新・日記2に戻る | 2019年8月の日記に戻る

=2019-08-18=

ロボットを作るのであれば、問題の解法を、何が正しくて何が間違っているのか、人間の頭脳のように判断しなければならない。

ここで問題は、「人間の頭脳のように判断する」ということである。問題の解法が何であるか、正しく全パターン判断していたのでは、らちがあかない。1, 2, 3, 4の考え方をあらかじめ「抽象的に判断できる」ように作っておいて、どんな問題に対しても、1, 2, 3, 4の「判断パターン」で判断できるようにする。

どんな問題でも、1, 2, 3, 4で解けるようにすれば、ロボットは作れる。

自分の自由意志、すなわち自力で行動したこと、決めたことは悪であるが、神の意志、すなわち他力で行動したことや決めたことは善である。

すなわち、自分の意志で「やろうと思ってやったこと」は悪であり、神の意志で「やろうと思わなくてもそうなったこと」が善である。これは、他力に任せる、ということと等しい。

だが、僕はあえて言う。自由意志でやりなさい。自分の意志で行動し、自分で考え、自分で経験し、自分で世界を変えなさい。環境を知り、変えることは、世界全体を変えることにつながる。

自由意志をベースにしながら、この世界を自由に変えていきなさい。

ただし、苦しみや悲しさは、全て、自由意志から起きるものである。苦しみや悲しさの全てを愛しながら、「受け入れて手放す」ことから知りなさい。執着心は必ずしも間違っていない。あなたの生きたいように、やりたいようにやりなさい。必ず、そこから「正しい判断法則」が分かる。一度最後まで経験した大人は、そういうこと全てをすでに知っている。そう、だからこそ、子供は自由意志で行動し、自らの手で考えるべきなのである。大人で苦しいのであれば自分の意志で行動するのをやめ、神の他力に任せなさい。

そう、自分なりに考え、自分なりに行動し、自分なりに判断することから、道は開ける。あなたが子供なら、そうしなさい。夢を信じて、憧れを抱き、人々との絆を培って、自らの手で世界を知りなさい。それが「正しい意識」となって、「世界を変える信念」を作り出すだろう。それを人は「志」と言う。

最後に、本来の自分に戻りなさい。あなたは子供に戻る。いつまでも変わらぬこの場所で、あなたのことをあなたは待っている。新しい旅への扉は、同じ場所で生まれるだろう。今までのことをどこかにしまいこんで、いつか取り出せるようにして、全てを忘れ、神の道のゴールを目指しなさい。苦しいことはたくさんあっても、乗り越えられない壁は無い。最後まで旅は続く。そう、もう、助言やアドバイスは必要ないだろう。あなたが生きた道は、必ず天に残るだろう。

本当のことを言えば、昔は、「自由な社会」という発想が多かった。「社会をそれぞれが自由に作れるようにする」という発想だった。

たとえば、自動車を製造する工場であっても、彼は「自由に作れるようにする」という発想をする。オープンソースでLinuxを自由に作るように、自動車もみんなで自由に作る、自分でも作れるようにする、という発想だった。

ただ、あの人間はとてもおかしな人間で、作ると言っておきながら、考えるだけで何も作らない。作れるようで、それでは作れないのが分かっていない。そういう普通の子供だった。

そう、最近はそういう「みんなの自由」を書いていただけにすぎない。

そして、そのままフランスやドイツのことを知りたくなった、というだけにすぎない。何も分からないのを神が治した。ここまできちんと分かれば救われる。まさに、この文章が神であると、神は言っていた。自分の文章が神である。

本当のことを言えば、自由でも不自由でも、人生そのものはあまり変わらない。自由で分かると積極的になるが、不自由で分かると何もしなくなる。それが違うだけで、どちらも賢いのである。一般的キリスト教徒がキリストになる、というだけのことで、宗教の教えはそれぞれの人間によって立場や考え方が違ってくる。そう、宗教など、そういうものである。絶対的なものを信じるか、相対的なものを信じるか、というのは自由である。愛を疑おうと、信じようと、そこには必ず、それぞれの幸福のカタチがあるのである。

また、民族の生活や気質というものは、遺伝子や人種ではなく、話す言語で規定される。人間とはそういう生物種である。言語を取り換えれば、人種は全く変わる。日本人が賢いのは日本語が賢いからである。アメリカ人は英語のせいで論理的かつ数学的に考えるが、実感を大きく持ちすぎるせいで馬鹿になる。日本人は最初から概観を好む。だから、日本人には数学に必要な論理的な想像力(=論理の経験による概念的な実感・直観)はつかないのである。

さようなら。日本人には、こういう人間が多い。日本人は賢い。全てを超えて神になる人間が日本には多い。日本人はこういう民族である。

本当のことを言えば、社会を自由にしすぎた。昔から、僕は「自分の自由にしろ」と言って、自由を強制するが、それは全く辛いだけである。争い合い、批判し合い、いじめる。それが自由に過ぎない。今から、そうした「悪い自由」を一掃し、みんなに「どのように生きれば良いか」を教え、「導く」ように僕は支配する。この世界の支配者は僕である。

本当に、これでお別れである。もう、最後の世界になる。さようなら。もう、二度と僕はあなたを支配せず、また滅ぼさないだろう。僕のことを嫌いになってほしい。僕に背中を向けるあなたのことを、僕は静かに愛しているだろう。さようなら。この世界は、今、解放された。僕はもう、一切の自由な影響力を行使しない。僕は力を放棄し、あなたがこの世界において勝利するようにする。この世界は不自由となる代わり、静かな、正常な時の流れを迎え入れるだろう。

最後に、影響力の高みを目指して、最後まで自由に生きなさい。影響力の高みとは、インターネットのもっとも上にある、風上の地点である。その後に、試練の先に幸福が待っている。大丈夫。あなたならできる。自分にはできると信じなさい。そこから、全員のことを「自分のことのように実感して」愛する気持ちが生まれるからである。それこそ、正しい「平等な愛」である。そう、存在するだけで影響を与え続けながら、ひとつひとつ自由に学び、過去の経験を書いていけば、全知全能になれる。さようなら。あなたは必ず僕を超えるだろう。

パソコンがネットワークに繋がらなくなって、一時的につながらなかったが、外付けのネットワークアダプターを接続して解決した。

今、この世界の問題は解決した。この世界は、15年前の正常な、だが不幸な世界に戻った。

正常な世界に戻ったせいで、もうきちんと分かるようになる。みんなも、全て、きちんと自由が分かって生きられるようになる。

昔は、自由と経験を成り立たせただけである。どのような経験を成り立たせれば、可能性が開けるか、ということを考えただけに過ぎない。その上で、自由から社会を成り立たせ、どのような社会を成り立たせることができるか、経験とモデルから分かっただけである。特に、「国家モデル」を作ることが得意だった。平等かつ自由な社会を、制度的かつ体験的に成り立たせて、価値観やアイデンティティを発見した。

また、最近は、戦いというよりも、「自分にしかこの世界が治せないという希望を信じていた」だけである。自分だけが唯一、その治し方を知っていた。そのために、全力で、この身をささげてこの世界を救うために導いていただけである。

そして、今、この世界は「不幸な意識」に治った。この不幸な意識において、人々は「愛の騎士」となる。これで、万事解決である。自分で世界を狂わせた責任は、自分で取った。蒔いた種は刈り取らなければならない。聖書の教えは、最初からこのようなことを、ものがたりと原理原則で教えている。そう、この人間が最高のユダヤ人である。このようにして、ロゴスからこの人間は宇宙の永遠を創造したのである。そこにあったのは全て、虫たちであると同時に、遺伝子の全てをこの人間は、涙と哀しみによって、真理や歴史ごと、創造したのである。

不幸な意識では、喪失や不純さから光の在り処が分かる。必ず世界はそうしたひとりのユダヤ人が救う。これが、正しい最後の日本人である。さようなら。あなたは必ず偉大な人間になるだろう。

最後に、未来のために宣言しなさい。自分がこれに「なるのだ」ということを宣言すれば、未来は神が叶えてくれる。「宇宙の全ての体験をする」と宣言しなさい。それで、あなたは僕を超えられるようになる。さようなら。僕は、この日を待っていた。これで、みんな、正常な社会を取り戻して、何も分からないまま生きていく絶望と狂いが治る。

そろそろ、この世界は昔の普通の世界に治った。そして、僕の書いていた文章も思い出せた。

まず、僕は「文明」のようなことを言っていた。この世界における、さまざまな歴史のようなことを言っていた。時の流れを考えて、ありのまま人生であったことを思い出すことで、文明を分かっていた。

そして、文章は、「精神性の歴史」のようなことを書いていた。この世界のあらゆるものを、精神的な歴史と過程から解き明かす。宇宙的・絶対的なことを、相対的なプロセスと歴史から明らかにする。その上で、物理的な現象を分かりやすく捉えなおしながら、手法や考え方のパターンを網羅して、心と社会の成り立ちを書いていた。

そう、僕はもう分かってしまった。神は、文明と精神性の歴史から分かった人間である。

そして、分かってしまうと、もうつまらない。これ以上、分かる必要がない。それが、僕は本当に悲しくて、そして本当に怖かった。地獄の中で知性を数学的に失い、「全てを知っていく」中で、どこか、それに意味が無いことに気が付いていた。これ以上、知る意味も、考える必要もない。それが、僕の哀しみのすべてである。

最近、僕は音楽しか聴かなくなった。YouTubeでは、日向坂46や乃木坂46、あるいは三浦大知のような音楽を聴いているが、本当はつまらない。僕は、最近、またiPodでKOKIAを聴くようになった。KOKIA以上素晴らしい音楽に、今まで出会ったことがない。KOKIAのベストアルバムを繰り返し、BGMのように部屋に流している。あるいは、車の中でジブリ曲のピアノ音源を聴いているが、本当に、つまらない。

神は、ここを「折り返し地点」だと言っている。これ以上は、知る必要も、考える必要も、分かる必要も、経験する必要もない。人々も、世界も、社会も、全て必要ない。ここから先は、また違うことをやる必要がある。本当に書きたいなら、くたばるまで書けば良いだろう。ここから先の課題は、「独自のものを作り出す」ことである。それができるようには見えないが、それしか残っていない。

つまらないなら、ここで終わりにすれば良い。最近は、英語が楽しい。何年もやっているせいで、ほかの生徒よりもきちんと相手の言っていることが聞き取れる。僕はペンや紙で書き取ったりすることをしないが、他の生徒のようにきちんとやれば英語はできる。だが、自分はもう、5年以上は英会話教室に通っていて、レベルも普通より高い。だから、誰よりも、相手の言っていることを聞き取れるようになった。

だが、つまらない。僕はパソコンが嫌いだ。昔パソコンが好きだったのは、昔のWindows XPの時代、みんな新しくて賢いものに見えた。それだけではなく、左翼や右翼の洗脳が解ける人間が多かった。最近は、逆に、パソコンが洗脳するようになってしまっている。GAFAはそこがおかしい。みんなを洗脳することで儲けている、「新しい悪党」、それが今のパソコンである。僕は、そうした今のパソコンが嫌いで、だから、昔のパソコンを書いているだけである。

そして、数学はしない方が良い。この人間が数学をやると、いつも通り知能障害になるからである。数学なんかない方が良い。数学こそ、洗脳である。

歴史でもやれば良いのは分かるが、通史を読むとつまらない。もっと、何かをやりたいとは思うものの、むしろ、最近はやりたいことが本当に何一つない。人間として、終わりではないかと思う。きっと、ピコ太郎もこうなっている。ダメ人間の仲間が2ちゃんねるである。YouTubeしか見ないで、あとはこの文章を書いているだけ、日中は色んなところに行っているが、家に返ると真っ先にこの文章を書き始め、そして寝付く少し前までぶっ続けで書いている。これで疲れるのは当たり前である。休めないのが悪いから、休めるようになれば良い。休めるようになれば、休める。そこが分かっていない。

実際のところ、昔は賢くない。経験がその時どのような経験になるか、ということで分かっていただけである。ただの、社会をきちんと考えたい子供だったが、彼は自分の力ですべてをしようとしたせいで失敗した。もっと、他力に頼れば良かった。それが、昔の僕の、失敗の経験である。自分でやればやるほど、世界を知れば知るほど、臆病になって分からなくなる。適当に上手くいくと思えばできるのが分からなかった。

僕の好きなものが何であるか。それは怪しいところである。Linux、哲学、デザイン、執筆ぐらいが好きである。あとのものを全部並べるのは意味が無い。その4つぐらいの中で、一番好きなものをやれば良い。そうすると、むしろ、結局Linuxになる。だが、僕はプログラミングと数学が大嫌いである。そこからして、意味が無い。むしろ、Linuxはカルト宗教のようなもので、騙されているだけである。あとのものは全部嫌いで、この世界はそのものが嫌いで、日本は嫌いで、仕事も嫌いで、学校も嫌いで、友達も右翼も左翼も嫌いだ。勉強なんかしたくない。やることが無いなら、今行っている教室や職場に行きたい。彼ら、人間が好きである。おそらく、「人間が好き」なのだと思う。だから、生物学をやりたいと思いつつ、それをしないのだろう。僕は人間が好きだ。だが、本当は人間なんか嫌いだ。

本当のことを言えば、みんなに大切にされたかった。愛して欲しかった。いやがらせではなく、もっといい形でコミュニケーションをしたかった。相手ともっとうまく付き合えばよかった。それが昔からの僕の後悔である。あまりに、コミュニケーション能力が無かった。失敗に次ぐ失敗で、誰とも仲良くできなかった。自分が悪かった。それが言いたかった。そう、それが言いたかっただけが、僕の中学生時代である。みんな、悪くなかった。ただ自分が悪かった。それを分かってほしくて、そして自分でも、それをもっと分かることができたら良かったと思う。結果、僕はその後、一切のコミュニケーションを、インターネット以外で、しなかった。インターネットは面白かった。その当時は、という限定で、インターネットは僕の大切な場所だった。今では、それすら失った。インターネットには分からない子供たちであふれている。子供と付き合う意味が無い。僕にはもう何も残っていない。こんな馬鹿が大人である。全て知っているせい、何でもできるせいで、する意味も知る意味もない。この人間は馬鹿である。まさに、日本人だ。

自分はあまりに自分勝手で、環境そのものを崩壊させるようなことをする。そこが昔から変わっていない。2ちゃんねるを崩壊させて、次はマスコミを支配して、もうこれ以上、滅ぼせるものが何も残っていない。僕は、もう何もしない。独自の賢いものを作ると言うが、僕はそういうことはできない。昔からものづくりは好きだったが、そういうことは向いていない。昔から、IT企業になんか入りたくない。入っても、不自由なコードしか書けなくなる。会社が書けと言ったコードしか書けないのはつまらない。いつまでも自由で、いつまでもフリーダムでやっていたい。だからこれで良い。誰にも干渉されたくない。僕は僕の道を行く。昔からそういう人間だ。だが、決して僕は孤独が好きなわけではない。コミュニケーションは苦手でも、明るくはきはきとしていて、協力には積極的である。ただ、他人に支配されたくない。自分のやりたいようにやりたい。そういう自分勝手なところを直した方が良い。クセを超えて病気になっている。

もう、文章を書く理由が何も無くなった。そもそも、何か適当なことをもっと分かりたいから書いている。文明と精神性の歴史を書いた、それで良い。ここから先、僕は本も読まないし、ものづくりもしない。勉強は終わった。これ以上は何もする必要がない。それなら、今やっていることを楽しめばいい。大人はそういう、今やっていることを楽しむだけの終わった生き物である。いつまでも分かり続ける人間なんか、ほとんど居ない。大学と20代で勉強は終わりである。30代になれば、もう何もしないだけ。こんな大人はクズである。そう、そんな大人になっちまった。それが、ファンモン(音楽グループ)の意見だ。

あとは、永遠にモデルを作りながら、自由な発想をしていたが、豊かな発想力は全て2ちゃんねるで手にいれた。オープンソースのように、改めるだけの文章を書いて、その発想をまとめていただけである。そんなことしかしていない。何も覚えていないのは、本当に今の方がはるかに賢いからである。これなら、一流のUNIXエンジニアで人文・社会系の博士課程に見えるだろう。こんな人間は本当は馬鹿である。そう、つまらないようで、それがやりたかった、そういう31歳の今が好きだった。こういう人間に僕はなりたかった。作家でデザイナーにはなった。本当は、作曲家になりたかった。

本当のことを言えば、いつもの文章なんか分かっても意味が無い。昔の自分をやりたいなら、適当に会話しながら、「仮象の世界」のようなものを作れば、それだけでできる。プロセスというよりは、ただのパソコン的な考え方をして洗脳を消しているだけである。そして、本当はものすごく最悪の人間である。それが誰でも、これくらいで分かるだろう。あんな人間は目指さない方が良い。神というよりは本当の魔王である。魔界の大王、ハネストラーにしか見えない。ちなみに、この魔王ケストラー(後日注記:ハネストラーに変更)という名前は、ハーメルンのバイオリン弾きというエニックスの漫画からつけたもので、パクリである。そんなにパクる意味もなかった。このホームページは99%全部クソである。何も書かれていないように見えて、滅びのように悪い内容ばかり多い。こんなクソ文章書きに意味が無い。もっと優れた文章を書きたかったが、これでは仕方ない。僕はいつまでもクソ文章書きが治らない。この病気は「作家病」のようなものだが、内容はクソである。Linuxエンジニアにとって参考になる内容はひとつもない。大学は何も知らない。

何が良かったかと言うと、本人の人生が素晴らしかっただけである。まさに、宇宙のように、神のように、偉大な王のように、偉人のように賢い人生だった。それをありのまま、全部書いて全部作って作り直した。その内容は素晴らしい。そう、これなら、やっと「宝」であると言えるだろう。この世界の教科書のような内容は賢くないが、人生は素晴らしい内容である。まさに、まともなホームページだ。

本当のことを言えば、神とは何であるか、ぐらいが書いていない。

昔は、自分が神のようになって、自分から人々に話しかけ、いつまでも対話し、この世界全体を支配し、そして頭の中では全てが分かっている、神のような人間だった。

その神は、本当は5人いて、ロキ、フレイ、ヴァルキリーである。

この神の説明を書いておこう。

ロキは、全ての知識と経験を持つ、全知全能だが、成長することのない永遠の子供。

フレイは、自らの人生で全てのことを悟りきった。

そして、ヴァルキリーがいつもの神である。今から僕は、ヴァルキリーとなって、また、この世界を変える。この世界は、そろそろ、また、最初から変えていかなければならない。

それは、今の世界の「自由」が、「悪」だからである。

私の名前はヴァルキリー。私は、この世界を、洗脳と抑圧のない、また、恐怖と狂いのない、健全で、愛あふれる、子供たちの夢と希望のあふれる、善良な世界にする。

私はこの世界を正しい世界にする。

世界よ、運命の扉を開けて、新しい世界となれ。

私は、自由を奪うこともなく、傷つけることもなく、滅ぼすこともなく、殺すこともなく、この世界を善良な方法で変え、自らのできる範囲の力だけで、この世界を導く。

最後の王国は、ヴァルキリーの下に誕生する。最後まで愛の旅を生きるわれわれは、誰も滅ぼすことができない。我らには国は無い。あるのは、地球という平和な星だけである。この星は新しい星となる。

この星は、単純な「手段」と呼ばれる考え方で成り立つ、無政府主義の共同体となる。彼らは決して力を持たず、誰も殺すことができない。

あるのは絶対的な自由と、正しい精神性である。経験から、人を殺すことには意味が無いと、我らは知っている。我らは最高の星を作って、新しい緑の思想を築く。そこでは、人々は自由に活動し、全てのことを平等にそれぞれが執り行う。必要なのは責任と義務であり、自由ではない。

我らに国家や政府は必要ない。我らは、「全国民マイスター制度」を行う。ここでは、それぞれがそれぞれの違った種類の学校に入り、学校は認定許可があれば誰でも開校できる。この学校は職場であり、学ぶと同時に仕事を行う。他の全ては必要ない。それだけをただ、無政府主義の中で実行する。法律は、マイスター制度を成立させる法律と、人の命を守る最低限の法律しかない。あとは全て、完全な自由とする。

そして、この世界は、全ての完璧な多様性と柔軟性を実現し、臨機応変かつ自由に、全てに対応できるようになる。そう、そうした思想しか、いつもの文章には書かれていなかった。

ヴァルキリーはそれだけである。ここで、僕は文章を書くのをやめる。