新・日記2に戻る | 2019年8月の日記に戻る

=2019-08-05=

「楽しい」という感情を、一切感じないと、人間は馬鹿になる。人間は、楽しいと賢くなって、つまらないと不安になる。

そもそもがそういう生き物だから、楽しくないと、人間は馬鹿になる。楽しいだけで、過去のことが正しく思いだせるようになって、頭の良いインテリのような人間になる。そうした人は、怖いことが怖くない。

楽しいことが怖いのは、一度も楽しいことをしなかったからである。2ちゃんねるのコミュニケーションが怖いのは、アングラだからだけではなく、アニメのレイプ画像をみんなで見るような最悪の集団だからである。

僕はそうした人間を否定したいから、自由が嫌いな左翼になっている。

そもそも、いつもの文章は賢くない。思い出すと、社会主義と資本主義を構造的に、平等分配と市場経済のように分析して、あとは自分の人生と宗教的な法則のようなものを書いていただけである。

ただ、抑圧と戦争の中でとても怖い体験をしながら、勇敢に先陣を切って、宇宙と人生のこと全てを本当に悟った文章を書いていたことに対する、諦めきれない何かの感情を、僕は秘めた内の中に持っていただけで、あとはただ、一瞬だけの快感が欲しいから、こういう風になる。

そして、楽しいことを普通に信じれば、昔の人間ができる。昔は、資本主義もインターネットも、今よりももっと楽しかった。そうした、「善意の助け合いと、一体感のある共感と、創造性の進歩と発展」を、「みんなで国を作る自由」から考えた。それだけで、あとは理性的に、構造、習得方法、実現手段、どこに着眼点を持って考えるか、などと言ったことを、「本当に楽しいと思えるようなことをやる」という自由から分かった。あとは、この世界の様相を、自分なりに、自分の愛を持って見つめ、同じように共感することから分かっただけである。

本当は、ただ、子供がこの世界をもっと良い世界にしたかった、という「楽しさ」が賢かったのである。Linuxやオープンソースも、今よりもずっと楽しかった。そういう、楽しさを忘れてしまったせいで、分からない迷いと煩悩の地獄になった。正しい答えは、「楽しさ」である。