新・日記2に戻る | 2019年9月の日記に戻る

=2019-09-25=

子供になりなさい。

秀才になりなさい。

パソコンに詳しくなりなさい。

プログラマになりなさい。

未知の世界を知りなさい。

保守的な人間になりなさい。

自由な人間になりなさい。

革新的な人間になりなさい。

未来的な人間になりなさい。

古代的な人間になりなさい。

ありえない時代を生きなさい。

異次元の世界に生きなさい。

別の宇宙に生きなさい。

神になりなさい。

そして僕は最後に、この世界を裁く。最後にこの世界を天国にし、悪人を裁く最後の王となる。

昔は、経済学の考え方の世界観を、論理的に作っていた。生産や労働や対価の考え方から、自由と平等を考えていた。

特に、自由すぎたのを反省し、「弱者を救う」という発想が多かった。宗教で言う「お布施」のようなものを、制度として実現し、それぞれが自由な権利と行動を行うことを保持したままで、社会主義のような国を作っていた。

狂った人間は、そうした自由と平等の考え方が分かっていない。平等を批判して、自由をきちんと考えれば、人間は社会の「意味」が分かる。

金をどう使おうと、どこから得ようと自由である。その代り、そこには「条件と契約」がある。それはある意味ディール(取引)のようなもので、人間は働く対価として金銭を求め、金銭を対価として与えられることを条件に働く。

社会主義は、逆に、働いても働かなくても、対価は同じだが、最低限のものは無料で分配される。

ある意味、このモデルを、「働けば金を得られるが、全てのものは無料で与える」というモデルにすることで、自由と平等は両立できる。

宇宙において、ものごとは、得ようとするものには条件がある。何かを得ようとすれば、それなりの試練を経験しなければならない。それは、そうした宗教が多いからである。

僕が思うに、その条件は簡単なものから難しいものまであり、多くは「何を望めばいいか」というところから探す必要がある。そして、やみくもに選んだ「欲」のせいで、辛くなったり、苦しい試練に陥ったりする。

堂々と言おう。求めることに条件があるなら、最初から、求めようとしない方が楽である。そう、たとえば、僕はいつまでも病気の治癒と楽を望んでいる。だが、病気の治癒と楽を実現するためには、たくさんの疲れや恐怖に耐えなければならない。いつまでも集中し続け、間違いがないように、全てを捕捉し続けなければならない。

だから、楽を諦めなさい。楽を諦め、病気を受け入れることで、精神は楽になる。それですぐに、全ての病気が治る。

本当は、なぜ辛いのかというと、病気を治すためには腸を治す必要がある。腸を治せば、何でも治るからである。

そして、分からない人間は、一度全てを放棄し、人生そのものを棄てた上で、自由と平等の考え方について考えなさい。条件と取引と契約から、この世界を考えれば、すぐに全てが分かるだろう。

心理学をやりたい人間は、「状態」をよく考えること。状態だけをよく考えれば、何も知らなくても心理学を自分で作ることができる。

今、足の精神が正常に治った。全ての「たが」が消えて、毛細血管が復活し、その上でおかしな点をひとつひとつ治し終えた。

さようなら。ここで全ての終焉である。今、世界は新しいターニングポイントに入る。地球が存続するか滅びるかは、この文章がどのように現れるかにかかっている。それで、終わりである。