新・日記2に戻る | 2019年8月の日記に戻る

=2019-08-19=

なぜか、僕はまだ文章を書いている。

自分でも、こんなに書くとは思わなかった。この文章を書いていると、楽しい。生きる生きがいになっている。

昔の僕は、本当は、無政府主義的な宇宙の世界を書いて、世界観から宇宙の根源的な歴史を創造していた。

たとえば、生産手段を与え、自由な集団化を形成し、土壌を作り、全員に平等な自由な権利を保障することで、新しい自由な社会が生まれる、と言っていた。

また、制度を自由にしていくことで、新しい可能性が生まれる、などと言っていた。

本当は、最近、寝ている時の夢にそういう世界が見えるようになった。完璧だが、どこか子供のようで、得体のしれない生物や、ありえない地域の多い、人工的かつ機械的な、賢い施設・学校・病院のようなものが見える。そうした無政府主義的な宇宙のありえない世界を、マイスター制度や共同体を「どのようにすればどうなるか」ということから、作り上げていた。

また、文明的な考え方のようなことを分かっていた。それが見え、もたらすことが分かったとしても、またどのようになるかを証明したとしても、本当にそれを分かったことにはならない。分かるためには、それに「なる」必要がある。なるためには、自分を手放して、それがありのままどのようになるかを、物理的に考える必要がある。完全に、自分の精神を超える必要がある。

昔は、そのような、精神の現象学的な意識を書いて、この宇宙全ての意識を書くことで、そこにある「環境の在り方」を作っていた。

また、世界中の国を、「まるごと全部をひとつひとつ同じにしていく」ことで書いていた。ドイツとフランスとイギリスは同じで、日本はオープンソース的なロシアである、などと言っていた。

そう、この文章を書いていると、そういう「失った大切なもの」を取り戻せる。それが、僕の書くモチベーションのようになっている。

僕は、この世界にある不純で気持ちの悪いもの全てを綺麗なものに浄化する。それによって、「本当に健全な世界」になる。僕の名はヴァルキリーであり、僕は死んだこの世界を完全に復活させる。

また、昔の僕は、「自由における環境と人生の関係のパターン」のようなことを、「自然に自由を形成する考え方」から言っていた。みんながどのような社会を形成する可能性があるか、どのような関係でどのような社会が成り立つか、のようなことを言う。最初は、誰も賢くない中で自由な社会を築く。次に、ひとりが賢くなって指導者に従う。次に、それぞれが賢くなって自由な社会になる。最後に、全員が賢くなって平等な社会になる。

また、考え方から社会経済のようなことを言う。アパートやマンションはレンタルだとか、再生や再利用、環境の構築や土壌のようなことを、「それぞれが変えられる」という考え方から考える。その結果、社会的に「どういう結果をもたらすか」を「原因を正しく推論する」ことで分かっていた。その上で、そうした中で成り立つ全ての社会の可能性を想定し、あらゆる社会を形成して、全てのパターンを具体的に考えていた。そうした数学が、「具体性から一般性を分かる」ということだとして、普遍的法則を相対的なモデルの関係とメタ構造による動的な創造のように、パソコンや物理学のように考えていた。全てのことが普遍的に説明できる包括的な経験のメタモデルを作っていた。

経験がそうなればそうである、ということを予測することが、逆に、その時にしか分からないものごとが何であるか、ということに繋がり、それが「常に全て分かっている絶対的理性」となった。王のように世界を支配し、全ての世界を「自由な多様性」にした。その結果、この世界は僕の新しい自由な社会になった。

自由とは、「できること」「自由意志」「行動が許される権利」であると同時に、「知ること」や「考えられること」でもあるとしながら、どのように考えればこの世界が正しく分かるか、ということを経験的に分かっていた。全体像を見て基礎を作れば、必ず科学者と同じことが分かるとしていた。可能性を破壊せず、自己の理性を疑うことで、デカルトのように考えられる。そこでは、社会において人々と議論し、「何が正しい社会なのか」を経験から培う、「インターネットの哲学者」が生まれる。その結果、僕は新しい社会を築くことができるようになるぐらい、全てが分かって、全てができるようになった。

「それを知ることで何を分かるのか」のようなことを良く考えていた。「知ることに何の意味があるか」ということを考えながら、「知とは一種の支配である」と考えた。知った人間は、知らない人間よりも多くのことが分かるが、それは支配に繋がっていく。僕は、全ての人間に自分と同じ知識を教えることを「完全な平等」とし、逆にそれぞれの知識や常識がそれぞれのグループで異なっていくことを「完全な自由」とした。そして、平等と自由の極端さにおける、危険性と可能性を知った。最後に、僕はひとりの学者として「自分だけ具体的な知識全てを知る」ということに行きついた。ここで、そうした知識の相対性は無くなり、「自分だけ全てを完璧に知っている」という絶対的知識の世界を知った。

僕は、そのように仮想世界を創造していた。経験を数学的に考えることで、仮定と法則からパターンを作った。経験を想定し、ものごとの「意図」を捉えることからこの世界の仮象の世界を作り出した。

同じ経験を繰り返すことで実感が生まれ、成長して自らだけの力でできるようになることから直観を生み出した。子供より成長するさまざまなことをすることで、宇宙の意味が自分なりに分かった。最後は神に頼ることで、この世界全てを変えた。そうした「大人」の自分に名前をつけなければならない。彼はヘイムダルである。

あなたがもう一度青春を生きたいのであれば、僕はそれを叶えられる。まず、「それぞれが自由であること」から考えてほしい。そして、それぞれが「どうすればそうなるか」ということを、再度、経験から知ってほしい。その上で、「社会の構築」というキーワードを、自らの実体験だけから再体験してほしい。最後に、「社会の在り方」を知って、どのようにすればそれに「なる」ことができるか、ということを考えて、この世界において、「自分が何をできるか」を知ってほしい。そこから、成長の「啓発」が見えてくる。啓発が分かったら、今度は成長から「新しい人生の可能性」を知り、「自分がこうであることが何を意味しているか」を知ってほしい。そして、最終的にどこかにあなたは辿り着く。社会の全ての可能性から「常に社会は作り出されている」ということを実感で知る。そして、「社会のありのままの様相がこの宇宙である」ということを知って、「今まで知ったこと全てをひとつの世界観にする」ということから、「科学全てを再構築する」ということができる。そこでは、実感と直感でこの世界の全てが分かり、「自由自在に可能性を捉えられる」ようになる。心理的な「精神の発達過程」から、「人間がどのように生きれば魂のレベルを超えていけるか」ということが分かる。全てを治す神は、「世界すべてを正常に治すことができる」ようになって、「自分の行動から人間の環境と人格を変えられる」ようになる。「ボトムアップ的な影響力の風上」に立ったあなたは、「自由に世界を変えられる」。この世界の全てを変える「自由な決まりのオリジナルの考え方」を知ることで、「あらゆる制度と環境を構築できる」ようになり、「勇敢な戦い」から、あなたは「世界人類の全員と対峙する神」になる。

「全ては無意味ではないか」と人は言うが、本当は「何に意味があるのか」ということは自分で決めるものさしである。それは、技術的な「力」から、人を変える「変化」となり、「影響力」「可能性」としだいに「自由な社会性」へと変貌していき、それが理性や啓蒙といった「革新的新しさ」となり、普遍性や再構築のような「創造者の哲学者」そして「宇宙の中でひとり戦う科学者」となって、最後に善や道徳のような「理想」に行きつく。その理想がどこから生まれるかというと、自分の過去の人生で感じたことや経験したこと、すなわち「経験」から生まれる。最後に宇宙の全てが分かったら、最後にそうした青春は「自らの罪によって消滅」する。

また、科学的な理性のようなものは、まず原因をたどることから始まり、それが仮定と結論による「新しい推論による可能性」を見つけ出す。そこでは「前提となる経験」を行い、「考え方に気付くこと」から「相対的な意味と意義から考える」ようになり、「ひとつひとつの問題を解決していく」ことが「ひとつひとつの課題を実現していく」ことになる。最後まで経験する中で「新しい哲学的進歩に気付いていく」ことができる。そして、最後に自らの罪悪感によって生まれた試練を乗り越え、人は「全てを実証する」ことができ、「変化を捉える」ことは「社会を捉える」ことになって、「具体的な発想から社会全て、人間の全ての考え方を知る」ことになって、最後に「きっかけとチャンスを叶えられる」ようになる。社会における全ての「世界観の拡大」を知ることで、「自らの経験からアイデンティティを実感する」ようになり、それは自分の人生の経験から社会的な「価値を実現する社会制度」となる。そこでは、ヘーゲルの言うような「ほんとうのよさ」というものがあり、それはおのずと「新しい神の教え」を「宇宙という教科書を作り出すこと」から知っていく。

いつも、そういう文章しか書いていない。ただ、人工的で気持ちの悪い、交尾をするガマガエルのような文章だった。「最悪の精神」が世界を支配し、この世界を何もない「滅亡のソ連」に変えた。

ほかには、その時その時世界観と社会の創造を成り立たせていた。環境において視点がどのようになるか、自分は何をその時思うのか、のようなことを「最大限誇張されたバッド・コミュニケーション」のような文章を書いていた。世界を知性のない世界にし、一番上から強制的にクローン人間にするその世界は、「ロボット人間」そのものだった。

今日もきちんと良い文章が変えた。最近、デザインの仕事では、自分でイラストを描くようになった。まだまだへたくそだが、Illustratorの機能は良く知っているし、パスの引き方も分かっている。

そして、そろそろ僕は神から解放された。僕は、もう、不純で健全でない文章は書かない。清純な人間の方が、はるかに美しい。不純な文章は気持ちが悪く、また辛いだけである。それが分かった。

自らのアイデンティティを実感しなさい。成長し、新しい世界を知りなさい。本来の自分を取り戻しなさい。全てを超えて、なお先にある「なる」ものになりなさい。

今日は、それで終わりである。そろそろ、きちんといつもの文章が書けた。

最初から、執着せず、必要としないことが、逆に賢い「美しい精神」を作り出す。大学やパソコンなど、最初から学ぼうとしない方が良い。必要なのは自分の理性で自分なりに考えることだけである。執着心を無くすためには、間違ったことを目指さないこと。その方が良いことがたくさんある。何もかも嫌いな中で、何かひとつのことを好きになって、それのために生きることが良いことはある。最初から必要のない地位や立場を目指していると、人生にはすぐに終わりが訪れる。そういう人間の人生は間違っている。必要のないものは、吸収しない方が良い。それが唯一、本来の自分を取り戻す鍵となる。扉はいつでもあなたの前にあり、その鍵で開けられることを待っている。扉の中には、神のもとへと続く聖なる階段がある。それを一歩一歩上っていくことが、すなわち「青春」である。最後まで達したら、神に会える。そして、神はまた新しい扉を与える。その扉には、逆に一歩一歩下がっていく階段がある。それを下っていけば、最初に居た地点に帰り着くことができる。同じ階段なのに、こちらの方が辛いと感じる人間が多い。本当は同じだけの辛さしか存在しない。あなたが単に、上り方や下り方を忘れただけにすぎない。

正しい答えを言うならば、自由が間違っている。単に、人々が生きやすい環境や土壌を作れば良いだけである。それぞれが自分らしく輝けるように、それぞれに自分の好きな道を歩むことを許せばいい。そのためには、自由が間違っている。好きな人生を生きられることは、自由ではない。自由とは、好き勝手、それぞれが自分の思うように混乱して動くことであり、本当に自分らしく生きられるようにするためには、そのための「前提となる環境」が必要である。

僕は、この世界にそうした「前提となる環境」を作り出す。その環境は健全で、誰しもをきちんとできる正しい大人にする。僕の名はヴァルキリー、混乱した自由な世界の中で、そうした「正しい秩序のある環境」を作る女神である。アメリカやヨーロッパが滅びていく中で、日本だけが「健全な環境と成長できる土壌」を取り戻す。僕はそれをやる。僕がそれをやることに、誰も異は唱えられない。この世界は、僕の王国になる。最後の「自由連邦」がここに誕生した。

仮象の世界の作り方が分からないのであれば、「目的」を考えなさい。それがその時、そういう目的で、どのような仮定や前提から行われるか、ということを、自らの経験と照らし合わせて考えなさい。それができれば、すぐにカントを超えられる。ここに、「理性の蓋然主義」が生まれた。この蓋然主義では、ものごとを「そうだったとしたらどうなるか」から「たぶんそうなるだろう」とし、「たぶんそれはそうである」としながら「そうであったとしたらそれはどうなるか」を考える。そのように考えれば、全ては仮定と実験から的確に、「コペルニクス的転回」のように考えられる。カントは、そのように考えただけである。

そして、あえて右翼のようなことを言えば、勇敢な戦いを経験しなさい。勇敢な戦いを経験すれば、必ずこの宇宙の全てが分かる。そう、その上で、全ての病気を治し、あらゆる意味で学び、知り、作りなさい。あなたは結局、最後には全てのことを受け入れて愛するだろう。そこには罪もなければ罰もない。あなたがあなたのやりたいようにやれば、あなたの人生は良いものになる。戦うなら、狡猾に支配して勝利しなさい。あなたの栄光が、そのまま日本の栄光になる。悪徳は権力によって正義となる。あなたの帝国では、あなたが皇帝である。

環境の変化を知り、「自由になること」から意識を捉えなさい。この世界におけるさまざまな「環境の経験」を知り、意識から社会全体の状態と変化の可能性を知りなさい。

人よりも多くの経験をしなさい。成功と失敗を経験し、「啓発」していきなさい。自由な「本当にそれがどういう状況であるのか」を知って、自分の「思考のための前提となる経験」を知りなさい。

自立し、人々に自立を促しなさい。人々が、他人に依存せず、自立することができるようにしなさい。同時に、協力の可能性は、それぞれが賢い可能性と能力を持っていることを前提とし、そのために「経験の共有」が必要であることを知りなさい。

命題を自分の手で作り出すことは、「前提となる問題と経験の共有」であると考えなさい。そして、その経験の共有を実践しなさい。

きっかけから、「手助けができる状況」を知り、「その状況では何をすれば何ができるのか」を知り、そこから、「影響力の心の作用」を知りなさい。

全ての意識を解明したら、「意識の前提となるこの世界全体の意識」を知り、仏教のような「聖なる存在」すなわち「神々の歴史」を知りなさい。

社会を作りなさい。自らの手で社会を作れるようになったら、本当に意味で「反省」し、「懺悔」しなさい。後悔を繰り返しながら、あなたは強くなっていく。あなたに勝てるものは居ない。偉大なあなたが王になれば、それは「聖なる神の精神を持った国」になるだろう。人々に「聖なる精神」を与えなさい。全ての精神を経験して、なおも遺しなさい。最後にあなたは死を経験し、そこから生まれ変わった新しい人生が始まるだろう。哀しみなど必要ない。あるべきは「自分になれることの喜び」だけである。僕が学んだこと、それは「環境は変えられる」ということだけである。それがこの世界の「王」である。王はなすがまま全てのことを行い、全ての栄光と繁栄がそこに生まれるが、それは決して永遠ではなく、最後は消え去って諸行無常となる。あるのは、カルマに応じた因果応報だけである。神は、あなたの人生にふさわしい栄光を与える。自分で行うのでなく、神によって起きることを無条件に受け入れれば、あなたのカルマに応じたことしか、人生では起こらない。それが、この宗教の神の教えである。

この国が狂っているのは、純粋な楽しさが存在しないのが悪い。全て、いじめやパワハラのような楽しさしか存在しない世界になっている。僕は、もう一度、あなたに「純粋な楽しさ」を与える。そして、共感能力や共同体感覚は、そうした「楽しさの実感」から身に付く。経験は、経験するだけでは意味が無く、経験を後になって反省して、「実感」となった時点で意味を持つ。そのような楽しさの、純粋な実感を、僕はこの世界に与える。この世界は正しい、純粋できれいな世界になる。いじめが多いのは、不純な愛が多すぎるからである。そうした世界では、そうした人間をいじめるようになる。昔から、まさに、僕がそういう人間だった。僕は健全な世界が好きなだけである。この世界のみんなを、愛している。

ありのままのこの世界を、歴史の必然であると言うならば、この世界は変えられる。いつでも、変えられる可能性は常に歴史にあった。戦争をしないことも、本当にひとつになることも、いつでもできた。間違っているのは、できないと教わっているから、みんなできないのだと思い込んでいるだけである。いつでも平和になれるし、いつでもひとつになれる。僕の存在による影響力が、それを証明するだろう。

言ってしまえば、ネットのアニメのエロ画像など、ガマガエルの交尾である。気持ちが悪いだけである。そうしたもの全てが、いじめと差別と洗脳を作り出している。一度、そういうものをインターネットごと抹消するしかない。それで、子供たちは健全な精神を取り戻すだろう。僕はデジタルなもの全てを消滅させ、発電所を石油から再生可能エネルギーにする。この世界で正常な「最後の帝国」を作る。それが僕の、「最後の仕事」になるだろう。そして、それは本当は、今すぐにできることである。

全てを知り尽くしたいのであれば、学校の教科書なんか読まなくて良い。学校の教科書をもし全部読んだとしたら、あなたには知っている知識は逆に無くなってしまう。学校ではない、実地的な社会の経験から知ることで、「自分でこの世界を分析する力」が生まれる。それが、自由なこの世界の意味である。大学は、「正しい知識による洗脳」によって、何一つ分からなくなってしまう。大人はそうした洗脳しかしない。僕と同じである。洗脳に対抗するために必要なのは、自らが信じるもの以外、全て受け入れず、拒絶すること。そうすることで、逆に「支配への対抗という名前の情熱」が生まれ、人は「人をいじめない理想」が分かる。そう、学校そのものが、まさにいじめの抑圧なのである。教師がなぜ悪いのかと言えば、教師もそうした「抑圧の地獄」の中に居るから、逆に抑圧のない環境が分からないのである。

そう、学校の中にいると、逆に分からなくなる。学校の外の世界を知れば、分かるようになる。環境の中と外、環境の内側と外側を比べなさい。外側の正常な世界で青春を経験すれば、必ず偉大な哲学者にあなたはなるだろう。大学の学歴よりも、そちらの方が大切である。自らの力で世界を知る哲学者は、全ての科学を作り出して、世界を変え、そのすべてを書き残すだろう。全ての世界を考え自らの社会論を作った上で、あなたは聖なる愛の使者となる。それが大天使ガブリエルであり、ジブリールに神の啓示を与えられたマホメットは、ただそのように、普通の大人として学校の外の世界を生きただけである。

自らの手で歴史を知り、そして作りなさい。これで、全ての神の啓示は終わりである。さようなら。あなたは必ず愛の使者になる。

足が緊張しているのは、リラックスすると治る。筋肉や神経の緊張が解けられないなら、持ち上げるようにして、力を抜けばすぐに治る。

もう、昔の僕と同じことはできなくなる。

人を騙すな。不当に支配するな。不当に抑圧するな。

自分の私利私欲のために、善良な集団を利用するな。

悪を許すな。悪はいつでも、勝手にこの世界を利用して、悪いことをする。そのような悪いことをするものを許してはならない。

善良なものが、善良であり続けるために、努力せよ。

平和とは、透明性が保たれていて、みんなが正しいことをしている、ということが、誰の目に見ても明らかでない限り、訪れないものだ。

心理学で人を支配するな。努力しているものたちの上に、馬鹿な指導者が就いてはならない。

人々を公平に、平等かつオープンな思想の下、自由にせよ。それぞれが、独自のやり方で、独自の手段で、独自のプロジェクトを、独自に実行し、それぞれのやりたいようにし、そのための共有のルールを明確化し、透明性が保たれるようにせよ。

自由な参加を許し、秘密を隠すな。自分だけが良い思いをして、みんなに隠した上でひそかに支配するようなことを絶対にしてはならない。

迷った時は、全員に意見を求めよ。自分の思ったこと、悪いと思ったことやそうでない方が良いのではないかと思ったことを、率直に、素直に言えるようにし、そのための場を設けよ。

人々が、あらゆる大切なこと、プロジェクト管理のようなことを、話し合う場を作れ。それぞれのやり方を尊重すると同時に、他人が不当に行動を制限されたりするようなことが無いようにせよ。

分かっていないものは、分かっているものを尊敬し、また分かっているものは、分かっていないものが間違ったことをしないようにせよ。

プロジェクトが自分の責任で間違った方向に向かおうとしている時には、それをきちんとみんなに伝えて、正しい方法でプロジェクトの方向が修正されるようにせよ。

無計画に行うな。無知のまま教えるな。未来の方向が分からない方向に向かうことがないようにせよ。「みんなが分からなくなる」ということを絶対に避けよ。誰かひとりにしか分からないなら、そのひとりの分かっていることを、正直にみんなに伝え、みんなが分かるようにせよ。

そのようにしていけば、きちんと正常な世界になる。オープンソースとは、そういうことである。オープンソースが正常であるためには、公平で、誠実で、透明性があり、間違った方向に向かわず、秘密を作らないことが必要だ。

最後に、この世界はもう、正常な世界になる。僕は、あなたのことを愛している。だから、あなたも僕のことを愛して欲しい。信じてくれるなら、僕はあなたの全てを受け入れている。あなたが向かう先に、必ず幸福な未来がある。その未来は、僕が創り出し、あなたに与えるものである。

さようなら。僕の目的はここまでである。本当のことを言えば、僕は僕の間違いを正直に述べただけである。それで、終わりにしよう。