新・日記2に戻る | 2019年9月の日記に戻る

=2019-09-11=

血の中には、菌やバクテリアが一定以上居た方が良い。汚れをバクテリアが分解して、血を綺麗にしてくれる。菌やバクテリアを殺しすぎると、疲れて、免疫の病気になる。

そもそも、僕はLinuxに対して何も悪いことをしていない。昔は、社長や指導者のようなことをやりたかっただけで、実際、見ても自分にしか分からない情報を書いて、アンチLinuxを倒しただけである。

一連のLinuxのことがトラウマになっている。何も悪いことをしていないということに気付けば、昔が思い出せる。

昔は、精神世界の歴史のようなことを書いていた。歴史の時代や心の中の文明を書いた。宇宙におけるナメクジ星人のよう歴史を書いていた。また、神に助言を常に聞きながら、世界を導いていた。賢い人間だった。

本当に成熟した社会では、自らの精神を自分の力でコントロールできる。そして、自分たちの考え方を、自分たちのために使うことができる。

自らが本当に欲した理想のために、自らが本当に願う自由のために、この世界を自らの精神の下で、自らのためにコントロールする。

ニール・ドナルド・ウォルシュの「神との対話」を、昔読んだことがある。その時の僕は感銘を受けて、本を棚にずっと置いている。今、本を開くと、そうした部分が書かれていた。

実際のところ、この日本やアメリカのような資本主義の現代社会は、まだ成熟していない。分かっていないことがたくさんある。みんな、自らがそのように考えていることそのものが、自らによるものではなく、社会に「そう考えるようにコントロール」されている、ということに気付いていない。

だが、実際のところ、あまり新興宗教にはまりこむのはよくないと思う。それこそ、自らの力で考えておらず、他人の神に従っているだけで、その神に同じことをされているからである。

本当のところ、自らの経験から、自らの思考から分かるのが、一番良いのだろう。だが、昔の自分のような「思弁哲学者」に再びなることは難しいし、それ以外の何かになって賢くなることも難しい。

そうした時、このような「昔自分が考えていたようなことを言っている書籍」を読んで、「ああ、あの時の自分はそういうことを考えていたな」と思い出すことは良いことであると思う。

僕自身、宗教にはまりこんで痛い目を見た。一切全てを対話の中に居る良く分からない神に支配されたりした。だが、僕はこの本は好きである。ウォルシュの神はとても良い「友人のような神」で、同じ視点に立って、普通分からないようなことや気付かないようなことを、ありのままばっさりと言ってくれる。僕の神は昔から、ウォルシュの神と同一である。僕の文章に飽きたら、ウォルシュがもっと一段階上のことを言っている。

ただ、自分の問題とは、そうした神のことを盲信しすぎて、一度も疑わなかったことにある。

神とはいうが、神とはただ、自分の思い込みたいことを体現しただけにすぎない。

自分がドイツ人なわけがないし、過去の自分がフランス人なわけもないし、自分が普通なわけもないし、自分が永遠に生きるわけもない。それらは全部間違っていて、自分は日本人だし、過去も今も同じひとりの人間だし、おかしいし普通でもないし、普通に寿命が来れば死ぬ。

そう、神は間違っていることを言っている。それを一度、素直に認めれば楽になる。神は嘘しか言わない。自分の思い込みたいことを言っただけだ。