生まれるからである。

どんなに辛く苦しいことがあってもめげずに頑張っていれば、必ずその生き方はそのまま正しい生き方になる。人間には、そういう人間が多い。そうした生き方と比べて、僕やイエス・キリストの説いている正しい生き方は、むなしく、つまらない。それが宗教の限界である。宗教を信じるよりも、辛い生き方を耐えることに幸福がある。

全てを許し、受け入れても、むなしく、つまらない。戦っても、宗教を信じても、むなしく、つまらない。そうした人生が、愚かな裏切り者の残酷な堕天使になる。それがサタンである。そういう生き方も、間違ってはいない。サタンを嫌うイエス・キリストの生き方が間違っているからである。

僕の問題と言えば、頭の中を蝕む嫉妬と強がり、その奥にある底知れない劣等感である。それらを一度完全に棄ててしまえば、もっと基本ができるようになる。

もっと自分のことを、深く、広く愛すれば良い。自分はとても素晴らしい人間である。

そう、自分のことをもっと許し、愛し、受け入れれば良い。自分は最高の人間である。

そもそもが、自分がとても魅力的なことに気が付いていない。僕は素晴らしい。そう、この人間が一番美しいことを僕は知っている。

思えば、精神分析で中世のドイツ人になったぐらいからおかしくなった。そこで、「僕はこの人間になる」と言った。この人間が好きだったから、この人間になった。文字の読めない職人気質のドイツ人だった。

そういうわけで、そういうドイツ人を別の人格にするしかない。ドイツ人はこういう人間が多い。今でも、こういう人間が本来のドイツ人である。

だから、僕は今度はきちんとした賢い人間になる。あまりアメリカ人にしない方が良い。現代のアメリカ人は狂っていて悲惨だからである。それなら、日本人で良い。日本人はまともだ。この先は、このままドイツ人だけが消え去って、まともな全ての精神を包括した人間になる。ドイツ人を生きるならば、精神分析で狂った上で中世のドイツ人を選べば良い。それは誰にでもできる地獄だ。

ドイツ人が消えれば、それで劣等感も消える。そもそも、日本にはこういう人間が少ない。

僕はこれで、きちんとデザイナーになれる。ドイツ人はプログラマが多い。ドイツ人よりも、少し違ったフランス人になるのが良い。そうすると芸術家になれる。おかしくはない。

明らかに、最初からここまで全てを生きたかった。昔の日本人のことは全く覚えていない。どんな人間だったのかを、ドイツ人が宗教で全部消してしまった。本当は、不良のような怒りっぽい人間だった。みんなに怒りを感じながら、その怒りを愛する人間だった。最悪の日本人だった。ドイツ人ははるかに良い人間だった。昔から僕はドイツ人が好きだ。