新・日記2に戻る | 2019年10月の日記に戻る

=2019-10-07=

人間は、関係や条件がそのまま環境となる。この時、環境とは、一般的な場所や空間だけではなく、あらゆる関係的な条件が環境となる。

たとえば、「いじめられている」という条件は、そのまま、人間の「一般的な意味での環境」となる。

環境は経験となり、経験は記憶となり、記憶は自分自身になる。

自分で作り出した環境や条件だけではなく、全ての条件がその人間の環境を作り出す。この時、環境や関係や条件が同じものは同じになる。よって、望もうと望むまいと、いじめられっ子は全て、いじめられっ子になる。

そこから脱出するためには、経験そのものを変えていくしかない。そのためには、「条件からの解放」が必要である。

世界の変化を見て、歴史を考えなさい。世界の変化を見つめることで、この世界における全ての環境的な実在が分かってくる。

この世界では、あらゆる条件と関係が環境を作り出す。歴史や時代そのものが環境となる。また、人間の精神や人格そのものが環境となる。そこにあるのは「言葉遣い」である。

反応と知覚を経験的に考えなさい。

僕は、学校を本当の平等に変える。

受験制度は必要ない。受験をしなくても、誰もが平等に東大に入れるようにする。

試験制度は無くす。定期試験は必要ない。その代り、達成感が生まれるように、課題やノルマを与え、課題やノルマをこなして、達成したら次のノルマを与えるようにする。

自由は、必要ない。みんな、同じことを同じように行って、同じ体験がすべてできるようにする。

学校のやっていることに問題があれば、迅速に、即座に変えていく。間違ったことをやっていたら、すぐに修正し、すぐに変える。それによって、学校で間違いはひとつも起きないようにする。

自由よりも平等、これが新しい学校の在り方である。

そもそも、僕の対話している相手は、ヒンドゥー教の神であるヴィシュヌとシヴァである。キリスト教徒が神を信じると、このように、宇宙に居るシヴァとヴィシュヌが対話する。こういう人間が、統合失調症になる。そもそも、問題は神と対話していることである。神と対話しなければ、すぐに治る。

もう、これ以上、本は買わない。僕は数学の勉強もできない。する必要がない。

だが、理系になりたいのであれば、人間には文系と理系の思考パターンがある。まず、文系は世界にあるものをそのまま考えて言葉にする。考える前に良く考えるということをしない。「これはバナナだ」といったように考える。これに対して、理系は、世界にあるものを考えず、考える前に良く考えて、自分の考え方をある種の「命題」とし、その命題の方を良く考える。よって、「バナナはバナナだ」とか、「バナナはここにある」とか、「バナナは食べ物だ」と考える。

だが、理系でも文系でもない考え方と言うのがある。それは、バナナを見て、バナナと考えないことである。バナナではなく、「これは果物だ」と一種の「ジャンル分け」の抽象化をする。ピアノを見て「楽器である」とし、テレビを見て「家電製品である」とする。この考え方は、ある意味「大人」である。そして、大人になると、そのように考えながら、「常に判断」するようになる。

もっと大人になると、そんなことは考えなくなる。「バナナと考えるのは無意味だ」と考えるのである。その先、何もせずに放っておけば、それが一番仏教やヘーゲルのような「思想家」になる。つまり、「バナナはバナナだと考えるのはどういう意味があるか」と考えるのである。これが、哲学者の真骨頂である。だが、これよりももっと先の考え方は、科学者の考え方である。それは、「バナナとはすなわち炭水化物と糖でできている」と考える。この考え方に至ったら、今度は、むしろ、賢い知性を失うようになる。炭水化物と糖でできていることしか分からなくなって、食べられるとか、バナナの木になっているとか、そういうことが分からなくなって、馬鹿になる。これが、大学の「意味のない常識を知った馬鹿な大人」である。

精神が治らず、血が気持ち悪いのは、本当に血液の流れが悪くなっている。血管やリンパの流れを良くするために、皮膚の上から手足や体を「さすってあげるようにマッサージする」ことがとても有効である。