新・日記2に戻る | 2019年10月の日記に戻る

=2019-10-19=

何だかんだ言って、今日も僕はこのホームページとブログを書き続ける。

社会の歴史や時代の変転とともに、価値観は変わり続ける。その価値観は、小規模なグループが自然に変えていくこともあれば、ボトムアップな革命によって変わることも、ひとりの偉大な王によって導かれて変わることもある。

「それをしてはいけません」と、「それをしてくださってありがとうございます」では、受け手が受け取る印象が変わる。そうした言葉遣いの心理学から、欲求と欲望を考えられる。そうしたもの全てを考えた末に、「心理学的な世界の大局」を見ることができる。

社会と心理、信念と欲望、理想と現実などを、モデルを仮定や成立から作ることで、この世界の全てを考えられる。視野が広がり、分からなかったことに気付く。そこから、哲学的な原理原則を知れる。

冗談だが、欅坂46のてちを主人公とした、テレビゲーム「真・欅坂無双」を作ってはどうか。てちや欅坂のメンバーが敵を叫びながら殴ることで倒す。敵の武将は歴史上の権力者たち。面白そうだ。

本当のことを言えば、自由と言っていたのは、「自由でもできるようにしたかった」というのが正しい。国や会社組織が強制して働くのではなく、自分の自由な意志で、その時その時の自由な自分なりの進歩や考え方や反省に基づいて、「自由でも出来る」ようにしたかった。そのために、手段や機会、学習や経験、モデルを作っていた。また、対話をベースとした「自然でボトムアップな協力」を重視し、子供たちが自分なりにさまざまな反省と経験に基づいて社会を変えられるようにし、多様性と精神性から分かることができるようにしたかった。そこで、人々よりも分かった「年長者」は、「相手の力を奪わずに教える」という「自立の導き」を行うべきだと思っていた。それが、僕の言う、「環境を成り立たせる」という哲学だった。また、「基盤システムは参加者によって変えられるようにすべき」だと考えていた。

神と対話しなさい。対話の神を信じることで、あなたは最後までできる。その神はあなた自身である。

僕のように考えるコツは三つある。それは、この宇宙の可能性を、細部までもっとも詳細に、厳密に、高く考えること。そして、抽象的な構造を作ること。最後に、詳細までよく思い出すことである。そのように考えた場合、自由が一番高い視点になる。自由でないものは、自由でない分だけ、自由なものよりも劣る。自由にすれば、もっと別の可能性が考えられるし、世界の可能性も大きくなる。自由は不自由を包括する。

そういうわけで、「場が自由であれば何ができるのか」を考えながら、「場の可能性」と「場の歴史」を考え、また「システムを作る」とか「自立した環境にする」といった考え方が多かった。そのために、哲学者のように方法を考えることで、たとえば「社会を築く方法を教える」のように考えた。その上で、教え方をどうするかもよく考えた。強制的に押し付けるのではなく、相手が自分からそうしたくなるような、その上ではっきりとそれが正しいことが分かり、全貌を知ることができるように、「相手の力を奪わずにありのままを全部教える」という発想があった。その上で、歴史的な側面から、社会の考え方を自ら作ることで分かっていた。それはまさに、「自由と平等の融和」であり、「最大限の自由と多様性」だった。その集団を自由にすることが最前提で、その上でどのようにすれば平和で成熟した社会になるかを考えていたが、結局は「自由にすべきだ」と考え、「経験を積むべきだ」と分かっていた。そう、彼にとって知識や理性とは全て自由だった。そして、そこが最も間違っていた。

今の僕なら、この世界を「純粋な世界」にする。自由は人の精神を蝕み、汚れた精神は次第に牙をむく。純粋な愛を信じることこそ、自由よりもさらに前提にある「第一前提」である。純粋な精神を持った上で、その上で自由にし、そのさらに上で理性と経験を考えれば良い。そうすると、きちんとした正しい国になる。自由はバランスがなければ意味をなさない。狂って世界を滅ぼす人間が、もっとも経験豊かな人間だったからである。彼に必要なのは、「純粋さ」である。ピュアでまともでなければ、意味が無い。狂った人間は、世界の知性を奪い、コミュニケーションを破綻させ、精神を滅ぼす。そうした人間には、神のような絶対者が必要であり、それが僕の唯一の善良で正しい信念だったから、僕はここまで来れた。狂った人間には自由だけではなく、支配や義務も必要である。そして、それはピュアな人間には必要ない。

昔の理性は、言ってしまえば「社会の発生のモデル」を考えただけである。あとは、実体験からさまざまなことを思考し、発想から「社会の役割の意味」を考え、「それがどうしてそうなっているのか」を「意図」から分かった。あとは、自由な経験を積み重ねて、ひとりでLinuxをやっていただけだ。

狂った人間は、「いつもそれと同じようになるなら、それは法則として正しい」ということにすれば治る。そして、そうすべきである。いつまでも、不要で、無駄なことをしていると、逆に本当に必要なことに害を及ぼすようになる。

純粋理性を使って、「それはそうだ」「これもそうだ」「それなら、それもそうかもしれない」「やっぱりこれもそうだ」「いつもそれは同じだ」「それなら、それはそういうことだ」と考える、これがまともな理性である。いつも疑って信じることができない人間は、そうしたまともな理性を失っている。まともな理性とは、「いつも同じならそれは法則的にこうである」ということが言えることであり、今の時代、日本にはそういう理性が失われてきている。社会がみんな狂っているから、狂うだけである。

あとは、経験的な、宗教的意識の実感が多かった。人々の生活や正しい人生から離脱して、自分なりに経験したことから、宗教的な意識や精神を実感していた。直観と意識でこの世界を分かっていた。それは悲しいものだったが、幸福なもので、未来や過去全ての意識を貫いて分かる「聖なる精霊の精神」だった。

また、自らの心を治し、過去の記憶や人々とのかかわり合いを「融和」することで、「涅槃」の精神を分かっていた。この宇宙全てのこと、感情全ての経験を、融和させ、「全てを治して分かる」という、偉大な覚者の精神だった。僕はその精神から、全ての悟りを得て、ブッダの言う「四諦」のように、哲学的理性と宗教的涅槃を融和させた考え方を、自らの思考と思弁の経験のみから分かっていた。ヒュームのようでもあった。

「それはもしかしたらそうかもしれない」「それがそうであれば、それはそうなるはずだ」と考えなさい。僕は、子供の頃からそのように考える。そのせいで、昔から、やらなくてもそれがそうであることが分かる。そういう子供だった。

さようなら。これで本当のお別れになる。

また、ひとつの分かったことや発見したことから、「それもそうではないか」「それもそうではないか」と応用的に考えなさい。人は、それを科学者と呼ぶ。心と精神の科学者になるために、全てをしなさい。全てを行動し、経験し、学習し、そして孤独と戦いの中で、できることを全部やりなさい。それが偉大な思考である。

自分は、生きたい時生きようとして、死にたい時に死のうとするのが悪い。生きたり死んだりをしていると、治らない。これを解決するためには、多重人格の2人を作って、片方を生きたい方にして、片方を死にたい方にするしかない。

僕は、もう、人生を最後まで生きた。次なる人生は、もしあるとすれば、まともな人間になりたい。他の人間たちと違っていても良い。それは才能だからである。だが、それでも、もっと普通の人間になりたい。そして、できたら誰かと結婚したいと思う。