新・日記2に戻る | 2019年7月の日記に戻る

=2019-07-24=

アラブの民話を読んでいると、仏教や哲学について知りたくなってきた。

イスラム教は仏教と全く違うし、西洋哲学とも違う。だが、その歴史的な存在の姿かたちは、かっこよく、格調高い。

僕は、昔の自分が考えた「哲学的考え方」のようなことを思い出すことができた。

名前をつけなさい。一度言葉にして名前をつければ、それは忘れることなく、分からなくなっても残る。また、この世界における「意味」と「認識」を結び付けて考えられる。

一部と全体から考えなさい。たとえば、木は山の一部であり、人間社会は地球の一部である。そして、地球はただひとつ、ありのまま、唯一の存在としてある。これは決して歴史が白紙であるということではないが、地球がかけがえのない大切な人類と生命の故郷であると知ることができる。

人間には、悲惨しかない。悲惨な経験を誰よりもした人間は、全ての人間の人生を知らなくても、全員の今の悲惨さを共有し、同じように考えることができる。

決して、人間には経験したことしか分からないわけではない。経験したことがなくても、「同じ前提となる環境」を想定し、「同じ立場と条件」で考えれば、他の人間の経験をせずとも、その人間の経験を吸収できる。人間を言葉と知と理解から積み重ねることができる。

だが、実際に自分で体験しなければ分からないことというのはある。悲惨を生きて、経験して、その後に全てのことを同じように考え、最後に誰も経験したことのないことを経験すれば、人間は宇宙の全てが分かる。

実際の事物を、ありのままの「実質的な実像の考え方」で考えなさい。これは、そのものが何であって、どのように在って、人間はそれを何だと思っていて、どのようにそのものを変えられるか、あるいは変えずに残すことができるのか、ということである。

自分の行動に対して、自然がどのような反応を示すのか、そしてそこにはどのような作用と結果が生まれるのかを考えなさい。そこから目的と手段を考えることで、応用することができる。そして、原理原則を発見することで、それらをベースに新しい知恵を自分においても他人への伝承においても作り出すことができる。それは発明と言う。そして、発明の中でも、より基礎的な「バックボーン」を知ることで、「全ての発明を作り出すような発明」をすることができる。これは発見と言う。そして、発見は、仮説を立て、現状を知り、想定し、分析し、そして実験からどのような原因があるかを知り、どのような前提条件があると特定の因果性から見つけ、その前提条件から何が成り立つかを知り、どのように考えれば説明できるかを知り、その再現性を確かめて、経験をモデルにして提示し意見していくプロセスのことである。発見は自分だけで行われるのではなく、社会全体における自分の役割を知りながら、社会全体が発展し進歩していくことに貢献するために、過去のさまざまな知識全てを継承するとともに、それを自分の中に再構築して、自分が自分で自分の考え方から「再理解」していくことで、知識を「体得」して生まれていく。そこには全ての先入観が消え去って、社会の全ては「可能性のひとつ」に過ぎないことが分かる。そこから、「歴史を新しく変えられる可能性」を知ることができるのである。また、仏教的な精神論は、何をどのように「解決」するか、その解決のために「何が必要であるか」を知ることで、逆にその「真理」が「どのような効果を実際に与えるか」を知ることで、「全てのことが可能になるという真理」である「可能性と自由」が生まれる。

数学や自然科学よりも、社会科学や歴史、あるいは人物の考え方を知りなさい。数学や物理や生物を学んでも、何も分からない。必要なのは全て、歴史であるとともに、名前をつけながら変化を観察することである。そして、世界を自分の手で知っていく「知るための方法」を、社会を知っていく「実地的な現場の経験」から試し改めることで、新しい精神科学がそこに生まれる。

そう、これが僕の哲学である。

人間には何も知り得ない。だが、そこには必ず可能性という名前の進歩がある。地球はまだ、太陽が最後の爆発を起こして地球が飲み込まれるまで、10億年はあり続けるだろう。ただし、人類はそこには居ないだろう。