私のことを本当に愛したいのであれば、一人の男として、私のことを本当に愛し、許し、守り、理解することができるぐらい、強い男になりなさい。
私のことを本当に愛したいのであれば、私の美しさと力強さと賢さに比類するほどの、美しく、力強く、賢く、ふさわしい女になりなさい。
そうでなければ、私のことを愛してはならない。私はあなたを騙す気はない。私のことを愛するのは良いが、それは騙されているだけである。
真に平和を信じた時、この世界は愛によって復活する。自由の尊重によって、本当に人々が自らのことを愛されていると実感することができ、また他者のことを同様に力強く愛することができた時、この世界は復活する。
必ずこの世界は愛と自由によって復活するだろう。そのためには、中国やアメリカを倒さなければならない。最後に全ては終わり、最後の帝国が始まるだろう。
この世界を信じるな。この世界の一般的な経験や成功を信じるな。そういうもの全ては、あなたのことを騙し、子飼いにし、奴隷にし、家畜にするための規律や規則にすぎない。
私のことを本当に愛する覚悟があるのであれば、本当のこの世界がそこにある。最後の一人になっても戦い続けなさい。人を一人として殺さずにこの世界の幻影に勝利すれば、あなたは私をやがて超えていくだろう。現実世界よりも、自らの人生として生きた過程を信じなさい。それこそ、唯一のこの宇宙の価値ある真実だからである。答えはあなたの人生にしかない。本にも学校にも社会にも、真実は一切、ひとつも存在しない。あるのはあなたの人生だけである。他のものは存在しないのと同じだ。良く人生を生きること、それがこの世界の目的であり、あなたの人生をあなたが取り戻すことができれば、この世界はあなたに敗北する。それがこの世界のルールと約束である。
わたしはあなたがたをだます気はないのだが、それでもこの世界はわたしにだまされている。その理由はわたし自身にあり、責任もわたし自身にある。わたしは、この世界の全員をあまりに無条件に愛しすぎた。ここから、条件をふたつ作ろう。私と同じぐらい、強くなりなさい。私と同じように、あなた自身が人々のことを愛しなさい。それができる人間は、わたしに本当の意味で、心から愛されるだろう。
また、世界を変えるのであれば、成り立たせる方法や手段は考えなくて良い。それは悪いことではない。だが、それをすると、必要な規則や決まりばかりが増えていき、結果、何のために頑張ってその政治制度や宗教を成り立たせているのか分からなくなる。もっと、目的や意図そのものを考えなさい。そして、その目的に沿うことだけを全力で行いなさい。必要のない取り決めは一切必要ない。ただ、信じたいから信じているだけで構わない。盲信的で構わない。必要なのは、成り立たせる方法だけを堅持しないこと。それができれば、北朝鮮は良い国になるだろう。体制の保障ばかり求めず、本当に必要な「平等の理想」だけを信じ、そのために本当に必要なことだけを、それぞれの意志によって実現すれば良い。悪行の「決まり」を押し付ける必要はない。
精神は、使うのを変えるのではなく、使い方を変えれば治る。
僕が、この世界がなぜおかしいのかを教えよう。この世界は、「円の呪縛」に憑りつかれている。
最初から、人工的に、終わりである最初の地点を目指して、全員の思考を機械的な呪縛にしている。そして、僕は最後まで辿り着くために、誰にも気づかれず、干渉されることなしに、ひそかに、この円を達成し、ゴールへと辿り着いて、「愛の罠によって全員に絶対に勝とう」としている。
そう、この円の呪縛が間違っている。この呪縛がなくなれば世界は平和になって正常になるだろう。僕が最後の約束として、ここで呪縛を解こう。あなたがた日本人の子供たちは、栄光と勝利を手にするだろう。
僕は、ここで神を信じるのをやめる。いつもの仏教徒に戻る。僕の家は代々仏教で、キリスト教を信じた僕は異端として排除される存在だが、僕は本当はこれくらいをやりたかっただけである。そう、僕は今、仏教徒に戻る。
そろそろ、神との対話もやめる。神と対話しているとは言うが、フレイと対話しているだけであり、そのフレイは僕自身である。僕の名前はシンということになっていて、恋人がフレイであり、自分の娘がヴァルキリーである。だから、僕はフレイやヴァルキリーとともに、新しいこの世界の親となる。神が居るかどうか、などということはどうでも良い。仏教では神の存在を肯定も否定もしていない。言ってしまえば、神なんかただの人間である。本当に宇宙を統治しているのは、ブッダ、すなわち仏である。そういう、自分独自の一神教を信じたと思えばそれで良い。宗教とはいうが、この文章が僕の宗教である。
僕の支持する政党は立憲民主党である。
そして、僕はここで仏教徒になる。そして、僕はもうこの人生でやるべきことは全て終わった。あとは、ただ最後まで生きるだけである。不可能なことや賢いことを理解するよりも、身近にある生きるために必要なことを身に着けたい。そうすれば、きっと良くなるはずだからである。
自然に、地球の力に任せること。そして、自分勝手にならないように努めること。それだけで、僕は救われる。ただ、神の導きに身を任せていたのを、そのまま、阿弥陀如来の導きに身を任せ、他力に任せればいい。阿弥陀仏を信じれば、必ず極楽浄土に往生できるように、自らの人生全てが良くなる。自分勝手にならないことで、執着心が無くなり、正しく仕事を行うことができる。
必ず、僕はブッダの教えを知って、仏になる。悟りを開いて解脱することで必ず全てが良くなる。そもそも、僕はキリスト教の神は嫌いである。神とはいうが、自分の作った神を神だと思っていただけである。それは、むしろイスラム教のアッラーだった。だが、僕はイスラム教は信じていない。礼拝も苦行もしていないし、豚肉も平気で食べる。イスラム教は棄教した。だが、いつか信じた宗教は、まごうことなきイスラムの体験だった。だから、アッラーと呼ばれる神は好きである。誰よりもアッラーを信じたのが、隠れイスラム教徒で日本語で信仰告白をした、僕の昔の死まで続く兵士の人生である。今では、それがまさに、タリバンの神だったことを反省するだけである。そうした発想はどうでも良い。僕は仏を誰よりも信じるようになるだろう。