昔は、「精神を融和して言葉を言い表す」ということで分かっていた。
たくさんのネットの経験を繰り返して、精神を分析するうちに、経験と認識から正しい認識の仕方が分かるようになった。その上で、精神を融和し、言葉に表すことで分かっていた。
だが、最近は、それが辛い。精神を融和して言葉を言い表すのが辛いだけである。
だから、精神を融和するのをやめれば、すぐに治る。怖いのは、いつか精神が言い表せなくなった時が怖いだけである。
また、昔は自由だったのに、最近はみんなを不自由にするようになった。昔は、みんなを自由にして、できるようにした上で、自分は何もせず、相手も何もしないで良いとして、その上で相手の自由に任せることが好きだった。
最近は、ただみんなの自由を奪っているだけの愚かな人間である。
もう一度、みんなを自由にしよう。みんなをできるようにした上で、何もさせなければ良い。自分はみんなに、できていい、と言う。そして、できていいことにした上で、みんなが何もしなくて良いことにすれば、みんなは自由になる。それで、この世界は救われる。
みんな、自由になれ。もう、みんなは、自由になって良いと思う。好きなように生きてほしい。
だが、昔の僕は、ただ自由にするだけでなかった。自由にした上で、何をすべきなのかを「これをすべきだと教える」という「アドバイスと助言」から分かっていた。そのために考え、そのために経験し、そのために「人が自由になった時にどうなるか」ということを研究した。それが、僕の言う、「社会全てを自由化する」ということである。そして、それは多くの場合、「可能性を許すことから社会制度を変える」ということだった。そこから、仮定と成立を考え、経験的過程を知ることで、この世界の「共生社会」を作っていた。それが、僕の文章だった。
僕は、自分が分かったこと、理解したことは、他人でも僕本人が教えれば分かると考えていた。分かった本人が教えるべきだと考えていた。
それは、多くの理解が、普遍的であるということを知っているからだった。誰もが僕と同じように分かれば、それで正しく分かる。そのために、僕は融和の精神を作った。僕の精神が融和するだけではなく、人々と理解し合うことで、僕の精神は他人とも融和する。理解し合うことができれば、この世界は平等になり、平等から不必要な苦しみがなくなって、社会は自然に自由へと向かう。それが、僕の言う、「自由な未来」だった。そして、そのためにできることは必ず僕自身の中にあり、きちんとやれば僕でも世界を変え導いていけると考えていた。
また、僕の一番の強みとは、地獄を知っていることである。地獄の中で神が語りかけ、世界の果てまでこの世界を支配するという、「地獄の経験」を知っている。これが、今、僕の強みになっている。全てのことを、書いたこと、考えたこと、体験したことだけで、正しく大人のように分かっているからである。絶対に間違いをせず、正しいことはすぐに分かる。人々がなぜ分からないのかが分かり、自分がなぜ分かるのかを誰よりも知っている。そして、文章に書くことで、研究や創作の際に起き得る全ての危機やリスクと対処法を知っている。だから、僕は何でもできる。これが、正しい才能のある人間である。個性を優先していれば、必ず誰よりも賢くなるだろう。