今、作業所でレオナルド・ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」をIllustratorでトレースしている。トレースとは、簡単に言えば上から輪郭をなぞって同じ絵を描くこと。
本当の模写ではないが、これでスキルアップしたいと思っている。
最後の晩餐をやっていると、とても「手が綺麗」である。キリストの弟子の手や指をとても綺麗に描いてある。
模写を始めたのは僕の個人的な理由で、仕事が入ってきた時は仕事の方をやる。今日は仕事がなかったため、トレースに時間を割くことができた。
だが、明日は仕事をやることにしたいと思う。
自分は、そろそろ、賢い意味が無い。賢い人間になっても、良いことはもうない。
これ以上は、馬鹿になった方が良い。馬鹿になると、きちんとできるようになる。それで、自分の人格が分からない人格障害も治る。普通に、馬鹿になれば良い。
昔は、成長を分かっていた。この世界をじかに見ながら、人々がインターネットでどんな反応を知るかを知って、そのまま心理的な体験をし、成長全てを吸収して「成長を成立」させるかのように、成長の全てを分かっていた。
僕は、社会のことを見て、もっと成長したいと思う。そのためには、たくさんの辛いことや悲しいことを経験しなければならない。乗り越えることが成長だからである。
昔は、成長なんかしていない。昔の自分を成長だと思うから、成長できないのである。昔は堕落して怠けて遊んでいるだけに過ぎない。
昔は、反応から分かっていた。人々の共感を知り、「他人の辛さや悲しさを分かち合うこと」から分かっていた。昔、哲学ができたのは、そうした人々の声を一身に聞いていたからである。そして、そうした人々を救えるような、「大切な真実の体験」をしていた。
そういうわけで、昔の自分はもう忘れた方が良い。今から僕は賢くなる。そのために必要なのは、「適度に馬鹿になること」である。